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竹内好に関するPledgeCrewのブックマーク (3)

  • 村上春樹と竹内好―「近代」の二重性をめぐって - 梶ピエールのブログ

    http://blog.tatsuru.com/2009/06/06_1907.phpより。 ムラカミ・ワールドは「コスモロジカルに邪悪なもの」の侵入を「センチネル」(歩哨)の役を任じる主人公たちがチームを組んでい止めるという神話的な話型を持っている。 『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』、『アフターダーク』、『かえるくん、東京を救う』・・・どれも、その基構造は変わらない。 「邪悪なもの」は物語ごとにさまざまな意匠(「やみくろ」や「ワタナベノボル」や「みみず」などなど)をまとって繰り返し登場する。 この神話構造については、エルサレム賞のスピーチで村上春樹自身が語った「壁と卵」の比喩を思い浮かべれば、理解に難くないはずである。 このスピーチでは、「邪悪なもの」とは「システム」と呼ばれた。 「システム」はもともとは「人間が作り出した

    村上春樹と竹内好―「近代」の二重性をめぐって - 梶ピエールのブログ
  • 死の文化その3 魯迅 - Arisanのノート

    おとといのエントリーの続き。 鵜飼哲さんの書いていた「死の文化」ということから、ぼく自身のなかの、武士文化や土俗的な死生観の存在の可能性を考えてきた。そうしたものが、現在の社会に見られる、自分や他人の生命に対する冷淡な態度のひとつの根になっているのではないかと考えたからだ。ここでは、いわゆる「新自由主義」や「近代」そのものといった世界的な要素(別の根)は、とりあえず括弧に入れている。 このことにぼくが関心を持つのは、いまの社会の風潮と思われるものに、たんに危機感を抱いているからだけではない。 もし、ぼくが考えているように、このいわば「伝統的」な根というものが、ぼくの中や社会全体に存在するとすれば、それを目の前にしっかり対象としてとらえた上で、いまの社会の問題、たとえば就労ばかりでなく政治・社会や結婚、人間関係に対しても「自発的」になれない人たちが増えているというふうな事柄への対処は、個人

    死の文化その3 魯迅 - Arisanのノート
    PledgeCrew
    PledgeCrew 2009/05/02
    「魯迅]
  • 竹内好について - tukinohaのアニメじゃない日記

    ゼミの後輩が竹内好についての発表を行ったのを聞いて、個人的にも竹内の書いた文章を読み直してみた。中国へ兵隊として向かう直前に書かれた『魯迅』にはこうある。 魯迅の根思想は人は生きねばならぬといふことである。それを李長之は直ちに進化論的思想と同一視しているが、私は、魯迅の生物学的自然主義哲学の底に、更に素朴な荒々しい能的なものを考へる。人は生きねばならぬ。魯迅は、それを概念として考へたのではない。文学者として、殉教者的に生きたのである。その生きる家庭のある時期において、生きねばならぬことのゆえに、人は死なねばならぬと彼は考へたと私は想像するのである。 この、遺書というべき文章の中で、竹内は何を言おうとしたのか。「人は生きねばならぬ」。それはある意味、戦争への抵抗であったと言えるだろう。昭和九年に中国文学研究会を立ち上げるが、彼も、同人の多くもその中国へと出征していった。竹内が大東亜文学者

    PledgeCrew
    PledgeCrew 2009/05/02
    「魯迅」は未読、しかし戦時下に、中国共産党のシンパで抗日運動の支持者でもあった魯迅の評伝出版が許可されたというのは摩訶不思議
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