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吉本隆明に関するPledgeCrewのブックマーク (3)

  • ララビアータ:鹿島茂『吉本隆明1968』 - livedoor Blog(ブログ)

    私は吉氏の良き読者とは言えない。何度か読もうとしたことはあったが、理解できたと思えるまでには至らなかった。友人知人たちの中には、吉氏を称賛する者たちも少なくなかったが、彼らから説得的と思える吉弁護論を聞くことはできなかった。おそらく吉氏のような在野の独創的思索者の場合、その理解には固有の難しさがある。その諸説を何らかの普遍的枠組みに位置づけるには、独自の翻訳が必要になるからである。ここで「在野」というのは、既成のアカデミックな組織に身を置かないという意味ではなく、通常のアカデミックなディシプリンを身に着けずに思索を続けるという意味である。この意味では、例えば長谷川宏氏などは「在野」ではない。大物では、スピノザなどは在野の典型かもしれない。 また、吉氏の思想を紹介することが難しいのは、それが読者自身の思索的拠点を問い返すことを要求するために、各個人ごとに吉氏との出合い方が個人的な

  • 忌野清志郎と「公共性」に関する試論 - 梶ピエールのブログ

    批評家の吉隆明は、1980年代から忌野清志郎をしなやかな感性を持ったアーチストとして高く評価をしていたが、1988年に発売されたRCサクセションの反原発ソング「サマータイム・ブルース」(アルバム『COVERS』に収録)の歌詞を、個人発行していた雑誌『試行』誌上で紹介し、「聞きしにまさるハレンチな歌詞」であるとして厳しく批判した。 ここで、吉の反原発批判の是非はひとまず置いておき、なぜ、吉隆明は忌野の反原発ソングをこき下ろしたのか、を考えてみたい。このことにこだわることは、むしろ忌野の偉大さ、およびそのパフォーマンスが持つ意味を、改めて浮き彫りにすることになるはずだからである。 まず最初に、社会学などでよく使われるらしい、「生活世界」と「システム」という二分法が便利なので、これを援用して論じてみよう。 忌野清志郎は、初期のころから一方で「システムの介在なしに魂が直接触れあえる世界」を高

    忌野清志郎と「公共性」に関する試論 - 梶ピエールのブログ
  • 鹿島茂 「吉本隆明1968」 (1)反スターリニズム&反=反スターリニズム - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    平凡社新書 2009年5月 吉隆明を「偉いよ、ものすごく偉い」という鹿島氏が、その偉さにピンとこない若いひとたちにむけて「なぜ、われわれ団塊の世代は吉隆明を偉いと思うのか」ということを懇切丁寧に噛んでふくめるように縷々切々と説いたである。当はもっともっと書きたかったのではないかと思うが、新書という制限のため、やむなく筆をおいたというようにもみえる。400ページ以上という新書としては相当に大部のであり、鹿島氏の熱気がむんむんと伝わってくる。 しかし、若いひとたちは読まないのではないかと思う。1968年といえば、40年以上前である。ということは40歳以下のひとたちは生まれていない。生まれる前は「過去」であって自分とは関係ないとはさすがに思わないかもしれないが、書で主として論じられる小林多喜二や芥川竜之介や高村光太郎あるいは四季派の詩人などは完全に過去のひとである(小林多喜二は最近復

    鹿島茂 「吉本隆明1968」 (1)反スターリニズム&反=反スターリニズム - jmiyazaの日記(日々平安録2)
    PledgeCrew
    PledgeCrew 2009/06/06
    シリーズもの、1から5まで
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