すぐ下のエントリで紙の名前をtantoと書きましたが 正しくは TANT でした。 訂正してお詫びいたします。 いや、カタカナでしか見たことがなかったんです。 カタカナだとタントなんで、てっきりtantoだと思っていたわけですよ。 お恥ずかしい話です。 で、これが外箱に狙っている TANT 180 です。 よく行く紙屋さんのショールームの展示写真です。 TANTを作っているのは竹尾です。 TANT180の取り扱いはこの辺りではないので、来月東京に行った時に 竹尾のショールームに行こうかしらと考えております。 TANT180 の値段は不明ですが、連量の軽いTANTはお手ごろかつ ニアンスもあり、そしてとても使いやすい紙なので、お気に入りです。
毒舌な人が、 逆に自分に向けられた批判に打たれ弱いケース、 多い気がする。 ほのかな批判にも取り乱したり、逆上したり、 あれはなぜなんだ。 打たれ弱い人は、 打たれ弱いがゆえに、 防衛本能が働いて、 先手を取って毒舌家に成長してゆくのかもしれない。 ……え? 僕? 僕は確かに打たれ弱いですが…… ------------------------- 今週は名古屋にいるのである。 セミはもう、まったく鳴いていない。 そろそろ来年あたり、 僕が名古屋にきた年に生まれたセミの子たちが、 鳴くはずだ。 楽しみだなー。 ------------------------ 昨日。 名古屋に名だたる紙の専門店、「紙の温度」へ、初めて出かけてみる。 会員証をもらう際のアンケートに、 「主にどのような用途に紙を使いますか?」 という設問があり、選択肢が20個くらいある。 版画。書道。ちぎり絵。 さすが、紙の専門
きらびきTの「T」は「TANT」の略。 ベース紙の色は次の通り: 白 = TANT N-8|淡桜 = TANT O-52|シルバー = TANT S-8|しも鼠 = TANT S-6| 銀鼠 = TANT R-5|古染 = TANT N-13|白黄 = TANT O-61|肌 = TANT O-56| 白藤 = TANT O-72|淡鼠 = TANT O-70|白銀 = TANT O-68|水浅黄 = TANT O-64|
日経アーキテクチュア 2003/02/17号 CLOSE UP 改修 紙の資料館 特種製紙総合技術研究所 Pa 旧工場を自然光が入るギャラリーに 紙の資料館 特種製紙総合技術研究所 Pam B(静岡県長泉町) 発注:特種製紙 設計:坂茂建築設計 施工:大林組名古屋支店 殊印刷用紙やファンシーペーパーなどの特殊紙を専門に扱う特種製紙が,老朽化した研究所と実験工場を「紙と関連素材の研究開発館」として再生させた。グラフィックデザイナーである田中一光氏(故人)の総合監修の下,Pam(paper and material)設立コミッティを編成し,キュレーターを小池一子氏,建築を坂茂氏が担当した。研究所を建て替えた「Pam A」が昨年10月に完成。(8〜12ページ掲載記事から抜粋) *テキスト版記事の文字数:2892文字
ギンザ・グラフィック・ギャラリー第401回企画展 TDC 2024 (TOKYO TYPE DIRECTORS CLUB EXHIBITION 2024) 2024年04月01日(月)~2024年05月15日(水) Design: Yugo Nakamura 「文字や言葉の視覚表現」を軸に開催するグラフィックデザインの国際賞「東京TDC賞」。34回目を迎えるこの度の応募には、国内外から質の高い3675作品が寄せられ、 40名の選考委員による審査を経て、デザイン年鑑に掲載する486の入選作品が選出。同時に10の受賞作品、52のノミネート作品が決定しました。 「TDC2024」展では、その中から、受賞作品とノミネート作品を中心に特に評価の高かった約130作品を展覧します。今年も話題性のある豊かな作品が揃いました。
原 弘(はら ひろむ、1903年6月22日 - 1986年3月26日)は、昭和期の日本を代表するグラフィックデザイナーの一人。 人物[編集] ヨーロッパで開花した近代タイポグラフィー運動『ノイエ・ティポグラフィー』の理念を支持しながら、日本の活字文化で独自の表現の確立を志し、原はこれを『僕達の新活版術』と呼んだ[1]。原のデザインスタイルは理論的に組立てるもので、作家性のあるものではなく、依頼者側に立ち[1]、装幀、ポスター、パッケージなどを数多く手がけた。生涯に手がけた出版物の総数は、雑誌の表紙デザインなども含めれば、おおよそ3000点近くにもおよぶ[1]。 特に装幀において高く評価されており、1940年代末から1970年代半ばまで装幀者として第一線で活躍[1]。出版界に一時代を築いた[1]。美術評論家の勝見勝は原を『ブックデザインの天皇』と評している[1][2]。 原は日本デザインセン
田中 一光(たなか いっこう、1930年1月13日 - 2002年1月10日)は、日本のグラフィックデザイナー[2]。奈良県奈良市出身。本名は同じ表記で、読みは「たなか かずあき」。 昭和期を代表するグラフィックデザイナーの一人として活躍した[1]。グラフィックデザイン、広告の他、デザイナーとして日本のデザイン界、デザイナーたちに大きな影響を与えた。特にセゾングループのクリエイティブディレクターとして、セゾン文化の裏方を担った[3][1]。 自身の作風は琳派に大きな影響を受けており、間接的ながら琳派の作風を現代(1970年代以降2020年現在に至るまで)に広め紹介することとなった。 略歴[編集] 1930年(昭和5年) - 誕生 1950年(昭和25年) - 京都市立美術専門学校(現:京都市立芸術大学)卒業後[1]、鐘淵紡績入社 1952年(昭和27年) - 産経新聞社入社 桑沢デザイン塾
マンセル表色系 (まんせるひょうしょくけい、英: Munsell color system) とは、色を正確に表示することを目的とした表色系(顕色系)[1]。 概要[編集] アメリカの画家・美術教育者であるアルバート・マンセル(1858-1918)によって作り出された表色系で[1]、1898年に研究を始め、1905年にその成果として『A Color Notation』(色彩の表記)という本を著して発表した[2]。ただしこれは個人が作成した色体系であったため使う上では整理が必要となり、1943年にアメリカ光学会が視感評価実験によって修正を加えた[1][2]。修正したものは「修正マンセル表色系」とも呼ばれるが、現在一般的に「マンセル表色系」と言った場合は修正したものを意味する[1]。なお、マンセルの後に著した新しい書籍『Munsell Book of Colors』は現在でも使用されている。
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