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交通と歴史に関するsoramimi_cakeのブックマーク (2)

  • 変貌する渋谷駅「今しか見られない」巨大駅の一面

    のちに山手線の一部となる日鉄道の品川―赤羽間が開業した1885年3月1日に、新宿、板橋と同時に渋谷駅も開業した。つまりは当時、丘陵上に田園地帯が広がっていただけの山手線の沿線にあって、渋谷には一定の人口の集積があり、交通の要衝であったのだ。 東の宮益坂、西の道玄坂に代表されるように、渋谷とは地名の通り、渋谷川(隠田川)と宇田川の合流地点の深い谷底に位置する町で、今も起伏が激しく坂道が多い。 東京でも屈指の駅に成長 開業日の渋谷駅の乗降客は皆無であったと伝えられる。現在は1日平均約29万人(2022年度)が乗車する、JR東日でも屈指のターミナル駅へと成長した。東急電鉄、東京メトロ、京王井の頭線も乗り入れ、人の流れは絶えない。 渋谷の町自体が古い歴史を持っている。地名の由来には諸説があるが、相模国高座郡渋谷荘をルーツとする武士、渋谷氏が領有した土地であるがゆえとの説が有力だ。渋谷荘は現在の

    変貌する渋谷駅「今しか見られない」巨大駅の一面
  • 徳川家康の「伊賀越え」を徒歩で再現する旅は失敗に終わったので家康が成し遂げられた理由を考えてみた

    能寺の変の知らせを聞いた徳川家康が大阪から愛知県に位置する岡崎城まで3日で帰ったという「伊賀越え」を徒歩で再現する旅に挑んでいたのですが、2日目にして足の裏が激しく痛むトラブルが発生し、結局3日目は1歩も進めず伊賀越えは失敗に終わりました。なぜ失敗してしまったのかを振り返りつつ、伊賀越えを成し遂げた家康の身体能力について考察してみることにします。 ◆伊賀越えとは? 能寺の変で織田信長が討たれた際に、家康は堺(現在の大阪府堺市)周辺を遊覧中でした。家康は堺から大阪府四條畷市に位置する四條畷神社に移動した際に能寺の変の知らせを聞き、そこから伊賀を経由しつつ愛知県岡崎市に位置する岡崎城まで3日で帰り着いたと伝わっています。この大移動は「伊賀越え」や「神君伊賀越え」として現代にまで言い伝えられているのですが、「3日という短期間で四條畷神社から岡崎城まで移動する」ということが当に可能だったの

    徳川家康の「伊賀越え」を徒歩で再現する旅は失敗に終わったので家康が成し遂げられた理由を考えてみた
    soramimi_cake
    soramimi_cake 2023/07/19
    "伊賀越えの再現ルートは、極一部を除いてアスファルトで舗装された道で構成されています。このアスファルトの硬さが足を徐々に痛めつけていた"
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