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追悼に関するtweakkのブックマーク (80)

  • 【追悼:山本弘さん】ぼくが世界でいちばん好きでいちばん嫌いな作家、山本弘とは何者だったのか。(第一回:インターネット編)|海燕(ライター)

    訃報】 去る3月29日午前10時12分 山弘は誤嚥性肺炎のため永眠いたしました 葬儀につきましては近親者のみで執り行いました 生前中のご厚誼に深く感謝申し上げると共に 謹んでお知らせいたします pic.twitter.com/ZIY5YLI00T — 山弘 『BIS ビブリオバトル部』 (@hirorin0015) April 4, 2024 山弘さんが亡くなられた。 といっても、もちろんご存知ない方もいらっしゃることだろう。 そういう人のなかにも「トンデモ」という概念を生み出したあの「と学会」の初代会長といえば、「ああ」と思いあたる方もいるかもしれない(この記事の公開後、「トンデモ」はと学会の創始ではないというご指摘を受けました。謹んでお詫びし訂正いたします)。 じっさいには、かれの功績はそこに留まるものではなく、あるときは凄腕SF作家、あるときは良く喋るゲームマスター、あると

    【追悼:山本弘さん】ぼくが世界でいちばん好きでいちばん嫌いな作家、山本弘とは何者だったのか。(第一回:インターネット編)|海燕(ライター)
    tweakk
    tweakk 2024/04/06
    フェアでいい追悼文だと思った。愛憎半ばしつつもやはり好きで長く付き合った人しか語れないことある。あとJKハルも読みたくなった。
  • 山本弘なぁ・・・

    オカルト批判をベストセラーにしたと学会の功績とかはわかるんだけど、山弘に直接的・間接的に影響受けたオタクって今や冷笑系や表現の自由戦士になっているだろ 政敵を徹底的に茶化すのってもろ山弘の芸風だったからなぁ

    山本弘なぁ・・・
  • 特集ワイド:絵で漫画の魅力復権 江口寿史さんが語る鳥山明さんの功績 | 毎日新聞

    1日に亡くなった漫画家、鳥山明さんとともに「週刊少年ジャンプ」の全盛期を支えた漫画家が江口寿史さん(67)だった。2人は同学年。表現こそ違えど、ともに「絵」で漫画を改革した。江口さんは「早過ぎじゃんかよ。あまりに突然で、ショックが大きいです。鳥山さんご人が一番悔しいと思う」と悼んだ。 ジャンプ全盛期 読者人気に「悔しかった」 鳥山さんは1955年4月生まれ。江口さんは56年3月。週刊少年ジャンプでは、同時期に連載を持っていた。江口さんの方がデビューは1年早かった。鳥山さんは80年から「Dr.スランプ」を連載し、江口さんが81年に「ストップ!!ひばりくん!」の連載を開始した。「それから彼の存在は、人気の面で常に意識していました」 週刊少年ジャンプの読者アンケート。鳥山さんが常に1位で、「それが悔しかった」と振り返る。江口さんが「ストップ!!ひばりくん!」で久しぶりに1位を奪還したときは、「

    特集ワイド:絵で漫画の魅力復権 江口寿史さんが語る鳥山明さんの功績 | 毎日新聞
  • 『【追悼:いのまたさんの想い出 その1】』

    3月10日に、いのまたむつみさんが亡くなりました。 まあ最近は、色々な理由で、なかなか会う機会も無く疎遠になっていましたが、元々は、自分が葦プロに入った1〜2ヶ月後に葦プロに見学者としてきて、そのまま仕事するという、今では考えられないようなデビューの方法だったのですが、当時は当にアバウトで、アニメーターやりたいの?やれば?…的な事でなれたことも多々ありました。 自分もそうですからねww。 その事は、昔アニメージュで連載していた自分の漫画にも描かれております。 その時の葦プロダクションは、井荻と上井草の間くらいにあった広めの一軒家を使っていました。 1階の6畳と4.5畳の部屋が作画部屋で5人ほどのメンバーでした。 しばらくして、バルディオスの制作が始まると共に、葦プロは上井草に引っ越しました。 そこも普通の一軒家で、二階が作画室でした。 今はもう建物もありませんが、このような外観でした。

    『【追悼:いのまたさんの想い出 その1】』
    tweakk
    tweakk 2024/03/18
    貴重な写真が。あのころの空気が閉じ込められていていろんな感情がおしよせてくる。デニーズは新青梅街道かなあ。
  • 鳥山明逝去、に寄す - king-biscuit WORKS

    ● 今こそ、ドラゴンボールを集めに行かねばならん――わが国のみならず、世界中がそう思ったようです。 鳥山明急逝の報がweb環境を介して瞬時にかけめぐりました。享年68。急性硬膜下血腫とのことでしたが、その衝撃は国内もさることながら、むしろそれ以上に世界規模での反応の大きさが伝わってくることによって、戦後の過程で高度経済成長の「豊かさ」を原資として結実させていった、でも、実はそれらについて気でそう深く考えてもこなかったある種の「文化」が、知らぬ間に持ってしまっていた現実的な力量について、われわれ日人に思い知らせることにもなりました。 鳥山明というと、自分などは、どうしても「まんが家」としてまず認識してしまっています。「ドラゴンボール」以降の、ジャンルも国境もかろやかに超えたすさまじい確率変動ぶりと共に育った若い世代にとってはそんなこじんまりした印象ではないらしいのですが、さりとてこちとら

    鳥山明逝去、に寄す - king-biscuit WORKS
  • 小澤征爾さんを失って  村上春樹さん寄稿:朝日新聞デジタル

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    小澤征爾さんを失って  村上春樹さん寄稿:朝日新聞デジタル
  • FILT NO SMOKING NO LIFE 細野晴臣

    失われかけているものの中にこそ、かけがえのないものがある。ミュージシャン・細野晴臣が、今後も「遺したいもの」や、関心を持っている「伝えたいこと」を語る連載の第11回。一つ一つの言葉から、その価値観や生き方が見えてくる。 消えないスピリット。 最後に会った日。 2023年になってから、当にいろいろなことがあったね。幸宏、鮎川誠くん、岡田徹くん、そして教授。みんな立て続けだったから、気持ちが追いつかなかった。落ち着いてひとりひとりにさよならも言えない、仲間が戦死していくときの気持ちってこういうことなのかな、と。 幸宏の印象はいまも2019年当時のまま、その後の4年のあいだ止まってる。僕がロサンゼルスでライブをしたとき、幸宏が観にきてくれて、そのあと呼ばれたDJパーティにも幸宏が来た。ちょうど幸宏の誕生日だった。だからバースデー・パーティになってね。そのときの元気な印象が強く残ってる。それから

    FILT NO SMOKING NO LIFE 細野晴臣
  • 「もっと孤独に」…… 大貫妙子が坂本龍一に語ったこと | AERA dot. (アエラドット)

    龍一さん 3月28日、音楽家・坂龍一さんが永眠した。享年71。がんを公表しながら最期まで音楽をつくり続けていた。 1952年東京生まれの坂さんは78年「千のナイフ」でデビュー。細野晴臣さん、高橋幸宏さんとYMOでも活動。83年に映画「戦場のメリークリスマス」のテーマ曲がヒット、87年の映画ラストエンペラー」の音楽では米アカデミー賞とグラミー賞を受賞した。 平和や地球環境の保全への思いは強く、亡くなる直前には明治神宮外苑地区再開発の見直しを求める手紙を小池百合子都知事らに送っている。 坂さんを初めてインタビューさせていただいたのは2001年。モザンビークの地雷を除去するチャリティー「ZERO LANDMINE」後で、アントニオ・カルロス・ジョビンの曲を録音した「CASA」発表前。 ジョビンの家でジョビンのピアノを弾いた坂さんは、ジョビンの魂が降りてきたと話された。故人が好んだ音

    「もっと孤独に」…… 大貫妙子が坂本龍一に語ったこと | AERA dot. (アエラドット)
    tweakk
    tweakk 2023/04/15
    “坂本さんはいつも取材者がほしがる話を察して、提供してくれる。この話は見出しになる? ページ分話は足りてる?と、よく確認された。”
  • 同じニューヨークで暮らした大江千里が、坂本龍一への追悼文を緊急寄稿「教授、また会う日まで」

    ニューヨークで演奏する坂(左、1998年2月)と大江(右、2016年7月)。80年代から縁が続いた PND RECORDS & MUSIC PUBLISHING INC., EBET ROBERTS/GETTY IMAGES <「教授」が愛車のボルボで迎えに来てくれた思い出から、3時間に及ぶLINEでの会話まで、大江千里が坂との思い出をつづった> インスタグラムを開くと、よく知っているアメリカのレコード会社の女性とヨーロッパのミュージシャンが哀悼の意を示していた。投稿には1952年1月17日―2023年3月28日とある。嫌な予感がして僕は画面を閉じた。ずっと心の隅で恐れていた。必死で目をそらそうとした。 この日、春の嵐の強い風が吹くニューヨーク・ブルックリンの屋外へスリッパのまま飛び出ると、少し日が長くなった空に白く丸い月が浮かぶ。目の縁がにわかに熱くなり、鼓動が激しくなる。 それは熱

    同じニューヨークで暮らした大江千里が、坂本龍一への追悼文を緊急寄稿「教授、また会う日まで」
    tweakk
    tweakk 2023/04/13
    シェルタリング・スカイいいよねえ
  • 浅田彰が語る、完璧な演奏マシンから最後にヒトになった坂本龍一 マイケル・ジャクソンは坂本龍一と仕事をすることを望んだ | JBpress (ジェイビープレス)

    3月28日、音楽家の坂龍一が亡くなった(享年71歳)。音楽グループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」でデビューし、自身も出演した映画「戦場のメリークリスマス」(日公開1983年)のサウンドトラック「Merry Christmas, Mr. Lawrence」をはじめ、ソロ活動に転じてからも数多くの名作映画音楽を手掛けてきた。音楽界、映画界、そして広く芸術界に多大な影響を与えてきた稀代の表現者は何を考え、何をなしたのか。坂龍一を最もよく知る批評家で京都芸術大学教授・ICA京都(Institute of Contemporary Arts Kyoto)所長の浅田 彰氏に話を聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト) ※2回目以降は明日以降、公開します ◎1回目:浅田彰が語る、完璧な演奏マシンから最後にヒトになった坂龍一 ◎2回目:浅田彰が語る、あの映画のサントラが坂

    浅田彰が語る、完璧な演奏マシンから最後にヒトになった坂本龍一 マイケル・ジャクソンは坂本龍一と仕事をすることを望んだ | JBpress (ジェイビープレス)
    tweakk
    tweakk 2023/04/09
    浅田彰の追悼読みたかったんだよー
  • 特別公開:坂本龍一さん3万字インタビュー前編「音楽の大きなテーマは、亡くなった者を悼むということ」|じんぶん堂

    記事:平凡社 坂龍一さん(2013年5月撮影) 撮影:榎佳嗣 書籍情報はこちら バッハの「マタイ受難曲」を聴くと、まさに「音楽に救われる」という感じがする ――東日大震災と原発事故はだれしもにとってたいへんショッキングなできごとだったと思います。坂さんはどうお過ごしでしたか。 坂龍一:うーん……、直後はやっぱり、音楽を聴く気になれませんでした。 ――音楽家の方でも、音楽が聴けなくなるんですか。 坂:ええ、(音楽家には)きっとそういう人は多いと思いますよ。それで、ずいぶんと経ってから……、ひと月ほど経ってからかな、やっと聴いてみようかなと思ったのは。 ――そのときに、慰めや励ましになったもの、あらためて立ちかえったものってありますか。 坂:それは、やっぱりどうしてもバッハの「マタイ受難曲」です。僕のまわりの音楽好きでも同じようにいう人は多いけれど、やっぱり特別な曲ですね。「また

    特別公開:坂本龍一さん3万字インタビュー前編「音楽の大きなテーマは、亡くなった者を悼むということ」|じんぶん堂
  • 追悼:陳建一レシピ3選

    陳建一さんが亡くなったと聞いてマジ悲しかったんだが、同時におなかが空いてきて刷り込みってやばいなって思った。俺の脳内で 陳建一=メシ と言う回路ができているようだ。 と言う事で、これからしばらくは陳建一レシピで生きてくことにする。 そこで俺の「みんなの今日の料理」のお気に入りから、3つ紹介したい。 ゆで豚+ゆで豚スープ+回鍋肉とかたくさんアドレスを貼るとエラーになるんで、ゆで豚から追ってくれ https://www.kyounoryouri.jp/recipe/13276_%E3%82%86%E3%81%A7%E8%B1%9A.html かたまり肉を使ったレシピ。ゆで豚で作っておくと、その後何にでも使えるほか、このゆで豚を使ったスープが激うま。 そしてここまでできてしまえ回鍋肉はできたようなもん。豆板醤も甜麺醤も両方使うレシピでそこがハードル高いような気がするかもしれないが、こいつらが入っ

    追悼:陳建一レシピ3選
  • RADIO SAKAMOTO on Twitter: "幸宏との長い付き合いの中で、嫌なことは一つも思い浮かばない。 全ては楽しい思い出として残っている。 たくさんの地に行き、たくさんの経験を共にした。 最初の出会いは衝撃だった。 ケンゾーをまとったロックのドラマーがいるとは、と僕は目を疑った。"

    幸宏との長い付き合いの中で、嫌なことは一つも思い浮かばない。 全ては楽しい思い出として残っている。 たくさんの地に行き、たくさんの経験を共にした。 最初の出会いは衝撃だった。 ケンゾーをまとったロックのドラマーがいるとは、と僕は目を疑った。

    RADIO SAKAMOTO on Twitter: "幸宏との長い付き合いの中で、嫌なことは一つも思い浮かばない。 全ては楽しい思い出として残っている。 たくさんの地に行き、たくさんの経験を共にした。 最初の出会いは衝撃だった。 ケンゾーをまとったロックのドラマーがいるとは、と僕は目を疑った。"
    tweakk
    tweakk 2023/03/06
    「RADIO SAKAMOTO」最終回。時間がたってようやく言葉になったのかもしれない。
  • 【評伝】天沢退二郎さん 圧倒的に熱く語った宮沢賢治「宇宙人にも感動してもらえるように」:東京新聞 TOKYO Web

    フランス文学者で宮沢賢治の研究でも知られる詩人の天沢退二郎(あまざわ・たいじろう)さんが25日、86歳で亡くなった。 多彩な顔を持つ天沢さんには、「ダークファンタジーの傑作」と呼ばれる児童文学の著書「光車よ、まわれ!」もある。子どものころに魅了された者として、紙エッセー「私の東京物語」の執筆を依頼できたことが光栄だった。2017年、千葉市の自宅近くのカフェで初対面。手書きの原稿を受け取りながら、その中にも登場する「光車」の物語のあれこれを尋ねた。「私の東京物語」は同年11月に掲載された。 しかし、天沢さんが圧倒的に熱く語ったのは宮沢賢治だった。戦前の旧満州で過ごした小学生時代に夢中になり、作品を読破。34歳の時には賢治論を見込まれ、賢治の弟の清六さんから岩手県花巻市の自宅で、夢だった賢治の直筆原稿を見せてもらう。その時、清六さんに告げられた言葉が人生を決めた。「賢治の全集を作り直してほし

    【評伝】天沢退二郎さん 圧倒的に熱く語った宮沢賢治「宇宙人にも感動してもらえるように」:東京新聞 TOKYO Web
  • R.I.P. Yukihiro Takahashi | ele-king

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    R.I.P. Yukihiro Takahashi | ele-king
  • 高橋幸宏さんへの思いをつづった、細野晴臣さんの追悼文 (全文)|yhd56:坂本龍一&YMO NEWS|note

    喉(のど)に引っ掛かってのみ込めない違和感とともに、自分の生死に向き合うことになる。それが友の死だ。感情は死を拒絶し理性は受け入れる。この悲痛な葛藤から逃げることはできない。 人の一生は一冊ののようだ。いま「高橋幸宏」というを読み終え、多くのファンがあとがきを書こうとしている。物語は終わったがは消えず、ずっとそこにある。 幸宏の死は世界に反響を及ぼした。彼が海外のミュージシャンに与えた影響の大きさを今更ながら知り、高橋幸宏が実は大スターであることが判明した。 初めて幸宏と出会った時の彼は16歳、ぼくは21歳だった。それから半世紀の付き合いになる。軽井沢で知りあい、軽井沢でお別れしたのは不思議な縁だと思う。 高橋幸宏にとって自分はどんな存在だったのか。多分それは縁戚の「変な伯父さん」だろう。彼の厳しい審美眼はぼくをずっと観察していたに違いない。ある時期から少しずつ認めてくれたようだ。そ

    高橋幸宏さんへの思いをつづった、細野晴臣さんの追悼文 (全文)|yhd56:坂本龍一&YMO NEWS|note
  • 「高橋幸宏」という本はずっとそこにある 細野晴臣さん、友を追悼:朝日新聞デジタル

    イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)などで活躍したミュージシャンの高橋幸宏さんが11日に70歳で死去した。YMOのメンバーで、ミュージシャンの細野晴臣さん(75)が今回、高橋さんへの思いをつづった追悼文を朝日新聞に寄せた。 全文は以下の通り ◇ 喉(のど)に引っ掛かってのみ込めない違和感とともに、自分の生死に向き合うことになる。それが友の死だ。感情は死を拒絶し理性は受け入れる。この悲痛な葛藤から逃げることはできない。 人の一生は一冊ののようだ。いま「高橋幸宏」というを読み終え、多くのファンがあとがきを書こうとしている。物語は終わったがは消えず、ずっとそこにある。 幸宏の死は世界に反響を及ぼした。彼が海外のミュージシャンに与えた影響の大きさを今更ながら知り、高橋幸宏が実は大スターであることが判明した。 初めて幸宏と出会った時の彼は16歳、ぼくは21歳だった。それから半世紀の付き合

    「高橋幸宏」という本はずっとそこにある 細野晴臣さん、友を追悼:朝日新聞デジタル
  • 細野晴臣_info on Twitter: "https://t.co/zuEK3kPKk4"

    https://t.co/zuEK3kPKk4

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  • 高橋幸宏 音楽の歴史 | ele-king

    高橋幸宏は1952年6月6日、東京で生まれた。父は会社経営をしており、自宅は200坪の敷地に建ち(もともとは天皇の運転手が建てた家だそうだ)、軽井沢には別荘を持っていた。 後に音楽プロデューサーとなる兄に感化され、早くから音楽に親しみ、小学生のときにはドラムを始めている。このドラムという楽器を選んだ理由にはドラムの練習ができるほど広い家に住む子がなかなかいないからだったと後年明かしている。 中学生のときにはユーミンが参加することもあったバンドを組み、高校生のときにはもうセッション・ミュージシャンの仕事を始めていたのだから早熟と言うほかないだろう。ドラムのうまい高校生がいるという噂を聞きつけて大学生だった細野晴臣が会いに来たのも高橋幸宏の高校時代のこと。大学に入るとガロに一時在籍するなど、すでにプロのミュージシャンとしての道も歩き始めていた。 そんな高橋幸宏の転機となったのは、旧知の加藤和彦

    高橋幸宏 音楽の歴史 | ele-king
  • 浅田彰さんが磯崎新さんを悼む 「世界文化史を体現する巨人」:朝日新聞デジタル

    文化としての建築像を確立した建築家の磯崎新さんが、12月28日に91歳で亡くなった。数々の対話や著述、プロジェクトをともにするなど親交の深かった批評家で京都芸術大教授の浅田彰さんが、その存在の大きさを悼んだ。 磯崎新の生涯はそのまま日近現代建築史であると言ってよい。1931年大分に生まれ東京大学に進んだ彼は、途中下車した広島で廃墟(はいきょ)の中から丹下健三設計の平和会館原爆記念陳列館(現・平和記念資料館館)が建ち上がりつつあるのを目にし、丹下に建築を学ぼうと決意する。 やがて丹下研究室の有力メンバーとなり、独立後も70年大阪万博お祭り広場にいたるまで丹下の様々なプロジェクトに貢献する(後の東京都新都庁舎設計競技では師弟が競い、もちろん丹下案が実現される一方、最初に「超高層は[市民の集うシティ・ホールにふさわしくないので]採用しない」と宣言する磯崎案はアンビルトのまま傑作として建築史に

    浅田彰さんが磯崎新さんを悼む 「世界文化史を体現する巨人」:朝日新聞デジタル