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文学に関するyomo_w5_3のブックマーク (8)

  • 本が読めない32歳が初めて芥川龍之介を読む日 | オモコロ

    この記事は、が読めないWEBライターが初めて芥川龍之介のを読むだけの記事です。 <この記事に出てくる人> WEBライターなのにが読めない。文字そのものが苦手なので自分が書いた記事を読み返すこともしない。 友達。みくのしんがを読む手伝いをする。 今日、みくのしんが読むのは芥川龍之介の『トロッコ』 中学生の教科書に採用されているので、読んだことがある人も多いかもしれませんね。 みくのしんに見せたところ、「タイトルは聞き覚えがある!」「トロッコっていいよね!」「ドンキーコングのトロッコステージ好きだった!」と言っていたので、きっと最後まで読んでくれることでしょう。 ▼編集部注 予め申し上げておきますが、この記事はとても長いです。 普通に「トロッコ」を読むより長いです。何卒ご了承ください。 みくのしんは「芥川龍之介」って知ってる? 一回だけ観たことある。「ALWAYS 三丁目の夕日」に出て

    本が読めない32歳が初めて芥川龍之介を読む日 | オモコロ
    yomo_w5_3
    yomo_w5_3 2023/04/25
    短編の天才を取り上げた記事で、思いの丈を百字に詰め込むという僭越な行為をしそうになったので、「そうだよね! 一言一句しっかりと解釈するって素敵なことだよね!」と叫ぶに留めます
  • 「お金は生死のルールを超越していると見せかける」──作家・川上未映子の死生観と「お金」への思い

    最新作『黄色い家』は「黄色」と「お金」を巡る物語だ。世界的にも今、最も注目を浴びる作家の一人である川上未映子が、 資主義と分かち難いという死生観や、 今作で拓けた作家としての新境地を語る。

    「お金は生死のルールを超越していると見せかける」──作家・川上未映子の死生観と「お金」への思い
    yomo_w5_3
    yomo_w5_3 2023/03/18
    読売で当該作読了。好みでなかったが、毎日での斎藤環の激賞をはじめ、各方面で評価された作品のよう/毎朝連載を読むために僅かな金を購読料に充ててた、という読者の声を載せた読売記事は色々な意味で印象に残った
  • 芥川龍之介の死の遠因はスペイン風邪か 宮坂覺さん「新説」寄稿 | 毎日新聞

    3月に生誕130年を迎えた作家、芥川龍之介(1892~1927年)。「羅生門」「鼻」など多くの名作を残し、35歳で自ら命を絶った作家は、分かっているだけでも2度にわたってスペイン風邪に感染している。従来、その関係はあまり注目されてこなかったが、フェリス女学院大名誉教授で国際芥川龍之介学会ISASの前会長、宮坂覺(さとる)さんは、スペイン風邪とその後遺症が死の遠因となったという「新説」を提唱する。これまで、芥川の晩年の体調不良は、21年に大阪毎日新聞の特派員として中国旅行した際の無理がたたったと考えられてきた。長引く新型コロナウイルス禍が発想の転換をもたらしたという宮坂さんに、芥川とスペイン風邪について寄稿してもらった。 100年前のパンデミックが及ぼしたもの 芥川龍之介が、大阪毎日新聞による中国への特派旅行に出発したのは、1921(大正10)年3月のこ…

    芥川龍之介の死の遠因はスペイン風邪か 宮坂覺さん「新説」寄稿 | 毎日新聞
    yomo_w5_3
    yomo_w5_3 2022/04/14
    "スペイン風邪にフォーカスし、芥川の年譜、書簡、当時の新聞報道などを精査すると新たな問題があぶり出される"仮説・主題の重要性を示す好例。人間の読解力は有限だから資料の解釈には何らかのテーマ設定が不可欠
  • 喜久乃湯温泉 (山梨県甲府市)

    喜久乃湯温泉は山梨県甲府市の市街地にある温泉銭湯です。 男湯の暖簾をくぐると番台があり、お姉さんに入浴料を払います。 お姉さんは入口に背を向けて男女の脱衣所を見渡せる位置にあるいう、昔ながらの銭湯方式です。 脱衣所の壁の上には地元店の色あせた看板が多数掲げられていて、とにかくレトロな雰囲気です。 これらの店舗はまだ存在するのだろうかとも気になります。 脱衣所から2階の大広間への入口があり、休憩込みのコースで入ると一日ゆったりできるようになってます。 浴室は銭湯にしては広めで、湯船は水風呂を含めて4つあります。 手前の2つは循環のあつ湯で、ジェットバスとバブルバスになっています。 奥に源泉の4人サイズのかけ流し(加温)と書かれた湯船があります これもバブルバスになっていて、落ち着きのない湯船ばかりです。 窓から外が見えますが、何かの葉っぱが見る程度です。 その奥は加温もない源泉そのものなので

    喜久乃湯温泉 (山梨県甲府市)
  • 大器晩成の意味

    増田で『老子』もしくは『魏書』を引いている投稿があったので、久しぶりに『老子』の原文に触れた。 「大器晩成」っていつも疑問で、漢代以降の「大人物(あるいは大事業)は時間をかけて完成するのだ」的な解釈でもいいんだけどさ。 最近、古い文字資料が出てきて「大器免成」と書かれてて、「大器」は成立することを免れる、だから成立しないのだ、なんて逆の解釈することもある。 この新解釈は耳目を引きがちだが、それゆえに、取ってつけたような印象を受ける。 老子の原文、「大器晩成」がある辺りはおんなじような文構成になっている。 明道若昧。進道若退。夷道若纇。上徳若谷。大白若辱。廣徳若不足。建徳若偸。質眞若渝。大方無隅。大器晩成。大音希聲。大象無形。 明るい道は暗きがごとし。 道を進んでいるようで退いている。 高い徳は谷のように深く。 大いに白いものは辱(よご)れているように見え、 広い徳は、足りていないように見え

    大器晩成の意味
    yomo_w5_3
    yomo_w5_3 2017/06/30
    老子とはてサは相性が悪いと思ってたので賞賛が大勢のブコメは意外。不尚賢使民不争~は実力主義の否定、古之善為道者非以明民~・小国寡民使有什伯之器而不用~は愚民化政策、大器晩成は実学主義への皮肉じゃないか
  • 「鹽壺の匙」車谷長吉(夢は枯野をー48) : 同伴者の本棚

    車谷長吉が容易ならざる私小説作家であると、文学関係者にあまねく認知されたのは、平成4年10月に上梓(じょうし、註)された短篇集「鹽壺の匙」(しおつぼのさじ)によってであろう。車谷長吉にとって、はじめての刊行著作が「鹽壺の匙」であった。そのあとがきには、こう記されている。 (註・著書を出版することであるが、次章でみるように車谷長吉は、「上板」という言葉を使っている。) 「詩や小説を書くことは救済の装置であると同時に、一つの悪である。ことにも私小説を鬻(ひさ)ぐことは、いわば女が春を鬻ぐに似たことであって、私はこの二十年余の間、ここに録した文章を書きながら、心にあるむごさを感じつづけて来た。併(しか)し、にも拘わらず書きつづけて来たのは、書くことが私にはただ一つの救いであったからである。凡(すべ)て生前の遺稿として書いた。書くことはまた一つの狂気である。 この二十数年の間に世の中に行われてい

    「鹽壺の匙」車谷長吉(夢は枯野をー48) : 同伴者の本棚
    yomo_w5_3
    yomo_w5_3 2017/06/07
    "「鹽壺の匙」のあとがきには、こう記されている(略)書くことが私にはただ一つの救いであった(略)また一つの狂気である""倅の一人は作家、娘は穀潰し、弟は信仰・福祉。みんな極道や。(略)母の嘆きである"
  • 車谷長吉 『漂流物』 - カタヨリ紙

    海からの涼しい風が吹いてくるここは、この幽霊屋敷の日陰は、どういうとこや。十円玉の賭けで表が出た場所が、ここや。けど、わしにはここがどういうとこか、分からへん。すべてを捨てて来た果ての場所なんか、すべてを失った果ての場所なんか。所持金は、わずかしかあらへんがな。あと、二、三日したら、また空っぽや。すっからかんや。そのあとは、どないして生きて行くねん。考えとうはないことが、立ち上がってくるが。わしの中に、棒みたいに立ち上がってくるが。つらいが。悲しいが。粋やが。 『漂流物』/車谷長吉(新潮文庫)より 【ご紹介した

    yomo_w5_3
    yomo_w5_3 2017/06/07
    "私小説とは純粋にヤイバを自己のみに向ける(略)捉え方があるが、彼は(略)同時に社会へも向けている。もちろん太宰だってそれと似たことはやるが、(略)車谷長吉はそうではない。作品全体が反社会的なのである"
  • 読書案内No.163 車谷長吉/蟲の息(漂流物より) 生きることは「苦」であり「行」である - 吟遊映人 【創作室 Y】:楽天ブログ

    2015.06.07 読書案内No.163 車谷長吉/蟲の息(漂流物より) 生きることは「苦」であり「行」である テーマ:今日どんなをよみましたか?(83381) カテゴリ:読書案内 【車谷長吉/蟲の息(漂流物より)】 ◆生きることは「苦」であり「行」である バッハの楽曲には「身・口・意・生のすべてによって神を讃えることを主題にした宗教音楽」がある。 バッハはたまに耳にするが、間違いなく神聖で崇高なメロディーだ。 一方、釈迦の教えでは、「人の身・口・意が行なうすべてのふるまいを業と言い、業は次ぎ次ぎに因果を呼び込む苦」である、という。 さしあたり車谷長吉は、その業を背負ってこの現よを彷徨っている作家と言えるかもしれない。 残念ながら、彼はバッハのように、文学を通して何かを讃えるなんてことはできなかった。 むしろ「人の生死には来、どんな意味も、どんな価値もない」ことを、冷静に教えてくれる

    読書案内No.163 車谷長吉/蟲の息(漂流物より) 生きることは「苦」であり「行」である - 吟遊映人 【創作室 Y】:楽天ブログ
    yomo_w5_3
    yomo_w5_3 2017/06/07
    "バッハの楽曲には「身・口・意・生のすべてによって神を讃える(略)音楽」がある""一方、釈迦の教えでは(略)因果を呼び込む苦""車谷長吉は、その業を背負って""文学を通して何かを讃えるなんてことはできなかった"
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