昨日までのミスコン談義が紛糾しているのは、ミスコン推進論者が、容姿を評価されることは当人にとっての利益である(ゆえにわれわれの評価は恩沢である)、と無邪気に信じているからなんだろうな。それが搾取の一形態であることに気づいていないという。
大変な状況だからこそ、お互いの事を信頼し、前向きな遣り取りが出来る事をどらねこは願っています。そんな気持ちで思うところを正直に書いてみました。 ■ボクたちはそんな風に社会化された 小さい頃、『知らないおぢさん(人)についていってはイケナイよ』、そんなふうな話をされた記憶があります。知らない人が全部アブナイわけじゃない、中にはイイ人もいるのかもしれないけれど、知ってる人よりアブナイことはたしかです。子どもにはその人がアブナイ人なのかイイ人なのかの判断はとても難しい。だから本当はアブナイおぢさんじゃないのかもしれないけれど、知ってる人より知らない人のほうがアブナイのは事実だから、知らないおぢさんにはついていかないように、と教えることでリスクの回避を図るわけですね。でも、それってつまり、そう教えないと子どもは知らないおぢさんにでもついていくってことだよね。じゃあ、どうして知らないおぢさんでもつい
3・11から3ヶ月が過ぎようとしている。 もう何年も生きてきたような気持ちだ。 最初の数週間は、不安を押し殺しながら、夢中で過ごしたように思う。 水がない。 電気がない。 ガスもこない。 ガソリンもない。 食料も少なくなった。 生活物資も滞ってきた。 でも、被災した方々に比べたらはるかにましだ。 わたしたちがおろおろして、ここでの生活を投げ出したらどうなる。 患者さんは、妊婦さんは、お母さんは、赤ちゃんは、どうなる。 毎日、そんな思いで過ごした。 日々、刻々と変わる放射線レベルに、不安になる親御さんがたくさんいた。 わたしたちなりに、必死に情報を集め、その時に正しいと思う情報を伝えてきた。 今もその考えは、同じだ。 4月になって、県内のほとんどの学校が再開した。 遅れて卒業式をやった学校もあった。 ・・・・・ここまでは、よかった。 4月中旬、文科省の「年間20mSv」という基準が発表されて
なんか、あまりきれいじゃないタイトルが多いですが、こういう話題は好まない方もいらっしゃるので、スルーしていただけるように、タイトルは具体的にしております。 でも、こういう課題に限って学校ではやってもらえないし、すんなりとはいかないんですよね。 1.やっぱりきたか 6月頃、学校から送られてきた耳鼻科検診の結果に 「耳垢がたまっています。・・・・掃除しましょう。」 と、書かれていました。(「一週間に一度は・・・」とか書いてあった気がします。) 今年もまた、きてしまった。 こういうことにいつも気を配ってしていらっしゃる方には信じられないかもしれませんが、 実は、ひさ吉は、ここ数年、ほとんど耳掃除というものをしたことがありません。 ふつーに考えると、とても恐ろしいことですが。。。 (まだ、本人が幼くて力が弱い頃に、押さえつけて耳鼻科でしてもらったことはあります。) 当然、毎年、春になると学校のほう
子どもが小さい頃にね、子どもを連れてお散歩していて。建設中のおうちがあったりすると時々夫が言ったの、小さい声で「ああ、危ないなあ」って。 何が?って聞くと、アレは地震で危ないよって。建築設計の仕事をしている彼が、家の構造上こういう風に力が入るとこういう風に強い構造と、こういう風に力が加わったときにここがこう弱くなる構造があって、とか説明してくれる。あそこはあの骨組みがこう弱い構造のまま建設されていくだろうと、だから危ないよって。 そんなことを聞くとわたしはそわそわしてしまって、誰かにそれを言わなくてもいいの?って聞く。いや、あの構造でも商品としては成立するから仕方ないよ、でも自分はアレは地震に危ないと思うけどね、と。 その数年後に自分たちが家を建てることになった。夫は毎日家で自宅になる家の図面を引いてた。工務店と材料から相談してた。予算はぎりぎりだから、どこの材料をどう落とすか、安い材料は
最近「ただちに影響のあるレベルではない」という言い回しがいろいろなところで批判されているようだ。テレビやらネットやらで、政府の発表をちょいちょい見ているけど、個人的な感想としては「慎重すぎて何も言ってないのと同じ」という場合はあっても、「ウソをついている」ことはなかったと感じた。「慎重すぎる」ということについても、これだけ不確定な要素が多い中では、誠実な態度ではあったと思う。 そんな中、こんなコピペをいろいろなところで見かけた。 「大丈夫?」っていうと、 「大丈夫」っていう。 「漏れてない?」っていうと、 「漏れてない」っていう。 「安全?」っていうと、 「安全」っていう。 そうして、あとでこわくなって、 「でも本当はちょっと漏れてる?」っていうと、 「ちょっと漏れてる」っていう。 こだまでしょうか。 いいえ、枝野です。 まあただのジョークだろうとは思うけど、これが風刺として成り立っている
気になる記事をスクラップできます。保存した記事は、マイページでスマホ、タブレットからでもご確認頂けます。※会員限定 無料会員登録 詳細 | ログイン 先週の今ごろ、私は、当欄のためにホワイトデー商戦の衰退に関する原稿を書いていた。 なんとお気楽な原稿であったことだろう。 信じられない。半年前の出来事みたいだ。 それだけ、私の頭の中味がすっかり入れ替わっているということだ。 実際、この一週間で、すべての状況は変わってしまった。 ホワイトデーの当日、私は、しばらくぶりにクルマを運転していた。計画停電(のアナウンス)の影響で電車が止まっている地域に顔を出さねばならない用件があったからだ。本心を言えば、燃料不足の折、なるべくなら自動車を動かしたくはなかった。 ところが、ハンドルを握ってみると、ドライブは快適だった。縮こまっていた心が息を吹き返すみたいに感じられた。それもそのはず、地震発生からこっち
東北地方太平洋沖地震による発電所の被害が原因で、東日本が電力不足になるという話を受け、自主的な節電キャンペーンが広がっています(通称ヤシマ作戦)。 節電運動 2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震で、福島県の原発など東京電力および東北電力の発電設備にも大きな打撃を受けたため、政府と電力会社が停電を避けるために広範囲な節電を呼びかけたことが、上記の「エヴァ」作品上の作戦と類似していたことから、twitterなどを中心に「ヤシマ作戦」と呼ぶようになり、アニメ公式ブログでも追認した ヤシマ作戦とは - はてなキーワード これに賛成している人の中に「みんな節電してるのにあいつは電気を無駄に使っている!」という意見が出始めているので、少し話させてください。 無駄に思えるあのネオン広告。消えたら辺りが真っ暗になりませんか? 非常時だというのに営業しているお店、閉まったら困る人がいませんか? そこに
丹埜倫 @rontanno 「あれほど」が何を指すのか分かり兼ねますが、僕は小学校教育だと思いますね。イギリスの全寮制から小6で日本の公立小学校に転校したときの衝撃は忘れません。同一性を重んずるという意味では、正直カルトに近いものを感じました。@daijapan なぜ日本人は偏りをあれほど嫌うのか 2010-12-15 02:00:50 爲末大 Dai Tamesue 熟達論発売中 @daijapan 偏ってないってことは誰かと替えがきく存在になるって事だと思うんですけどね RT @RonTanno: 「あれほど」が何を指すのか分かり兼ねますが、僕は小学校教育だと思いますね。イギリスの全寮制から小6で日本の公立小学校に転校したときの衝撃は忘れません。同一性を重んずるという意味で 2010-12-15 02:12:24 丹埜倫 @rontanno 全くその通り。同一性が求められる単純作業は今
簡易検査はするべきではない? 北秋田市の病院でインフルエンザの集団感染があった。簡易検査では陰性だったが死亡した患者もいたと報道された*1。インフルエンザ迅速診断キットの感度は高くない、つまり、インフルエンザに感染していても検査結果で陰性と出やすいことはよく知られている。あらゆる検査と同様に、インフルエンザの簡易検査は感度・特異度を理解の上に使うべきである*2。当たり前の話。しかし、まれに、インフルエンザの患者に対して、簡易検査をするべきではない、簡易検査をする意味は何もないと誤解している人もいる。 ■Open ブログ: ◆ 簡易検査による死者増加*3 要するに、簡易検査をする意味は、何もない。 ・ 検査で陽性ならば → 抗インフルエンザ薬の投与 ・ 検査で陰性ならば → 抗インフルエンザ薬の投与 (様子見、は間違い。) つまり、どっちみち、「抗インフルエンザ薬の投与」である。投与するか否
前回の記事「『消極的義務』の倫理――『トロッコ問題』の哲学者フィリパ・フットとその影響」では書ききれなかったネタがあふれるほど余っているので、おまけとしてそのいくつかを書いてみる。というのも、サンデルの授業で紹介されているだけでなく、最近おこなわれた中森明夫さんと宮台真司さんのイベントでこの「トロッコ問題」が取り上げられるなど(宮台さんはちょっと間違って覚えていたようだけれど)、ここのところトロッコ問題への関心が高まっているようなので、もうちょっとこのサンデルブーム、トロッコ問題ブーム(?)に便乗してみようかと。 まず最初に、トロッコ問題というかこの種の思考実験へのよく聞く異議申し立てとして、思考実験の設定自体が人工的すぎる、という意見がよく見られる。これにもいくつかパターンがあるけれども、一つは作業員の人数が五人対一人と言ってもその人たちが誰であるかによって答えが違ってくるではないかとい
「10代のセックスや麻薬についてオランダから学ぶべき」と言うアメリカ人の記事に反響多数 海外と一口に言っても世界は広しで、政治問題から恋愛までトピックごとに文化や土地柄の差があり、国によって特色は大きく変わってきます。 どこの国が正しいと言った判断は難しいとしても、よその国の基準を知ることは参考になるものです。 オランダの10代の性についての扱いを、アメリカ人が感心している記事が話題を呼んでいました。 TIME紙の記事によると、オランダ人は性や麻薬に対し、他の先進国に比べて非常に開放的な捉え方をしており、限定された条件においては大麻の使用と販売が喫茶店で許可されていたり、アムステルダムの赤線地区では堂々と売春が行われているとのことです。 そして、いわゆる実用主義であるオランダでは、刑罰を与えて禁止するよりベターであるという考え方のようで、各種データも彼らの考え方を支える結果となっています。
解説 ソーシャルインクルージョンは、「全ての人々を孤独や孤立、排除や摩擦から援護し、健康で文化的な生活の実現につなげるよう、社会の構成員として包み支え合う」という理念である。EUやその加盟国では、近年の社会福祉の再編にあたって、社会的排除(失業、技術および所得の低さ、粗末な住宅、犯罪率の高さ、健康状態の悪さおよび家庭崩壊などの、互いに関連する複数の問題を抱えた個人、あるいは地域)に対処する戦略として、その中心的政策課題のひとつとされている。 ソーシャルインクルージョンは、近年の日本の福祉や労働施策の改革とその連携にもかかわりの深いテーマである。2000年12月に厚生省(当時)でまとめられた「社会的な援護を要する人々に対する社会福祉のあり方に関する検討会報告書」には、社会的に弱い立場にある人々を社会の一員として包み支え合う、ソーシャルインクルージョンの理念を進めることを提言している。 一方、
拙著『俺俺』の中で、【以下、ネタバレあり】「俺」化しない人たちが出てくる。「外国人」である。曖昧に「外国人」としか書いていないので、「外国籍」なのか、「外国育ち」なのか、「外国籍の親を持つ」なのか、わからない。要するに、日本社会の中で「異質」と見なされるがゆえに、「俺」社会からハズレることを恐れて「俺」化していく、という過程からも自由である立場の人たちである。もちろん、「外国人」でない人でも、そのような人はたくさんいる。が、小説では、あえて「外国人」に限った。なぜなら、視点人物が「俺」だからだ。「俺」には、そのような立場の人間が「外国人」として見える、というわけだ。 『俺俺』を読んでくださった方で、自分は「外国人」の側にシンパシーを感じる、という感想もいくつかあった。じつは、これまで私は基本的に、『俺俺』で言う「外国人」の側から小説を書こうとしてきた。かくかくしかじかのマイナーな存在は、現
この間の事なんだが、俺んちで、俺・おかん・俺の彼女の3人でテレビ見ながら飯食ってた。 ニュース番組のローカル情報コーナーで、どっかの花火大会のリポートをやっていたんだが、映像の最後に花火を見てた人の横顔がどアップで映し出された。 その顔が、まあお世辞にもあまり画面映りが良くなく、俺とおかんは「綺麗な花火のリポートしといてシメにこの映像かよwwww」みたいな感じで笑ってた。まあ、よくある団らんの風景だ。 だが、この会話に参加せず黙って聞いてた彼女が箸をとめて、いきなり俺とおかんに真顔で抗議してきた。 彼女の主張は平たく言うとこうだ。 人の外見的な特徴を笑いの種にするのは許せない。そんな話はすぐやめろ。 確かに正論だが、俺とおかんは楽しいテレビを見ながらの楽しい食事の空気が一瞬固まったので、マジで驚いた。俺は楽しい雰囲気を取り戻すべく、「別にあのテレビの人をは知り合いでも何でもないし、本人に聞
神名龍子 『不美人論』(藤野美奈子・西研、径書房)という本がある。直接的にはタイトルの通り「ブス」が抱える問題を中心に据えたものであり、具体的にどのような問題があるのか、それについてどのように考えればよいのかということが、対談形式でわかりやすく、しかし深く掘り下げて語られている。そしてなお興味深いことは、これが「不美人」に限った問題ではなく、かなり深いところで「女性一般」についての論とつながっているということなのだ。今回は本書を中心に、他の本や論文なども参照しつつ、そういう問題を取り上げて考えてみたい。 『不美人論』の初めの方で強く印象に残るのは、かつて藤野さんが「きれいになりたい」と「人として立派に」を相反するものと考え、両者の間で葛藤に引き裂かれる思いをしたということである。地方の高校、それも進学校に通っていた時代には、他者からの評価の基準は「成績」だった。言いかえれば、女の子の評価
雑記四方を壁に囲まれたような狭さ僕のwebはGoogleとはてブとTwitterで狭くなった。狭くなった、と書くと否定的な言葉のように感じるけれど、逆に言えば手の届く範囲が広がって、未知の出会いというか、宝石的な何かを拾う機会が少なくなった。つまり、僕の中のwebが凄く型にはまった、金太郎飴的な何かに変っていったということ。観測範囲という意味では劇的に広がった。そう、見渡せる世界、視野的な観点から見ると確実に広くなった。なのに、僕自身はwebに狭さを感じているんですよ。Googleは僕の目をさらに見えるようにしたあのサイトのリンクを辿ってこのサイトに……といったある種、原始的なネットサーフィンの形は今の僕の中にはない。なぜなら、僕はGoogleを日常的に使っているから。ワードを入力すれば、大抵、僕の望んでいる情報が手に入る。Googleは確実に僕のリーチを伸ばした。はてブはどんなwebサイ
既に,春と言っても良い陽気でした。ハマダイコン咲き乱れる水田脇の奥にナベヅルのペア。この時期は,餌が枯渇するのと馴化が進むので,割と距離が詰められます。 Canon EOS Kiss D N, Schneider-Kreuznach Curtagon 1:2.8/35mm 温暖化の話題ばかりの冬が終わろうとしてます。昨日もその影響でスケジュールが変わりました。ヘルプを貰おうと思っていた方のメロン畑の出荷が予定より早く始まってしまったのです。暖冬の影響と云うことですが,それが温暖化の影響と言い換えられるのが当たり前になる日が既に来ています。 Canon EOS Kiss D N, Schneider-Kreuznach Curtagon 1:2.8/35mm 下の画もそうですが,クリックしていただくとこのレンズの細密感のある画質のイメージが伝わると思います。 ワンドのツルヨシ。浄化の機能を持
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