「みみより!解説」のこれまでのエピソード一覧です
公開日:2021.09.15 更新日:2022.07.07 10万回以上石斧を振るって丸木舟を作ったほぼ縄文人・雨宮国広さんに聞いた、古代人が移動する理由 移動というものがある。家から駅へ、郊外から都心、国から国へなど、我々は徒歩、電車、飛行機などでほぼ毎日移動している。過去を遡っても、狩猟採取の生活をしていた祖先の時代から人類は移動し続けてきた。人間にとって移動する行為は生きるために必要な行為なのだ。 ただ古代の移動は今のそれと勝手が違う。車もなければ、エンジンだってない。自らの足で移動する、もしくは自らの手で移動手段を作り出さなくてはならなかった。 そんな我々、日本人の祖先はどこからやってきて、どのような方法で移動してきたのだろうか? 2019年、日本人のルーツを探る「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」が成功を納めた。私たちの祖先が今の台湾から日本へ海を渡ってやってきたことを実証す
反論三部作の完結編だ。こんなに長くなってしまったのは本意ではない。本を読んで反射神経で書いた最初の「思いがけない冒険」から始まり「竜に奪われた王国」。そして今回が「決戦のゆくえ」。というのはホビット三部作のタイトルだけど、このnoteの記事もついつい長くなってしまった。 竹倉さんに恨みがあるわけでもないし、僕自身も、自分自身を粘着体質ではないカラリとした男でありたいと常に思っている。のだが、始めてしまったら終わらせなければならない。ぜひ(1)と(2)もあわせて読んでほしい。 『土偶を読む』はきっと売れているだろう。「アンチも巨人ファン」理論で言えば、本noteの記事もまた売り上げに貢献したに違いない。SNSでは、この反論を支持してくれる人の方が多いようにも思えるが、『土偶を読む』にも素直に「納得した!」や「現時点ではこれが一番事象を説明できる仮説だと思う」や、「痛快!」の声が多く寄せられて
およそ3800年前の縄文人のすべての遺伝情報を初めて解読できたと、国立科学博物館などのグループが発表しました。 瞳が茶色で酒に強いといった体の特徴が推定できるほか、東アジア沿岸の南北に広い範囲の人たちと遺伝的に近いことが分かり、日本人の起源の解明などにつながると期待されます。 遺伝情報を解読したのは、国立科学博物館や国立遺伝学研究所など国内の7つの研究機関で作るグループです。 グループは、北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘されたおよそ3800年前の縄文人の女性の臼歯から核DNAを抽出し、最先端の装置を作って詳しく分析しました。 その結果、DNAの保存状態が極めてよく、30億対の塩基配列すべての遺伝情報を解読することができたということです。 この遺伝情報から女性の体の特徴を推定したところ、皮膚の色は濃く、髪は細く巻き毛、瞳は茶色で酒に強いほか、耳垢は湿っていることなどが分かりました。 また、北極
【7月2日 AFPBB News】見入らずにいられない、素朴で神秘的な顔がずらり──。土偶や土器など、縄文時代に日本列島各地で作られた200点を集めた特別展「縄文ー1万年の美の鼓動(JOMON: 10,000 Years of Prehistoric Art in Japan)」が3日から東京・上野の東京国立博物館(Tokyo National Museum)で始まる。 「縄文のビーナス」のほか、「火焔型土器」など国宝の縄文式土器6件が一堂に展示されるのは初めて。「縄文の造形の極み」と言われる土器からは、太古の人々が暮らしの中で寄せたであろう思いがかいま見られ、息遣いが感じられる。 主催者によると、2020年の東京五輪に向けて日本への関心が集まる中、1950年代に芸術家の岡本太郎(Taro Okamoto)氏らによって価値を見出された「縄文の美」を、日本のもの作りの源流として紹介しようと企
文化庁は24日、有形・無形の文化財をまとめて地域の魅力を発信する「日本遺産」に、八ケ岳山麓の長野県8市町村と山梨県6市による「星降る中部高地の縄文世界―数千年を遡(さかのぼ)る黒曜石鉱山と縄文人に出会う旅」など全国13件を認定したと発表した。長野県内での認定は、木曽谷の山林文化をアピールした2016年度の木曽郡6町村と塩尻市の提案に次いで2件目。 日本遺産は、地域に受け継がれる文化財にまつわるストーリーが日本の文化や伝統を語る内容であるかどうかを評価する。第4弾となる今回は、国内外に発信して地域の活性化を図れるかをより重視した。 「星降る―」を申請したのは、茅野市、諏訪郡富士見町、原村、下諏訪町、諏訪市、岡谷市、小県郡長和町、南佐久郡川上村と、山梨県の甲府市、北杜市など。黒曜石の採掘跡が見つかった下諏訪町の星ケ塔遺跡や、茅野市出土の国宝土偶「縄文のビーナス」「仮面の女神」など、縄文時代の土
国立科学博物館などの研究グループは12日、約3800年前の縄文人の骨から抽出したDNA情報をもとに、顔を再現した復元像を公表した。骨格の特徴だけでなく、遺伝情報を参考に古代人の顔を復元したのは国内初という。13日から東京・上野の同館で始まる特別展「人体―神秘への挑戦―」(朝日新聞社など主催)で一般公開する。 研究グループは、北海道・礼文島の船泊遺跡で頭骨などが発掘された女性の臼歯からDNAを抽出。顔に関する遺伝子の特徴から外見を推定した。女性は、肌は色が濃く、シミがあり、目は茶色、髪の毛は細く縮れていたなどと判明したという。また、血液型はA型で、身長は140センチ程度だったという。 従来は、骨格の特徴をもとに古代人の顔を復元していたため、肌や目の色がわからず、現代人の特徴をもとに推測していた。遺伝情報の活用でより忠実に復元できたという。 国立科学博物館の篠田謙一・人類研究部長は「これまで想
→紀伊國屋書店で購入 著者の崎谷氏はもとはウィルス学が専門ということだが、日本人の成り立ちをさぐるために、分子遺伝学、人類学、言語学までを射程におさめ、京都大学の伝統である学際的なとりくみをおこなっている研究者である。本書も第一章はDNA、第二章は文化、第三章は言語とアプローチを変えている。 崎谷氏は2003年の『日本列島の人類学的多様性』以来、日本人の起源論を精力的に発表し、2008年には一般向けの『DNAでたどる日本人10万年の旅』(以下、『10万年の旅』)を上梓したが、同書執筆中にY染色体の研究が急速に進んだために、あらためて本書『新日本人の起源』を書いたということである。 『10万年の旅』は現在絶版になっているが、『新日本人の起源』には『10万年の旅』にないような画期的な発見が盛りこまれているのだろうか? 素人目には大筋は変わっていないように思えたが、専門家が見れば違うのかもしれな
まず縄文人には3種類ある ①紀元前4万年頃に南方から渡来したオーストラロイド ②間氷期に中国西部から渡来した古モンゴロイド(黒人に近い) ③縄文後期頃中国西部から渡来した新モンゴロイド(いわゆる弥生人) アイヌは確かに縄文人の末裔だが 縄文人の中では②で示した通り、2番目に日本に渡来したグループになる 縄文人のなかでも一番古いのはY染色体ハプログループC1a1 これは四国人で多くみられるがアイヌには全く見られない アイヌのY染色体ハプログループはD1bとツングース由来のC3系統しかいないので C1a1は日本固有だがオーストラロイドの系統で 近縁のC1はインドの先住民やメラネシア系から発見されている アイヌ アイヌは、北海道・樺太・千島列島およびロシア・カムチャツカ半島南部にまたがる地域に居住していた。母語はアイヌ語。現在、日本とロシアに居住する。 アイヌは、元来は物々交換による交易を行う狩
日本人の祖先と思われている縄文人。そのイメージが大きく変わろうとしています。 福島県で発掘された人骨からゲノムが解読され、「縄文人はアジアの他の地域の人たちと大きく異なる特徴を持っていた」とわかったのです。そればかりか、現代の日本人とも予想以上に違いが大きかったと示されました。 では一体、縄文人とは何者だったのか?私たちのルーツにも関わる最新科学の意味を3つのポイントから読み解きます。 まず、「核DNA解析」と呼ばれる今回の手法が、これまでと何が違うのか整理します。 続いて、解析の結果つきつけられた「縄文人とは何者か?」、さらには「では私たちは何者なのか?」 という謎を読み解きます。 そして、「科学が変えた人類観」。DNA解析の進歩は、人類がどんな存在なのか?というイメージ自体を変えてきました。それをどう受け止めればいいのか考えます。 先月、国立遺伝学研究所などのグループが「縄文人の核ゲノ
あなたは「縄文時代」にどんなイメージを持っていますか? 「狩猟採集で生活し、自然と共生していた」「貧富や身分の差がなかった」「日本文化の原点」……。でも、それは「つくられた幻想」だと、先史学が専門の山田康弘さんは主張する。いつ、なんのために「つくられた」のか。「縄文」の真の姿とはどんなものなのか。 ■「貧しい」「自然と共生・平等」…世相映してイメージ180度変化 ――縄文時代は「つくられた」と主張していますね。 「『縄文式文化』『弥生式文化』という言い方は戦前からありました。ただ、石器時代の中に狩猟採集の文化と、米を栽培していた文化があったということで、時代のくくりは、弥生の一部を除いて石器時代でした」 「戦後になって、アメリカの教育使節団の勧告などで、これまでの神話にもとづく歴史教科書ではダメだ、新しい歴史観で教科書をつくれということになった。当時最も科学的な歴史観と考えられていた『発展
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2016.09.01 プレスリリース 【プレスリリース】『縄文人の核ゲノム配列をはじめて決定 〜東ユーラシア人の中で最初に分岐したのは縄文人だった〜』 プレスリリース概要 『縄文人の核ゲノム配列をはじめて決定〜 東ユーラシア人の中で最初に分岐したのは縄文人だった〜』 【研究概要】 国立遺伝学研究所集団遺伝研究部門および総合研究大学院大学遺伝学専攻の斎藤成也教授らのグループは、福島県北部にある三貫地貝塚から出土した縄文時代人(縄文人)の歯髄からDNAを抽出して、核ゲノムの一部を解読することに成功しました。 これまで縄文人のDNAについては、ミトコンドリアDNAの情報しか得られていませんでした。今回、ミトコンドリアDNAの数千倍にあたる核ゲノムのDNA配列1億1,500万塩基対を決定しました。このゲノム情報を、現代日本列島人と比較解析したところ、縄文人はアイヌ人にもっとも近く、ついでオキナワ人
現代の「本土日本人」に含まれている縄文人からの遺伝情報は、およそ12%だとする研究結果を、国立遺伝学研究所などの研究グループがまとめました。細胞の核に含まれるDNAを用いた新たな解析によるもので、研究グループは「縄文人が大陸系の人類と交流して、現在本土に住む人々を形づくったことを裏付けるデータだ」としています。 縄文人のDNAは、これまで細胞の中にある「ミトコンドリア」という器官に由来するものしか得られていませんでしたが、細胞の核のDNAはミトコンドリアのDNAに比べ、数千倍から数万倍の情報量があり、遺伝情報がより詳しく分析できます。 研究グループが、人類が各地に移り住む中で枝分かれする過程を探ろうと、このDNAを基に、さまざまな人々との関係を新たに調べたところ、縄文人は現在、東アジアや東南アジアに住んでいる人々よりも早く枝分かれしたと考えられることがわかりました。 そのうえで、現代の「本
1.アフリカから日本列島へ、祖先の長い旅 アフリカを起源にもつ私たちヒト(ホモ・サピエンス)は、およそ5~10万年前に故郷を出て世界中に拡散していった。出アフリカの時期とルートは現在も議論のあるところだが、一部の集団がおよそ4~5万年前に東アジアに進出したことは、化石の証拠などから明らかとなっている(図1)。このようなヒトの歴史を探る研究には、これまで人骨や土器などを発掘し観察する考古学と古人類学の手法が用いられてきたが、1980年代以降DNAから歴史を読み解く遺伝学的研究も盛んに行なわれるようになった。私たちヒトが100万年以上前にアフリカを出て世界に拡散した原人の子孫ではなく、およそ20万年前にアフリカで誕生した系統の子孫だという「アフリカ単一起源説」の証明も遺伝学的研究による成果の1つである。
縄文時代に日本列島で狩猟採集生活をしていた縄文人の遺伝的特徴は、東アジアや東南アジアの人たちとは大きく離れていることがDNA解析でわかった。縄文人のルーツを考えるうえでの手がかりになりそうだ。総合研究大学院大学や国立科学博物館などのチームが、人類学の専門誌ジャーナル・オブ・ヒューマン・ジェネティクスに1日発表した。 福島県北部の三貫地貝塚で出土した約3千年前の縄文人2人の歯から、細胞核のゲノム(全遺伝情報)解読を試みた。約30億個ある塩基のうち、約1億1500万個の解読に成功した。縄文人の核DNAの解読は初めて。 世界各地の現代人のDNAと比較したところ、中国南部の先住民や中国・北京の中国人、ベトナム人などは互いに近い関係にあるのに対し、縄文人はこれらの集団から大きく離れていた。 現生人類ホモ・サピエンスは、…
日本最古の登山の痕跡(こんせき)はいつの時代のものか。なんと、縄文時代にさかのぼる。1930年に考古学者、藤森栄一(ふじもりえいいち)が八ケ岳連峰南端の編笠山(あみがさやま)の海抜2400メートル付近で見つけた黒曜石(こくようせき)のやじりである▲縄文人の石器が「狩猟」でなく「登山」の痕跡だというのは、そこがシカやイノシシの生息する標高をはるかに超えていたからだ。貧弱な石器で原始林を切り開き、山頂近くまで達した努力は「当然、登山史の第一ページにあげられてしかるべき」だと藤森は記した▲小(こ)泉(いずみ)武栄(たけえい)著「登山の誕生」から孫引きさせてもらったが、「そこに山があるから……」の名言を思い起こさせる。ともかく山地が7割超を占める日本列島である。住民のなりわいや暮らしにおいても、宗教や精神生活においても、歴史の始まりから山はそこにあった▲で、きょうは新たに設けられた祝日「山の日」で
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