前回の「家族レトリック」についてこんな意見をいただいた。 「家族会議に友人のレトリック」に関してはそもそも政治の場を「家族会議」とモデル化する時点で自称リベラリストとしては相当ぞわぞわ来てるんですけれども、感覚的な所だけではなくて、その「家族会議が持つべき私的排他性」という要素を民主主義(の中でも地方自治)という「公的な場」に対して無批判に、スッポリと当てはめている所が綻びの根源だと思います。 つまり、「家族の私的性格」というものを主張する必要性としては、「家族のことに対して国家が介入するのは最低限に留める」という観点から「国家の公的性格」と対置してこれを考えることによって私的領域を確保する必要性が導かれ、同時にその正当性も生じるのだと思いますが、このレトリックでは地方自治の「私的性格」に対応する「公的性格」の持ち主が見えて来ず、「私的性格」を打ち出す必要性を欠いているため、それを述べる正