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お茶の水橋に関するGuroのブックマーク (13)

  • お茶の水橋と御茶ノ水駅 : モデラーな日々 とれいんスタッフブログ

    1月末の東京では,お茶の水橋で都電のレールが発掘されたと話題になった. お茶の水橋とは,JR東日の中央線御茶ノ水駅と地下鉄丸ノ内線の御茶ノ水駅に隣接する鋼橋で,“いつもの”土木学会“歴史的鋼橋集覧”によれば,昭和6/1931年の横河橋梁製だそうである.長さは80メートル,幅22メートルであり括弧で“複線軌道併設”と付記されている. この“複線軌道”とは,いうまでもなく東京都電…東京市電の軌道である.水道橋から松住町を経て万世橋に到る路線の途中,お茶の水で分岐して駿河台下から錦町へ到る路線のものだった. もとはお茶の水橋の南詰めまでだったが,明治38/1905年に橋を渡って神田川沿いの路線と接続したのである.第2次世界大戦中の昭和19/1944年に他の8路線とともに不急路線として休止の憂目に遭って戦後も復活せず,昭和24/1949年に廃止された……. それが今回“発掘:されたということな

    お茶の水橋と御茶ノ水駅 : モデラーな日々 とれいんスタッフブログ
  • 変貌するお茶の水エリアから顔をのぞかせた麗しき「モダン都市東京」の面影 | アーバンライフ東京

    江戸城の外堀でもある神田川は、もとは郷台地から南下して江戸城方向へと向かう流れをもつ川でした。江戸初期に水害の防止と防衛上の見地から流路を東に変更することになり、郷と駿河台を間に隅田川へ流れ出るルートを掘削したのでした。 ブルドーザーなどなかった江戸時代、この土木作業は人力で行われたわけで、大変な工事だったことが想像できます。 2代将軍徳川秀忠が、この地にあった寺の湧き水で茶をたてたのが地名の由来とか。現在、御茶ノ水では駅の改良工事と東西ふたつの橋の補修工事が進んでいます。近隣に大学病院など、数多くの医療施設のある場所柄、駅のバリアフリー化は念願の大事業でした。変化する駅前風景を眺めながら、この街の歴史をふりかえってみましょう。

    変貌するお茶の水エリアから顔をのぞかせた麗しき「モダン都市東京」の面影 | アーバンライフ東京
  • 交通新聞 電子版|墨滴 2月14日付

  • テレビ朝日「グッド!モーニング」で都電遺構が取り上げられました

    2020年2月3日(月)の記事で予告していましたとおり、テレビ朝日の早朝情報番組「グッド!モーニング」が、2月4日(火)早朝6:50ごろから「都心の工事現場から都電の線路」というタイトルで、お茶の水橋の都電遺構を取り上げて下さいました(Abema TVでも、同日8時20分ころから再放送されました。)。 保存会としては、「今回出土した都電遺構は、都民の共有財産である」「レールと敷石をそのままの形で保存していただきたい」とのコメントを取り上げて下さったことに感謝しております。 実は、保存会が取材の申し込みを頂いたのは2020年2月2日(日)の20時すぎ、お茶の水橋の現地で保存会のメンバー2名が取材を受けたのは翌2月3日(月)の午後でした。それから放送まで約20時間という短い間に、お茶の水橋の都電遺構の存在を広く世に知らせ、その価値を飛躍的に高めた番組を制作して下さったことについて、「グッド!モ

    テレビ朝日「グッド!モーニング」で都電遺構が取り上げられました
  • お茶の水橋 - Wikipedia

    お茶の水橋(おちゃのみずばし)は、東京都千代田区神田駿河台一丁目と文京区湯島一丁目の間を流れる神田川に架かる橋である。付近の駅名から「御茶ノ水橋」との表記も見られるが、正しくは「お茶の水橋」である[1]。 歴史[編集] 江戸時代初期に台地が拓かれて神田川が造られ、この地に渓谷が誕生した。二代将軍の徳川秀忠は、この近くにあった高林寺の湧水で淹れた茶を気に入り、付近一帯は「お茶の水」と呼ばれるようになった。渓谷も「お茶の水谷」と呼ばれ、のちに橋名の由来となった。しかし当時の技術では深い峡谷に架橋することは困難であり、橋が建設されたのは明治に入ってからである[1]。 お茶の水橋(1905年) 初代の橋は1889年(明治22年)に東京市区改正条例の発布によって計画され、1890年11月に着工。わずか1年足らずの工期で、1891年(明治24年)10月に完成した[2]。設計は原龍太が担当[3]。日

    お茶の水橋 - Wikipedia
  • Rail Magazine(レイル・マガジン)【公式】 on Twitter: "お茶の水橋に出現した都電の軌道敷の撤去工事が始まっている様ですね。で、Twitterを色々見てみると戦時中の廃止後、しばらく軌道はそのまま残っていて、新聞記事では昭和37年でも現存していたとか、その後学生運動で、敷石を使って投石す… https://t.co/4e6VE4zv9f"

  • 神田川に架かる橋から戦時の線路が出現 保存の道を模索中

    古くなった橋の改修工事を始めたら、第二次世界大戦中に廃止された路面電車の線路と石畳があらわれたとSNSで話題を集めている。場所はJR御茶ノ水駅の西側、千代田区と文京区にまたがるお茶の水橋だ。軍事用ではないため不要不急路線とされ廃止に追い込まれたものの奇跡的に残った路面電車の線路は、埋蔵文化財ではないため文化財保護法における保護の対象になっていない。貴重な歴史的資料の今後について、ライターの小川裕夫氏がレポートする。 * * * 鉄道を運行するためには運転士や駅員などの人件費、車両や線路、駅といった施設の維持費などが必要になる。そのため、未来の収益の見通しが立たなくなった路線は、公共交通機関としての役割をかんがみても廃止になることはあり、過去、いくつもの路線がそのような運命をたどってきた。 利用者減少によってそのような決断に迫られた過去の経緯をたどると、マイカーの所有率が上がったことも一因と

    神田川に架かる橋から戦時の線路が出現 保存の道を模索中
  • お茶の水橋の都電錦町線遺構と保存会

    東京のど真ん中、お茶の水橋の上には、明治後半から昭和戦前の都電(当時は市電)のレールが、これまで奇跡的に埋もれ残されてきました。しかし2019年に道路整備工事の告知看板が立てられ、10月にとうとう工事がスタート。一部のレール・枕木が撤去されました(当時のレポートはこちら)。 この大変貴重な鉄道遺構をぜひ調査し後世に伝えたいと、Facebook上で仲間と結成したのが「お茶の水橋都電レール保存会」です。

    お茶の水橋の都電錦町線遺構と保存会
  • 神田の街を学生運動が席巻したころ③ /歴史写真館【大好き神田】

    昭和44年1月18日(土)東大安田講堂封鎖解除のため機動隊が学内に入り、攻防戦を繰り広げた。籠城学生を支援し順天堂病院から東大構内を目指そうとした反日共系の学生は明大前にバリケードを築き、敷き詰めてあった歩道板を割って投石用とし、御茶ノ水橋で阻止していた機動隊と衝突した。機動隊も催涙弾の水平撃ちで対抗した。翌19日(日)午後5時過ぎに安田講堂が陥落後、御茶ノ水駅から駿河台まで十一か所のバリケードで築かれた解放区が次々に撤去され、深夜ようやく街は平穏を取り戻した。この年東大入試は中止となった。 写真は陥落前の御茶ノ水交差点、右側の窓ガラスが壊されている建物が御茶ノ水駅交番。傍らの木は平成24年の現在も健在。 分 類:暮らしと生活 街の風景 提 供:多町二丁目町会 撮影年(和暦):1969(S44) 戻る

    Guro
    Guro 2020/01/29
    お茶の水橋 の都電の線路。学生運動の時代に敷石を剥がして投石した、、、という写真!
  • 【情報求む】お茶の水橋の都電遺構が眠りについた時

    この度出土したお茶の水橋の都電遺構は、都電錦町線が昭和19年に休止になったときからアスファルトの下で眠っていたとの記述を見かけますが、それは正確ではなく、昭和40年代前半までは、路面に露出したままであったが、その後アスファルトで覆われたとの情報があります。 国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」を用いて、保存会メンバーの清水達也が調査したところによれば、1966(昭和41)年6月29日に撮影された空中写真では、お茶の水橋に軌道のようなものが確認できるが、1971(昭和46)年4月23日に撮影された空中写真では軌道のようなものは確認できず、アスファルトで覆われているように見えるとのことです。 その間の1969(昭和44)年1月18日(土)に、「東大安田講堂封鎖解除のため機動隊が学内に入り、攻防戦を繰り広げた。籠城学生を支援し順天堂病院から東大構内を目指そうとした反日共系の学生は明大前にバ

    【情報求む】お茶の水橋の都電遺構が眠りについた時
    Guro
    Guro 2020/01/29
    (これは司書の出番かと)
  • 東京新聞:舗装の下に都電レール 東京・お茶の水橋 戦中に廃止、工事で地上に:社会(TOKYO Web)

    アスファルトをはがしたら、線路と石畳が出現-。東京都千代田、文京区境の神田川にかかる「お茶の水橋」の補修工事現場で戦時中に廃止された都電の遺構が見つかった。ネットでも話題となり、鉄道ファンらでにぎわっている。二十九日から撤去が始まる予定で「レールは公園などで保存を」との声も出ている。 (梅野光春、小松田健一) 工事を実施する千代田区によると、お茶の水橋は一八九一年にかけられ、一九二三年の関東大震災で焼失。三一年に今の橋が完成した。都交通局の資料によると、〇四年に橋を渡る路線が開通し、太平洋戦争で戦況が悪化した四四年まで運行されたらしい。 その後、線路はアスファルトで覆われたが、昨年十月、橋の路盤強化工事でアスファルトをはがしたところ、再び姿を現した。長さ一メートル前後のレールに製造年とみられる「1930」などの字が記されていた。今月二十日、工事範囲を広げると五十五メートルにわたりレールと敷

    東京新聞:舗装の下に都電レール 東京・お茶の水橋 戦中に廃止、工事で地上に:社会(TOKYO Web)
  • お茶の水橋都電レール保存会【公式】

    当保存会では、お茶の水橋の都電レール・敷石の嫁ぎ先として、これまでさまざまな教育機関・博物館とご相談を進めて参りました。 ここは船橋にある日大学理工学部科学技術史料センター。 「CSTミュージアム」として一般にも開放されているこの施設から、とても嬉しいお知らせをいただきました。 施設の前の広場をご覧ください。 当保存会からのご紹介で千代田区から譲り受けたレール、敷石、そして鉄製の枕木が、なんと出土当時そのままのレイアウトで精緻に復元されています・・・! 古レールの保存例は各所にありますが、敷石・枕木を含む路面軌道そのものが、2メートル以上にわたり正確に復元された例はなかなかなく、極めて珍しいものです。今から90年以上前、1931年に二代目お茶の水橋が竣工した昭和初期、世の中がまだ手作りだった時代の雰囲気を感じることができる、貴重な展示資料です。 敷石の間には、軌間(ゲージ)を保つための「

    お茶の水橋都電レール保存会【公式】
    Guro
    Guro 2020/01/27
    そうか!もう一本の線路はまだ眠ってるのか。
  • お茶の水に出現した戦前の都電線路跡 工事で開いたタイムカプセル | おたくま経済新聞

    東京・お茶の水の神田川に架かる「お茶の水橋」。2018年から歩道を拡幅し、舗装をし直すなどの補修補強工事が進められていますが、その過程で明治~戦時中に走っていた路面電車の線路が現れ、ネットで話題となっています。この線路の由来を含めてご紹介します。 東京を走るJR中央線の御茶ノ水駅は、神田川の谷(江戸時代に掘削された人工のもの)に沿ってホームが設けられており、上流側のお茶の水橋、下流川の聖橋に挟まれた立地。現在は1932(昭和7)年に作られた駅の大規模改良工事が、2025(令和7)年3月までの予定で進められています。 これに合わせて、御茶ノ水駅を挟む形で架かる聖橋と、お茶の水橋の補修補強工事も進行中。お茶の水橋は、原龍太の設計で初代の橋(初めて日人が設計した鉄橋)が東京石川島造船所(現:IHI)によって1891(明治24)年に完成しましたが、関東大震災で木製の床版(渡る部分)が焼失。現在の

    お茶の水に出現した戦前の都電線路跡 工事で開いたタイムカプセル | おたくま経済新聞
    Guro
    Guro 2020/01/27
    詳しい。。
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