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criticismに関するtukinohaのブックマーク (115)

  • 可能世界論の可能性/不可能性

    @crow_henmi 次回の #WannaBQ においては、ポストアポカリプスの「大量死/大量生」に対して探偵小説が向き合った困難と克服及びアポカリプス自体をゲーム的想像力の側から書いた作品として「まどマギ」について語ろうとか思ったが、余りにも時勢に流されて大阪なので微妙だ罠。 2011-03-16 19:49:31 @crow_henmi 取り返しの付かないものを取り返そうとしてループすると取り返しの付かないものの個別性が偶有性に後退し、結果として取り返したにもかかわらず価値を失っているという問題は、ゲーム的想像力の中でどのように解決されたかというと、まあひぐらしでありうみねこです。 2011-03-16 19:54:11 @crow_henmi メタ物語レベルでの一回性を構築し、それにより偶有性増大による価値後退をい止め、むしろその繰り返しによって「取り返しの付かないもの」の価値を

    可能世界論の可能性/不可能性
  • 逆セカイ系から見た私 ゼロ年代のジャンル史論 - 感情レヴュー

    私は「エヴァ」にも「lain」にもノれませんでした。疎外と孤独を扱っていればアニメやゲームとして認められてしまうところが、この業界の19世紀的な幼稚さです。あの手のモノが、ぼくは大ッッ嫌いです。(『伊藤計劃記録』伊藤計劃、二〇一〇年) 1 このところ、批評の世界ではゼロ年代の表現史を総括する言説が増えている。そのきっかけとなったのは周知の通り宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』(二〇〇八年)だが、それに対してはこれまで賛否両論あった。とりわけ問題になっているのは、そこで宇野が問題にしたセカイ系なる概念だ。稿は、この概念が流行し、また衰退していく時代の文学表現について、ジャンル論・ジャンル史の観点からまとめるものである。 まずは、宇野を批判的にとらえながら、セカイ系を総括した前島賢の『セカイ系とは何か ポスト・エヴァオタク史』(二〇一〇年)を手引きにして議論をはじめることにしたい。 通常考えら

    逆セカイ系から見た私 ゼロ年代のジャンル史論 - 感情レヴュー
  • 高橋源一郎氏「おれを批判している一部の現代詩人に応える」まとめ

    高橋源一郎 @takagengen 日の予告編・今日は久々に「路上演奏」というか「午前0時の小説ラジオ」をやります。タイトルは「門外漢の言」。今回は「ぼく」や「わたし」ではなく「おれ」にしゃべってもらう予定。というのも、ほんとうのところ、素の自分に近いのは「おれ」だからだ。 2010-07-10 22:57:03 高橋源一郎 @takagengen 予告編2・今回の「路上演奏」は、もともと、おれを批判している一部の現代詩人に応えるものだ。だが、そんなほとんど誰も読まないテーマについて、こんな「公」の場でしゃべっても意味なんかないと思う。だから、おれは、その問題を、誰にとっても意味あるものに「翻訳」しながらしゃべるつもりだ。 2010-07-10 22:58:39

    高橋源一郎氏「おれを批判している一部の現代詩人に応える」まとめ
  • 東京大学(英米文学)・阿部公彦の書評ブログ : 『近代文学の終り』柄谷行人(インスクリプト)

    →紀伊國屋書店で購入 「柄谷ファンクラブをめぐって」 せっかく柄谷行人のものをとりあげるなら『探究I』とか『探究II』とか『トランスクリティーク』とか、あるいは『日近代文学の起源』など、堂々とそびえ立つ記念碑的な作品から選ぶべきなのかもしれないが、書後半に掲載された座談会中の次の一節に出くわして、このを話題にしてみたくなった。浅田彰や大澤真幸らを相手にNAM運動の失敗について振り返った部分である。 NAMがうまくいかなかった理由の一つは、まずインターネットのメーリングリストに依存しすぎたことです。(中略)もう一つは、運動に経験のある未知の人たちに会って組織すべきだったのに、僕の読者を集めちゃったわけね。インターネットでやればどうしてもそうなる。それで、柄谷ファンクラブみたいになってしまった(笑)。しかし、ファンクラブというのは実は互いに仲がわるいうえに、僕に対して別に従順ではなくて、

    東京大学(英米文学)・阿部公彦の書評ブログ : 『近代文学の終り』柄谷行人(インスクリプト)
  • Cultural Identity and It's articulation

    文化的アイデンティティ 1960年代後半に顕著となったアイデンティティの政治学は、女性や黒人からの運動、また対抗文化といわれるサブカルチャーの出現に代表される。今日では、ポストコロニアルやグローバルリゼーションの視点も踏まえ、人種、ジェンダー、性的嗜好、階級、宗教、エスニシティ、ネイション、世代など、様々なアイデンティティの枠組みが言及され、それら各相互の錯綜が焦点となってきている。それに伴い、これらの焦点をまとめるタームは、幾分自己防御的な意味合いを持った「アイデンティティの政治学」から、様々な抑圧や圧力から自己を開放する方向性を持った「差異の政治学」へと移行しつつある。 ' The Personal is Political.'という言葉に象徴されるこれら様々なアイデンティティの「政治化」では、とりわけ「文化的なもの」が取りざたされる。稿で使用するのは「文化的アイデンティティ」なわけ

  • 田中秀臣「マンガ批評マップ2010」 - ビジスタニュース

    田中秀臣「マンガ批評マップ2010」 2010年02月09日22:56 担当者より:経済学者の田中秀臣さんに、日のマンガ批評の現在について書いていただいたものをアップいたしました。現状の見取り図としても非常に有益な内容になっているかと思いますので、ご一読ください。 配信日:2010/02/03 ゼロ年代最後の一年は日のマンガ批評にとっては興味深い年になった。まず国際的なイベント「世界のコミックスとコミックスの世界――グローバルなマンガ研究の可能性を開くために」が開催された。内外のマンガ研究者を結集させたイベントは参加者にはそれなりの刺激になったことだろう。 上記のイベントで基調講演を行ったフランスのマンガ研究者ティエリ・グルンステンを中心にしたシンポジウムに私は参加した。特にグルンステンの『マンガのシステム』(2009年、青土社、野田謙介訳)をめぐる日のマンガ研究者(伊藤剛、竹

  • 中二病という桎梏――現代伝奇はこの先生きのこることができるか―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    2010年1月22日更新。 「中二病と云う言葉が使われる度に、世界から大切なものがひとつ消えていく」 ――元長柾木―― 中二病とか云って現代伝奇のテンプレ要素が否定されて行く時代に、ぼくたちはどうやって現代伝奇を書けばいいのか問題。 中二病同士が己の尊厳をかけて邪気眼バトルする話が現代伝奇の来の姿であり、いまでも売れ線の作品に多く見受けられるが、その想像力はすでにネタ化され、アイロニカルに語られるものになりつつある。ここでも使っている「中二病」あるいは「邪気眼」といった概念によってネタ化された現代伝奇の想像力は、ある種の行き詰まりを見せていると云えるのではないか。 しかしなぜこのようなアイロニカルな変容を、現代伝奇の想像力は経てきたのだろうか。そこには「時代的感受性のアイロニカルな変遷」というものが関係しているように思われる。具体的にはどういうことか。 まあこれはいつもの後期近代論とポス

    中二病という桎梏――現代伝奇はこの先生きのこることができるか―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    tukinoha
    tukinoha 2010/01/23
    アイロニカルな没入をどう実証付けるかということと、自己と他者が「つながる」とはどういうことなのか、についてよくよく考えてみなければならないと思う。
  • 宇野常寛と決断主義をめぐる対話

    @crow_henmi @hachimasa 混沌に対し秩序を打ち立てる行為主権者としての決断、と云う意味においては原点のシュミットの決断主義ともつながるんだぜ>宇野さんの決断主義 2009-12-21 22:20:08 @crow_henmi シュミットにおいて秩序とは再復されうるものであったが故に「例外状態」すなわち法の外部からの混沌の侵入に対して権力を持つものが決断しなければならないとなるのだけど、宇野さんの場合、そんな秩序は再復されようがないので個人は個人の小さな秩序を戦いの中で勝ち取らねばならないとなる。 2009-12-21 22:31:26 @crow_henmi 極言すると、シュミットにおける「例外状態の常態化」のなかでホッブス的闘争を繰り広げていくことが宇野さんいうところの決断主義の基盤で、宇野さんはもちろんこれを理念的にも現実的にも是認していない。だからまあモバイル的実

    宇野常寛と決断主義をめぐる対話
  • ゲームライターがスーパーマーケットを観察する理由。

    最近Twitterをやっていまして、こんな会話がありました。以下やり取りをかいつまんで引用します。 日で4番目に多い名字 (tadaken_t) on Twitter @TaoriHiromu お疲れ様です&はじめまして。All aboutでの記事いつも楽しみにしてます。TaoriHiromuさんはいつもどんなサイトを見て、研究されてるんですか? 田下 広夢 (TaoriHiromu) on Twitter @tadaken_t インターネットよりは、身近な風景から得る情報の方が大きいかもしれません。例えば、スーパーマーケットを僕はよく観察します。(後略) 日で4番目に多い名字 (tadaken_t) on Twitter @TaoriHiromu ゲームの記事を、書くために、スーパーを観察ですか。やっぱりゲーム文化的なものと捉えられているからですか?質問ばかりですみません。 twi

  • 確率の前と後 - on the ground

    東浩紀が福嶋亮大にインタビューを受けた「オルタナティブの思想」『批評の精神分析 東浩紀コレクションD』(講談社BOX、2007年)から(初出2006年)。 じゃあおまえはなぜ一回性とか確率とか言うんだ、というと、これはちょっと難しい話で、僕もよく言語化できません。そのうえで言うとこんな感じです。つまり、人生が百万回くらいあったとする。永劫回帰です。みな人生は一回しかないから貴重だと思っているわけだけど、当はそうじゃない。それで、僕の人生はすでに十回繰り返されていて、いまがその七回目だとする。僕の哲学というのは、その七回目の人生は七回目なりにグッドエンドを目指そう、みたいな感じなんです。僕が『ファウスト』の原稿で言いたかった一回性は、そういう一回性です。無数の反復のなかの一回。 こんなことを言うとバカにされそうだけど、僕のポストモダンの二層構造とか、ああいう話の根底にあるのは当に美少女ゲ

    確率の前と後 - on the ground
  • アニメとベンヤミンと翻訳 - Baker Street Bakery > パン焼き日誌

    サイトを巡回していると、id:tukinohaさんのところで、翻訳とアニメに関して触れた記事を発見したので、翻訳研究の専門家として反応してみます(勝手にやっちゃって申し訳ございません、tukinohaさん。どうかご容赦を)。今回は当該エントリをご参照しつつお読み下さい。 まずはベンヤミン「翻訳者の課題」における「純粋言語」の話なのですが、厳密な話はとりあえず置いておいて(あと「純粋単語」というものが存在し得ないことを前提として)非常にざっくりと俗っぽく読んでしまうと、それは「ある原典にどれだけ翻訳を重ねても、その核になるようなものが残るんじゃないか」というようなことです。 たとえばAというオリジナルがあって、それがA→B→C→D→E→F→Gというように別の言語にどんどん訳されていった場合、それは伝言ゲームのように変質していって書かれた言葉も違えば表現も違い、雰囲気もニュアンスもまるで変わっ

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  • 『孤独のグルメ』と現代人の生活(その2)――満たされない空腹としての孤独 - metamorphosis

    井之頭五郎とは、いったい、何者なのか? 彼は、この作品においては、まず、非常に特別な人間として登場する。どこにでもいる人間ではなく、非常に特殊な人間。それは、「若き大女優」とのパリでのロマンスの思い出があるような人物である。そうした特殊な人間が、山谷という、これまた特殊な場所を訪れることによって生じる違和感。井之頭五郎の孤独がまず位置づけられるのは、こうした特殊性においてのことである。 しかし、井之頭五郎の孤独は、徐々に一般的なものになってくる。五郎は特別な人間ではなくなり、言ってみれば、大衆の代表者のような人物になっていく。そこにおいて、問題となる孤独は、彼個人の特殊性から生み出される孤独ではなく、われわれの孤独となる。若き大女優とのラヴロマンスも、江ノ島での「さえない思い出」へと変化していくのである。 五郎の孤独を、特殊なものではなく、一般的なものとして捉えることがぜひとも必要だろう。

    『孤独のグルメ』と現代人の生活(その2)――満たされない空腹としての孤独 - metamorphosis
  • 『孤独のグルメ』と現代人の生活(その5)――生の根本的な要求としての空腹、都市の軋みとしての群衆の声 - metamorphosis

    今回は、まず、『SPA!』2008年1月15日号に載った『孤独のグルメ』の特別編から話を始めたい。 この特別編の舞台は病院である。つまり、病院べる井之頭五郎の姿が(半ばパロディ的に)描かれるわけである。これまで、この『孤独のグルメ』論で問題にしてきたことの文脈から言えば、病院という場所は、孤独な都市生活者にとって、ほとんど唯一の休息の場所だと言えるだろう。そこは、また、近代文学者にとっての安らぎの場所でもある。極言すれば、近代文学者にとっては、病気(精神的にも肉体的にも)であることが過酷な日常生活を送るための防衛措置となっているのであり、同様のことは、都市生活者にとっても、ある程度、言えることなのである。孤独な都市生活者は、出口のない迷路の中を当てもなくさまよい続けて、最終的には行き倒れて死ぬわけだが、その前に、一種の予行演習として、病院に運ばれるわけである。病気や怪我が治って退院し

    『孤独のグルメ』と現代人の生活(その5)――生の根本的な要求としての空腹、都市の軋みとしての群衆の声 - metamorphosis
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  • 批評のゼロ年代と「幻影城」の七〇年代 - ENDING ENDLESS 雑記帖

    asahi.Com http://www.asahi.com/obituaries/update/0527/TKY200905270111.html 訃報を知り、驚いている。 第9回格ミステリ大賞の受賞者記者会見で、私は話した。江戸川乱歩のような過去の作品は子どもの頃から読んでいたが、同時代に生み出されたミステリを読んだのは栗薫『ぼくらの時代』が初めてだった、と。同じく、同時代の文芸評論で読んだ最初の一冊は、中島梓『文学の輪郭』だった、と。今思えば、文芸・音楽評論家と称する円堂都司昭のジャンル横断体質は、初期の中島梓/栗薫から受けた影響が大きい。 しかし、結局、人にお会いすることのないままだった。 ご冥福をお祈りします。 『「謎」の解像度』のコンセプトからはズレていたため収録しなかったが、自分は過去に約60枚の中島梓/栗薫論を書いたことがある。 http://noririn414

    批評のゼロ年代と「幻影城」の七〇年代 - ENDING ENDLESS 雑記帖
  • 『火垂るの墓』に対するロジャー・エバートのレビュー - A Successful Failure

    1年前のエントリ「『火垂るの墓』に対する最も参考になる米Amazonレビュー」は多くの関心を集めた。最近でも「日視覚文化研究会」で再度取り上げられるなどアクセスが続いている。一方、1年前556だった米国Amazonのレビューは1年を経た現在581までその数を伸ばしており、高評価を維持している。日Amazonにおいても米国に比べれば数は少ないが良いレビューが集まってきている。 実ははてなブックマークのid:saike氏のコメントで知ったのだが、『火垂るの墓』に関しては米国で最も著名な映画評論家の一人であるロジャー・エバート(Roger Joseph Ebert)が自サイトにおいてレビューを掲載している。心情に訴えるという面では米Amazonレビューの方が優れている面もあるが、『火垂るの墓』に対する著名海外映画評論家による専門的で論理的かつ客観的な評価が良く分かる素晴らしいレビューなので

    『火垂るの墓』に対するロジャー・エバートのレビュー - A Successful Failure
  • アニメ批評が低調な理由について - tukinoha’s blog

    アニメ批評が育たないのはなぜか、ライターが既得権益を守っているからだ、編集者が怠慢だからだ、というのはやさしいけれど、当の原因はぼくはそこにはないと思う。アニメ批評の読者が育っていないことこそが、問題なのです。批評というだけでヒステリーを起こし、くだらない揚げ足取りをするひとばかりが目立つのでは、だれもアニメについて批評なんかしなくなるに決まっている。 東浩紀の渦状言論: 山寛氏と対談 東浩紀氏による「アニメ批評」批判、というか、批評の根付かないアニメ文化批判。異論が出るのも当然でしょうが、概ね正しいと僕は思います。しかし、批評家に問題がないのかと言えばそうでもないし、一般的にイメージされる「批評家」像はすでに耐用年数が切れているのでそれも更新しなければいけないでしょう。そもそも日においては、どのようなジャンルであれ欧米と比べて批評家に権威がありません。例えば演劇だと「上演中に朝日新

    アニメ批評が低調な理由について - tukinoha’s blog
    tukinoha
    tukinoha 2008/11/11
    ここに「実感信仰」の問題を絡めれば、もう少しわかりやすい記事になったかも/↑「俺これリアルタイムで見てたよ」は非常に良い例え。「アニメ化する前から知ってたよ」は、うーむ、どちらとも言えない。
  • PHEENIX::SELL

    Creation Date Sun, Jul 23rd 2017 Expiration Date Mon, Jul 23rd 2018 Age 2 years Seller Pheenix Marketplace

  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    牛乳とドーナツ 冷蔵庫で冷やされパキパキに固まった砂糖が鱗みたいにまとわりついているドーナツを取り出すと、マグカップに牛乳を注ぎ、少し時間を置く。 読みかけたのことか、はたまた別のことか、何かを考えながら惰性でドーナツをべてしまい、それを牛乳で流し込むのを忘れた…

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  • AskJohnふぁんくらぶ: ANIMEで瞳の色が右と左で違う人がときどき出てくるのはなぜ

    質問 ANIMEの登場人物で、ときどき右と左の目で色が違っていたりオッド・アイだったりする(いわゆる虹彩異色症)のはなぜですか。それから片目に眼帯の人物がANIMEにはたくさん出てくるのも不思議です。雰囲気が違う人物、何か特殊な能力をそなえた人物という設定の時によく見かけます。例えば『一騎当千』の呂蒙(りょもう)や『ブラックキャット』のスヴェンがそうです。虹彩異色症キャラがANIMEで好まれるのは何か日ならではの理由が背後に絡んでいるのか、それとも単に絵柄上の流行りなのか。あとキャラクターの描き分けがしやすいからでしょうか。例えば『ローゼンメイデン』のふたごの姉妹人形は左右の瞳の色違いがふたりでちょうど一対の関係にあります。あの場合は印象的なデザインになるからという以外に物語上も人物設定上も理由らしい理由はないように思うのですが、一方で『ブラックキャット』のスヴェンの場合は、あの目には未

    tukinoha
    tukinoha 2008/09/25
    コメント欄が面白い。