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非哲学に関するcontractioのブックマーク (5)

  • ラリュエルの構造(2):否定神学的構造の手前における世俗性|千葉雅也

    さて、ラリュエルの話の続きなのだが。しかし「ラリュエリアン」と言うと宗教臭い感じがするのは気のせいだろうか…… 前回、柄谷-東の否定神学批判との類似を指摘したが、だからフランスと日で別経路で同じような「発見」がなされたことになる。自然科学ではそういうことがよくあるが、人文学でもあることなのだ。 否定神学的構造の外部をどう考えるかは、2010年前後にメイヤスーなど思弁的実在論において共通の問題となった。しかし東は90年代末にその問題に輪郭を与えていたし、遡ればラリュエルがある意味最も戦略的に「そこを狙っていた」わけである。21世紀には、構造的必然として、皆がそれについて語ることになった。 浅田彰が『構造と力』で示した有名なクラインの壷モデルでは、(i)内部と外部の二項対立があり、そして(ii)内部なのか外部なのか決定不可能なもの=Xがあってそれがクライン管を循環している。東は、この「内部/

    ラリュエルの構造(2):否定神学的構造の手前における世俗性|千葉雅也
    contractio
    contractio 2020/06/11
    途中までしか読めない。
  • ラリュエルの構造(1)|千葉雅也

    コロナ蟄居状態でなんとなくラリュエルのあれを読もうという気になり、Kindleで買った『普通の人のバイオグラフィ』を読んで、別の(『哲学と非哲学』とか『非哲学の原理』といった主著)とつながって考えがまとまってきたので、後々論文にするつもりでノートを書いておきたい。 で、ラリュエルとは誰か。1937年生まれ。世代的にはドゥルーズ、デリダより下で、バディウと同い年である(『アンチ・バディウ』というもある →書評)。フランス現代思想のきら星時代にナンテール(パリ第10大学)にいて、僕はマラブーさんに教わるためにナンテールに行っていたのだが、そのときに授業に出たことがある。とてもジェントルなお爺さんで、でも授業にはなぜかフランス人はおらず、アジア系、とくに韓国の留学生が多かった。聞くところでは韓国で熱心に読まれているという。フランス国内にはややカルト的な信者、弟子筋がいるようだが、一般にはあま

    ラリュエルの構造(1)|千葉雅也
  • 公募論文 「非-哲学」の地平を開く藝術--後期メルロ=ポンティの出発点 | CiNii Research

    contractio
    contractio 2019/04/02
    図書館にあり。/本郷 均(2004)「「非-哲学」の地平を開く藝術:後期メルロ=ポンティの出発点」 フィロソフィア (92), 33-51, 早稲田大学哲学会.
  • メルロ=ポンティと言語の「魅惑的機能」 | CiNii Research

    contractio
    contractio 2019/04/02
    「非哲学+ポンティ」の検索結果/ミシェル・ダリシエ(2016)「メルロ=ポンティと言語の「魅惑的機能」」 酒井麻依子・佐野泰之訳, 立命館大学人文科学研究所紀要 (107), 177-213 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/ki_107.html
  • 非哲学的な人が無視している「語義の個人差」

    みなさま、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします、とこう挨拶しましたが、かつて(そうですね、35年前にヨーロッパから帰ってきて、日中にあふれる無意味な言葉の洪水に嫌気がさしていたころから最近まで)こういう言葉を使うのがとても嫌でした。 というのは、私はそのころすべて言葉は「正確に」に使うべきだと考えていましたから、「明けまして」と「おめでとう」との結びつきが、理由と帰結のようで、気持ちが悪かった。「明けました」そして他の何らかの理由で「おめでとう」というのならいいのですが、「明けました」からといってただちに「おめでとう」というわけでもあるまい、というわけです。 しかし5年くらい前からでしょうか、私はこの見解をラディカルに変えるようになった。それは、大部分の非哲学的な人(すなわち人類の99パーセント)が考えるように、「挨拶とは、正確な意味を伝えるための行為なの

    非哲学的な人が無視している「語義の個人差」
    contractio
    contractio 2019/04/02
    「「カントはこう言っている」とか「ヘーゲルはそう考えている」と発言すると、ムッとした顔で」からの、「いつも、ポール・ヴァレリーの言葉を引いて」
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