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セルクマに関するtukinohaのブックマーク (50)

  • 次のAmazonレビューを確認してください: ヘイトスピーチ 「愛国者」たちの憎悪と暴力 (文春新書)

    書が書かれた動機は以下の文章で明確に示されている。 「私は当初、聞くに堪えないヘイトスピーチの”主体”に関心を持ち、主に在特会を追いかけた。彼ら、彼女らが何者であるのかといった視点で取材を重ねた。〔中略〕だが、いまは加害者分析に時間を取られる必要を私は感じていない。というのも、差別扇動の主体はもはや在特会だけに限定されていないからだ」(256頁) 第7章ではヘイトスピーチへの「カウンター」活動に触れているが、全体を貫くトーンは重く、苦しい。エピローグで紹介されている水俣病患者への差別(患者に対する「お金がほしいだけなんでしょ?」という非難)は、書の主題である「在日」差別が、より大きな問題の一部であることを示して余りあるように思われる。 政治コミュニケーション論では他者を「自分の利益しか考えない存在」として見ることを「シニシズム」と呼ぶらしいが、在日が、被差別部落が、水俣病患者が、福島の

  • そろそろ「従軍慰安婦」問題について一言いっておくか - tukinoha’s blog

    屋上屋を架すつもりはないので、最近話題の論点からはやや外れた部分について書きます。「一言」といっておきながら全然ひとことで終わらないのはお約束ということで。 1.国家間の問題?被害者はどこにいった? 90年代における「アジア国民平和基金」が挺隊協のような慰安婦支援団体からも批判されたことは有名ですが、この基金を推進した側としては元「慰安婦」は高齢化しているので、たとえ拙速であっても今のうちに補償しなければならないという判断がありました。これに対して挺隊協などは民間基金ではなく政府による公的な基金でなければならないとして、元「慰安婦」の利益よりもむしろ「政治的な筋を通す」ことを優先したわけです。私としては前者の立場により共感します。 2000年代以降では現在がもっとも「慰安婦」問題に注目が集まっているように思うのですが、その割には、みなさん妙にのんびりしているように感じるのは私だけでしょうか

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    tukinoha
    tukinoha 2014/09/17
    id:tanaka_yuumaなるほど、勉強になります。
  • 交換とは限定された戦争である - tukinoha’s blog

    という一般論について。企業戦士の心得を説こうというわけではない。 他人のものが欲しい、と思ったとき、取るべき手段は3つある。 1.奪う 2.諦める 3.交渉して自分のものと交換する。 1はリスクが高い。2は得るものがない。3がベターである。しかし、相手がほしがるような交換材料を、自分は持っていないかもしれない。ここに、万能な交換材料としての貨幣の必要性が生まれる。 しかし、貨幣とは何だろうか? 現在のように、金属や紙が貨幣として普遍的な価値を持つようになったのは、歴史上、むしろ例外的な出来事である。古代から中世においては、目的に応じた多様な貨幣が存在した。たとえば米、たとえば女性。これらは、それ自体が普遍的な有用性を持つために、貨幣の役割を果たしやすいものである。 貨幣としての女性、というテーマでもう少し考えてみよう。 普遍的な価値、という点では文句なしである。共同体の存続のため、女性を奪

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    tukinoha
    tukinoha 2013/02/09
    こんなこと書いてたのか、自分。
  • 大正期の社会と社会科学(6)−社会科学者、相対性理論と出会う - tukinoha’s blog

    社会や国家を論じるときには、自然科学のような厳密さをもって臨まなければならない。いや、むしろ、自然科学と同じ方法で社会や国家も論じなければならない――このような発想は、現在ではあまり人気がありませんが、少なくとも明治から大正にかけては常識的な考えでした。 たとえば福沢諭吉。たとえば加藤弘之。彼らは若年期に儒教的な教養を摂取し、成人後も議論の端々にその影響を見せながらも、一方で儒教から身を引き離すために自然科学をモデルとした「観察」と「実験」「事実」に基づいた議論の重要性を強調したのでした。ただ、こうして援用される自然科学の内容も流行があり、きわめて大雑把にいえば以下のようになるだろう、と私は見ています。 明治初期:物理学(ニュートン物理学) 明治中期〜大正初期:生物学(進化論) 大正後期:物理学(相対性理論) 昭和〜:生物学(DNA理論) こんなに図式的に切断できるわけがない、というのは承

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  • 寺社参詣と拝観料 - tukinohaのアニメじゃない日記

    拝観料という制度が生まれたのは江戸時代に入ってからのことであるが、ただ、鎌倉時代の後期ごろから一般の拝観者がお賽銭を投げるという制度は存在しており、これが実質的には拝観料の代わりとなっていたと考えられている。 中世史を専攻している知人に聞いた話だと、金銭を投げる賽銭と平行して、米を納めることも行われていた。これは私鋳銭や破欠銭などの悪銭が一般に流通し、貨幣の価値が安定していなかったためである。16世紀ごろから戦国大名が年貢を銭納から穀納に切り替えるのだが、これとほぼ同じ理由であると言えるだろう。 ただ、やはり米は重い。特に遠方から参詣に来る人たちにとっては米を持ち歩くことなど考えられない。そのような事情から、やがて銭納が一般化した。 16世紀に描かれた狩野永徳『洛外名所遊楽図屏風』を見ると、清涼寺の前に賽銭箱が置かれており、さらにその隣で、お坊さんが参拝者に向けて柄杓を突き出している。これ

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  • 可能世界論の可能性/不可能性

    @crow_henmi 次回の #WannaBQ においては、ポストアポカリプスの「大量死/大量生」に対して探偵小説が向き合った困難と克服及びアポカリプス自体をゲーム的想像力の側から書いた作品として「まどマギ」について語ろうとか思ったが、余りにも時勢に流されて大阪なので微妙だ罠。 2011-03-16 19:49:31 @crow_henmi 取り返しの付かないものを取り返そうとしてループすると取り返しの付かないものの個別性が偶有性に後退し、結果として取り返したにもかかわらず価値を失っているという問題は、ゲーム的想像力の中でどのように解決されたかというと、まあひぐらしでありうみねこです。 2011-03-16 19:54:11 @crow_henmi メタ物語レベルでの一回性を構築し、それにより偶有性増大による価値後退をい止め、むしろその繰り返しによって「取り返しの付かないもの」の価値を

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  • 『社会の発見』論の現在―戦後歴史学における1920年代史(抄) - tukinoha’s blog

    1 近代日において「社会」という概念装置がどのような社会的状況の中から現れ、そしてどのような役割を果たしたのか。このような問いにたいして、人によっては1920年代における吉野作造の思想的転回について想起するのではないか、と思われます。 吉野は明治38年の時点において「吾人の観る所に依れば国家といふも社会といふも全然別個の観念にあらず。……統治なくしては社会は成り立たざるが故に……社会と国家は別物に非ず」と述べていますが、要するにこの時点の吉野にとっての社会とは、国家という全体性を前提としたうえで、そこから零れ落ちてしまう余剰のようなものでしかなかったと言えるでしょう。それが1920年代に入ると「法律と武力即ち一言にして言へば権力」を根原理とする「国家」と、それよりも広いカテゴリとしての「社会」とが明確に区分されるようになる[吉野1921]。それをより広い文脈に位置づけるならば、明治期の

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  • 『最果てのイマ』論(6)―禁忌と社会 - tukinoha’s blog

    最果てのイマ 出版社/メーカー: ザウス【純米】メディア: CD-ROM購入: 4人 クリック: 172回この商品を含むブログ (42件) を見る思い出したように田中ロミオ『最果てのイマ』を読み返しているのですが(これで4度目)、いまだに「読み尽くした」という気分にはならないですね。「コミュニケーションと社会」という問題系にだけ注目している私の読み方というのは狭いと思うのですが、それでも論考にすれば3万字くらいのボリュームになって、それでなお読み落としている部分がかなりある。たとえば、今回読み返している中で気になったのが「交換」と題された短いChapter。 レヴィ=ストロースを引きながら、なぜ同一社会集団内での近親婚は多くの社会でタブーとされるのか、と話が切り出されます。よく言われるような遺伝的な問題ではない。それはおそらく、異なる社会集団との接触という状況に関わる問題なのだろう、と。た

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  • 『最果てのイマ』論(5)―異質性という絆 - tukinohaの絶対ブログ領域

    最果てのイマ 出版社/メーカー: ザウス【純米】メディア: CD-ROM購入: 4人 クリック: 172回この商品を含むブログ (42件) を見る(承前) 「私」は傷つきやすく、他者とのコミュニケーションの主体として成立しようとした瞬間に、ほころび始めてしまう。私にとっての他者もまた、つねに・すでに傷ついており、私はそれをどうすることもできない。この可傷性を我々が互いに抱えているということこそが、人間の共同性について、主体として自立した個人から出発し、個人を越える何らかの実体として構想することを断念させるのである。 可傷性が人と人の間に隔たりをもたらしている。しかし、次のように考えることもできるだろう。私たちは互いを隔てる「間」によって切り離されているのではなく、むしろ、何の関係性も持たなかったかもしれない人々が、「間」の存在によって繋がったのかもしれない、と。私たちが可傷性によって隔てら

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  • 『最果てのイマ』論(4)―トラウマをめぐって - tukinoha’s blog

    最果てのイマ 出版社/メーカー: ザウス【純米】メディア: CD-ROM購入: 4人 クリック: 172回この商品を含むブログ (42件) を見る(承前) デリダの言うように他者を「歓待」することが、他者を言語の通じない異邦人、狂人とみなすことから出発するのだとすれば、言語を用いて他者とコミュニケーションを行うということの実体について考え直してみる必要があるだろう。そもそも他者を唯一的・単独的な存在として扱うという「歓待」の趣旨からすれば、反復によって意味をもつ言語は、他者の唯一性を表現することができないのではないか。言語は常に「かつて誰かが使ったもの」であり、置き換えを拒むどのような経験であっても、一般的な言語としてのみ語ることができるのではないか。他者と言語についてはこのような問題が考えられるわけだが、まずはそれに対して時間的に先立つ事柄として、言語の「呼びかけ」的側面について考えてみ

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  • 『最果てのイマ』論(3)―社会変革の可能性 - tukinoha’s blog

    最果てのイマ 出版社/メーカー: ザウス【純米】メディア: CD-ROM購入: 4人 クリック: 172回この商品を含むブログ (42件) を見る(承前) このシリーズは「思いついたことをその都度書く」という確固とした方針に基づいて書いているので、少し脱線して、今回は田中ロミオという作家の現代性についての話から始めてみよう。 田中ロミオの描く「イマ」とは、いったいどのような時代なのだろうか。相互扶助計画『家族計画』――何らかの形で挫折を経験した人々が集まり、再出発を果たすまでを描くこの作品では、しかし、計画そのものは失敗する。また、5つの物語を終えたとき、それぞれのヒロインが抱える問題は、半分程度しか解決していない場合もある。マフィア、売春、借金、虐待といったものに関連するエピソードは、読者に「現実は厳しい」という以上の印象を与えることはないだろう。『CROSS†CHANNEL』――この作

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  • 『最果てのイマ』論(2)―否定としての他者 - tukinoha’s blog

    最果てのイマ 出版社/メーカー: ザウス【純米】メディア: CD-ROM購入: 4人 クリック: 172回この商品を含むブログ (42件) を見る(承前) 『イマ』の主要なテーマが(エピローグで主人公自身が語っているように)他者の問題であることは間違いない。だが、そもそも他者とは誰のことなのだろうか。この場合、私ではない誰か、という定義では不十分である。『CROSS†CHANNEL』においても語られているように、それは共依存、抑圧、投射といった関係から区別されなくてはならない。かといって、私と精神的な繋がりを持たないのが他者、というわけでもない。太一や忍がくり返し述べているように、他者との接触だけが私の心を育ててくれる。つまり、他者を所有することはできないが、他者を享受することはできるのである。逆に言えば、私は他者に対して受動的な存在とされている。 他者とは決して所有できないがゆえに、無限

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  • 『最果てのイマ』論(1)―ためらいながら、他者を語る - tukinoha’s blog

    最果てのイマ 出版社/メーカー: ザウス【純米】メディア: CD-ROM購入: 4人 クリック: 172回この商品を含むブログ (42件) を見るブログの編集画面を開きながら、さて『最果てのイマ』について何を書こうかと考えている自分が酷く滑稽に思える。この作品を読まれた方ならわかるだろうが、ハイパーリンクが大量に埋め込まれた「はてなダイアリー」で『イマ』について書くというのは、それ自体がパロディのようなものである。私は批評をやりたいと思うが、それによって作品のオリジナルの意味に到達することは決してできない。どれだけ作品の意味を正確に捉えようと思っても、どこかにズレを抱えてしまう。これから書くことはあくまでもパロディなのだ。 しかし、それはテクストが多義的だからではない。例えばジャック・デリダの脱構築は、テクストの決定不能性を定式化したものと考えられがちであるが、デリダ自身が強調しているよう

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  • 戦前日本の植民地支配について考えるためのブックガイド - tukinoha’s blog

    僕の師匠が言っていたことですが、欧米のポストコロニアル理論についてのは積極的に邦訳されて実際に読まれているけれど、韓国の学者がポストコロニアル理論を用いて書いたはなかなか邦訳されない。なぜかと言えば、スピヴァクやサイードが攻撃しているのはあくまでもアメリカやイギリスやイスラエルであるのに対し、韓国の学者が攻撃するのは日であるため、読者が不快に感じることを心配した出版社が邦訳を出したがらないからだ、と。結果として日の読者が読むのは、在日朝鮮人が日語で書いたばかりになってしまう。 こういう話を聞くと、何のために学問をするのだろう、と考えされられてしまいますね。エドワード・サイードは「知識人」の要件として「アウトサイダーであること」を挙げていますが、アメリカ社会と軋轢を抱えながら、アメリカを批判し続けたサイードから学ぶところは多いように思われます。月並みですが、自分たちの属する社会を

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  • 『ef』論のためのノート:マルチシナリオのトラウマを越えるために - tukinoha’s blog

    『ef - a fairy tale of the two.』PS2移植版の発売日が決定したことを記念しての、久々の『ef』論です。ちなみにこのブログでは原作上巻、アニメ第1期、原作下巻、アニメ第2期とこれまでにもくり返し『ef』について書いてきましたが、はっきり『ef』について書いたもの以外でも、それを意識しながら書いていることが多い……というか、このブログで書いていることは全て『ef』を論じるための予備作業だと思っていただいて結構です。 柄谷行人が「マルクスを読むように、わたしは漱石を読んできた」と語っているように、あるひとりの作家、あるひとつの作品が私たちの思考をどこまでも遠くへ導いてくれる、そういうこともあるでしょう。僕にとって『ef』はそういう作品であり、そしてこれからも、僕は『ef』を読むことを通して自分の思考を形にしていくのだろうと思います。この記事は未完であり「ノート」でし

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  • マジョリティとして歴史を語るために - tukinoha’s blog

    逆説的に聞こえるかもしれないが、「わたし」が「あなた」の苦しみに「共感」することができるのは、「あなた」が「わたし」の苦しみと共約不可能な苦しみを経験していることを理解したときに、はじめて可能である。苦しみの共約不可能性があるからこそ、苦しみの「共感」が生まれる。「あなた」が苦しいのわかるが「わたし」だって苦しいのだと居直るならば、「わたし」はけっして「あなた」と出会えないだろう。 ――イ・ヨンスク「マジョリティの『開き直り』に抗するために」―ー 歴史学という制度のなかでは末端の末端ですが、一応それに関りを持っている者として、歴史修正主義や相対主義――イ・ヨンスクの言葉を借りれば「加害者」「支配者」「マジョリティ」の「開き直り」――にたいしてどのように抵抗するか、という問題について継続的に考えてきました。いくつか記事にして過去ログ「歴史学」のなかに収めていますし、また、完全に自分のスタンス

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  • 戦争を語ることについて――太平洋戦争開戦の日に寄せて - tukinoha’s blog

    中国に侵略戦争をおこなっていたかぎり、私たちは惰性的で無気力なものであったにせよ、抵抗意識をもちつづけてたのであった。……ところが、やがて戦争がヨーロッパに飛火し、それがふたたびアジアにかえって、日が昭和十六年の暮についにあの絶望的な太平洋戦争のなかにとびこんでいくと、私たちは一夜のうちに自己麻痺にでもかかったかのように、抵抗意識をすてて、一種の聖戦意識にしがみついていった。 高杉一郎「『文芸』編集者として」(『文学』1958.4) 昨夜はNHKで放送されていた太平洋戦争の特集番組を観ました。昭和史の専門家というわけではないので内容の批評は控えますが、その中でくり返し「あの戦争では、日人だけで310万人の方が亡くなりました」という言葉が出てきたのに対し、その「日人」とは一体誰のことを指しているのだろう、ということをぼんやりと考えていました。 もちろん戦争体験について語ることは大

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  • エロゲに関して最近考えたこと - tukinoha’s blog

    人に向けて日語で語りかけることは、しばしば情報の伝達になぞらえられる。そこで隠蔽されるのは、ひとつは見知らぬ他者の存在であり、もうひとつは私自身のハイブリッド性だ。柄谷行人は「私」の内面には必ず外部が入り込んでいる、だから内/外の二項対立は不可能だと述べたが、そうではなくて、柄谷においてもなお均質的で固体として捉えられる内面そのもののハイブリディティにこそ注目しなくてはならない。均質言語的な語りを避け、日常の中の他者に向けて混成言語的な語りを行うこと、その方法と倫理を問うこと。「私とは異なる他人に向けてものを書く」人間である私はそういうことを考えなくてはいけなんだろうなー、と思う。 そういう私がエロゲの中に見いだすのは、他者を渇望しながら他者に触れることを恐れるような躊躇い、あるいは次々に現れる他者を私の一部として取り込もうとする働きである。人間は「労働」(畑を作ったり河に橋を架けた

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  • 「反復」と「ループ」―前置きの長い「エンドレスエイト」論― - tukinoha’s blog

    「エンドレスエイト」について細かく説明する必要はないだろうが、要するに「ループもの」の作品として同じエピソードを(演出を変えながら)毎週繰り返し放送しているわけである。作画オタクは作画監督ごとの個性について、演出オタクは「今週の絵コンテは〜だった」という話題について盛り上がる一方、(管見の限りでは)大半の視聴者は「同じことの繰り返しだ」として退屈を感じている、というのが現状である。 ただ、crow_henmi氏が既に書いているように、極めて純粋な「ループもの」であるためにかえって大多数の「ループもの」とは区別される奇妙な作品となっている、という逆説的な事態については、まだ十分な考察がなされているとは言えないだろう。そこでこの記事ではジル・ドゥルーズ『差異と反復』を手がかりに、「反復すること」と「ループすること」の間にある微妙な違い、そしてそれぞれの成立要件について見ていきたい。それによって

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  • 『群青の空を越えて』についての雑感 - tukinoha’s blog

    群青の空を越えて windows vista対応版 出版社/メーカー: light発売日: 2007/08/10メディア: DVD購入: 1人 クリック: 28回この商品を含むブログ (10件) を見る半年ほど前から少しずつ進めていたのだけど、最後は半日使って一気にクリア。「人を選ぶ」という評判は事実だと思いますが、それはよく言われているように「説明なしに軍事用語が出てくる」とか「舞台設定が奇抜」といった理由ではなく、結局最後まで明確なアンサーを出すことの出来ない内省的な(というか躊躇いがちな)シナリオに付き合いきれるか、という点が分かれ道になっているような気がしました。軍事用語は私にも全然わかりませんでしたが、雰囲気は味わえたので十分満足です。他の人はどう評価するか気になったので軽く調べてみましたが「私は大丈夫だけど用語がわからない人には辛いだろう」なんて書く人が多くて、みんな自分の見か

    『群青の空を越えて』についての雑感 - tukinoha’s blog
    tukinoha
    tukinoha 2009/05/29
    議論を通して大分マシな記事になった、と思うのでブクマ。