皇太子への拝謁を拒絶された事件の3年後に、有島武郎は農科大学を退職してフリーの身になった。大学を退職した直接の原因は、結核になった妻の安子を転地療養させるためだったが、教職を去りたいという希望を彼は以前から持っていたのである。友人に語ったという彼の言葉が残っている。 「教師なんか、とうに止めたいのだが、弟たちが皆官職についていないので、昔気質の父は長男の僕が官職についているということが大きな慰めだったのだが、今度は萬やむを得ない事情から父も仕方なく退職を許したのだ」 安子の病気は、寒冷の地で男の子を三人毎年続けて産んだことが原因になっていると思われる。 鎌倉に転地することになったとき、安子は病気の感染を恐れて、全快しない限り子供たちとは会わないと言い切っている。彼女は武郎には泣き顔ひとつ見せなかったが、実母と義母の前に出ると泣き崩れ、容易に泣きやまなかった。彼女は杏雲堂病院に入院して療養に