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historyとdiaryに関するmfluderのブックマーク (549)

  • 大河ドラマ「光る君へ」の漢文とアナクロニズム|桃井御酒

    昨日かなり遅ればせながら、大河ドラマ「光る君へ」の第1回を観た。 力の入ったセットや小道具で、それらしい雰囲気が出ていてよかった。大筋で雰囲気が出ているから、細部にあるアナクロニズム(後の時代のものごとが紛れこむ時代錯誤)が、かえっておもしろい。 「光る君へ」の調度品のしくじりを発見。 藤原兼家の後ろの唐屏風に書かれている人物が明らかに清国人w(平安時代だったら宋代か唐代の人物のはずなのに)#光る君へ pic.twitter.com/zwc1jeaayX — 介 (@suke88887) January 7, 2024 視聴前にこのツイートを見ていたから、多少の先入観があったことは否定できない。けれども、過去を描くのにアナクロニズムはつきものだ。無毒なアナクロニズムなら、アナクロニズムとして美味しく楽しめばいい。 第1回は少女時代の紫式部の話。ちなみに「少女時代の紫式部」という表現もアナク

    大河ドラマ「光る君へ」の漢文とアナクロニズム|桃井御酒
  • 追燈 / 追燈 - 岡田索雲 | webアクション

    大阪府出身。河川敷で暮らすホームレスを描いた短編『ブラックタイガー』で第24回MANGA OPEN大賞を受賞し「モーニング」(講談社)でデビュー。代表作に『鬼死ね』全4巻、『マザリアン』全3巻。https://twitter.com/sakumo_info

    追燈 / 追燈 - 岡田索雲 | webアクション
  • 旧優生保護法に基づく優生手術等を受けた者に対する一時金の支給等に関する法律第21条に基づく調査報告書

    調査報告書は、「旧優生保護法に基づく優生手術等を受けた者に対する一時金の支給等に関する法律」(平成31年法律第14号)第21条に基づく調査報告書として、令和5年6月19日に衆参両院の厚生労働委員長から衆参両院議長に報告されたものです。

  • 毛利家書状 原本初確認 織田信長「中国攻め」の際 家臣に送る | NHK

    戦国時代、織田信長の軍勢が中国地方を攻めたいわゆる「中国攻め」の際に、猛攻を受けた毛利家が家臣に送った書状など200点以上の原が新たに確認されました。 江戸時代に作られた写しは伝えられていましたが、専門家は「原が見つかったことで戦いの様子をより詳しく分析できる」と指摘しています。 確認されたのは、戦国時代、中国地方を治めていた毛利家が「中国攻め」の際に家臣の湯原春綱に宛てた書状など200点以上の書状の原です。 東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授が去年12月、湯原氏の子孫の家に残されていたのを見つけたもので、江戸時代に作られた写しは伝えられていましたが、原は確認されていませんでした。 書状は、1560年代から1580年代にかけて、毛利元就をはじめ、毛利輝元や吉川元春などが送ったもので、署名に当たる花押や紙の分析などから原と確認されたということです。 このうち吉川元春が送った書状は縦

    毛利家書状 原本初確認 織田信長「中国攻め」の際 家臣に送る | NHK
    mfluder
    mfluder 2022/09/24
    “東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授が去年12月、湯原氏の子孫の家に残されていたのを見つけたもので、江戸時代に作られた写しは伝えられていましたが、原本は確認されていませんでした”
  • 秀吉が側室に宛てた自筆とみられる書状 名古屋市博物館で公開 | NHKニュース

    豊臣秀吉が側室の1人に宛てた自筆とみられる書状が見つかり、名古屋市博物館で25日から公開されています。 書状は去年、所有していた人から名古屋市博物館に連絡があり、詳しく分析した結果、文字の特徴などから豊臣秀吉の自筆のものとみられることが分かったということです。 書状は秀吉が、戦国武将・蒲生氏郷の妹で、側室の1人の「おとら」に宛てたもので、病気のおとらの体調を気遣い「養生して」ということばとともに「お見舞いに行きたいですが、まずはお便りしました」と記されています。 また書状には、うりを売る農家にふんして遊ぶ「瓜畠遊び」や「舟遊び」への誘いも記されていて、こうした記述から博物館は1597年の6月から7月にかけて作成された書状と特定したということです。 博物館によりますと、秀吉の書状のほとんどは文書を作成する役職の「右筆」が書いたもので、確認されている自筆とされる書状は130通ほどしかなく貴重な

    秀吉が側室に宛てた自筆とみられる書状 名古屋市博物館で公開 | NHKニュース
    mfluder
    mfluder 2021/08/26
    "書状は秀吉が、戦国武将・蒲生氏郷の妹で、側室の1人の「おとら」に宛てたもので、病気のおとらの体調を気遣い"うりを売る農家にふんして遊ぶ「瓜畠遊び」や「舟遊び」への誘いも記されていて"
  • 「祖父の収容所にいた元捕虜」と対面してわかった「戦争の真実」とは(小暮 聡子)

    釜石にいた捕虜が見つかった 実は、これより前の2010年、知人から「釜石にいた捕虜がアメリカで見つかった」という連絡を受けていました。待ちに待ったはずのニュースでしたが、私はその時、嬉しいというより戸惑いました。ずっと探してきたその人に、連絡していいものか分からなくなっていました。数年来、別の収容所にいた各国の元捕虜たちと交流してきて分かったのは、彼らは終戦後もずっと痛みを抱えたまま生きてきたということです。 アメリカ留学中の2003年には、釜石にいた元捕虜が米ワシントン州に存命だということをネットの情報で知り、彼の自宅に電話をかけたことがありました。しかしこちらが名乗ると、「申し訳ないけど、話せない」とすぐに切られてしまいました。まだ元捕虜の戦友会に参加する前のことだったので、私は捕虜側の痛みを当の意味で理解できていなかったのだと思います。もしもあの時、自分の電話によって彼の苦しみの記

    「祖父の収容所にいた元捕虜」と対面してわかった「戦争の真実」とは(小暮 聡子)
  • ひどい人間?人情味ある人? 祖父を戦犯にした米人元捕虜の「衝撃的な証言」(小暮 聡子)

    ――おじいさんについて始めた勉強を、最後までやり抜きなさい。だけどそれが終わったら、学んだことを保存して先に進みなさい。楽しいことを見つけなさい。幸せな家族を作って、幸せになりなさい。人生なんて短いんだから、とにかく一生懸命生きるんだ。決して諦めるんじゃあないよ―― 高校2年生の時に読んだ祖父の手記で、祖父が岩手県釜石市にあった連合軍捕虜収容所の所長だったこと、そしてBC級戦犯として裁かれていたことを知った小暮聡子さん。なぜ大好きだった祖父は戦犯になったのか。そもそも戦争とは何なのか。それを知るために勉強を続け、アメリカに留学すると、アメリカ人の元捕虜の方の集いに参加することができた。そこで出会った元捕虜アル・フェルセン氏から、冒頭のように言葉をもらい、小暮さんはその言葉を胸に、帰国の途につく。

    ひどい人間?人情味ある人? 祖父を戦犯にした米人元捕虜の「衝撃的な証言」(小暮 聡子)
  • 祖父が「戦犯」となった理由を探して…アメリカ人元捕虜たちと会い、聞いたこと(小暮 聡子)

    高校2年生の時、祖父・稲木誠さんの手記を初めて読み、祖父が岩手県釜石市にある捕虜収容所の所長だったこと、祖父がBC級戦犯として裁かれていた事実を知った小暮聡子さん。そこから戦争とは何か、祖父はなぜ戦犯となったのかを知るべく勉強し、アメリカに留学する。ときは2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロを機に、アメリカがイラク戦争に突き進む時期と重なり、小暮さんは反対の声を押しのけても始まる「戦争の空気」を体感することとなった。 元捕虜たちの戦友会に参加 2003年、イラク戦争を追いかける一方で、釜石収容所の調査も続けていました。ワシントンにいる間、近郊にある米国公文書館で祖父の裁判資料を探しましたが、複数の段ボールに保管された膨大な資料の中に元捕虜の寄せ書きと宛名を見つけることはできませんでした。そんな折、イラク戦争での攻撃に「終結宣言」が出された5月に、ニューメキシコ州アルバカーキーで

    祖父が「戦犯」となった理由を探して…アメリカ人元捕虜たちと会い、聞いたこと(小暮 聡子)
  • 「戦争ほど愚かしく、残酷で、むなしいものはない」03年米国で見た「戦争の現実」(小暮 聡子)

    高校2年生の時、祖父の手記「フックさんからの手紙」を読み、「大好きだったおじいちゃん」が岩手県釜石市で連合軍捕虜収容所の所長をと務めており、戦争犯罪人とされていたことを知った小暮聡子さん。これは、当時はあまり学校に行かず、夜遊びをしていた小暮さんにとって、人生を変える出会いだったという。すっかり過去のことだと思っていた戦争。それがこんなに身近なところで、自分と深くかかわっていたなんて……。

    「戦争ほど愚かしく、残酷で、むなしいものはない」03年米国で見た「戦争の現実」(小暮 聡子)
  • 大好きなおじいちゃんが「戦争犯罪人」だった? 高2の夏に知った祖父の過去(小暮 聡子)

    1945年8月15日。その前日に日はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦は実質的に終わった。この戦争で、世界中の人々が大切な家族や友人を失い、傷つき、その痛みは今もさまざまな形で残されている。 戦後76年になる今年、岩手県の釜石市郷土資料館である企画展が開催されている(緊急事態宣言により臨時休館中、宣言開けに展示期間を延長予定)。「釜石の捕虜収容所―記録と記憶を後世へ―」というテーマで、戦時中に釜石収容所の所長を務め、戦後は「戦犯」として有罪となった日人収容所所長の手記と、当時捕虜となっていた方々の手記、その両方を展示するものだ。 この所長、稲木誠さんはなぜ戦犯とされたのか。捕虜収容所で何があったのか。その現実に向き合い、長く調べてきたのが、『ニューズウィーク日版』記者の小暮聡子さんだ。小暮さんは20年以上前、高校生のときに祖父である稲木さんが捕虜収容所の所長だったことを知ったのだと

    大好きなおじいちゃんが「戦争犯罪人」だった? 高2の夏に知った祖父の過去(小暮 聡子)
  • 「人と時代に恵まれて」藤野 高明

    はじめに わたしは、この三月、大阪市立盲学校での仕事を全て終えることができました。約三十年にわたる社会科教員としての生活でした。わたし自身が全盲と両手切断という二重の障害をもっての勤務でしたから、さまざまな苦労がつきまとったことは言うまでもありませんが、多くの人に支えられながら、トータルに言えば大変楽しく働くことが出来、心から感謝しています。 わたしが盲学校で働いた期間は、一九七二年から二〇〇二年までの三十年間ですが、障害者の人権や福祉が、その当事者をはじめ、家族・関係者によって主張され、具体的に実現していった時代に当っています。戦後、新しい憲法が制定され、平和や民主主義を社会のバックボーンにしようとする努力が、障害者の生活の上にもやっと具体的に実現され始めた、丁度そういう時期に当っていたとも言えるでしょう。その意味で、わたしは時代に恵まれたと思います。 それから、もうひとつは、周りの人た

  • ホロコーストは近代文明の産物か ジグムント・バウマン『近代とホロコースト』から読み解く近現代社会|じんぶん堂

    記事:筑摩書房 "File:Re-publica 2015 - Tag 3 (17404674595) (cropped).jpg" by re:publica from Germany is licensed with CC BY 2.0. To view a copy of this license, visit https://creativecommons.org/licenses/by/2.0 書籍情報はこちら ホロコーストはなぜ起こったのか。600万人にもおよぶユダヤ人の大量殺戮はどうして可能になったのか。この問題に社会学の立場から取り組んだのが、ジグムント・バウマンの手になる書『近代とホロコースト』である。彼の回答はきわめて明確である。ホロコーストは近代文明の所産であり、近代官僚制の働きがなければ生じえなかったというのだ。「『最終的解決』はいかなる段階においても、効率的・効

    ホロコーストは近代文明の産物か ジグムント・バウマン『近代とホロコースト』から読み解く近現代社会|じんぶん堂
    mfluder
    mfluder 2021/06/16
    "殺害プロセスの合理性を過大視するバウマンの見方は、アウシュヴィッツに象徴される「死の工場」のイメージに引きずられすぎているように思われる"
  • 『土偶を読む』を読んだけど(3)完結編|縄文ZINE_note

    反論三部作の完結編だ。こんなに長くなってしまったのは意ではない。を読んで反射神経で書いた最初の「思いがけない冒険」から始まり「竜に奪われた王国」。そして今回が「決戦のゆくえ」。というのはホビット三部作のタイトルだけど、このnoteの記事もついつい長くなってしまった。 竹倉さんに恨みがあるわけでもないし、僕自身も、自分自身を粘着体質ではないカラリとした男でありたいと常に思っている。のだが、始めてしまったら終わらせなければならない。ぜひ(1)と(2)もあわせて読んでほしい。 『土偶を読む』はきっと売れているだろう。「アンチも巨人ファン」理論で言えば、noteの記事もまた売り上げに貢献したに違いない。SNSでは、この反論を支持してくれる人の方が多いようにも思えるが、『土偶を読む』にも素直に「納得した!」や「現時点ではこれが一番事象を説明できる仮説だと思う」や、「痛快!」の声が多く寄せられて

    『土偶を読む』を読んだけど(3)完結編|縄文ZINE_note
    mfluder
    mfluder 2021/05/03
    “この反論では、『土偶を読む』で(意図的に)論じなかった部分にスポットを当ててみた。それは主に土偶の編年と連続性と土器との関係性、恣意的すぎる資料の見せ方だ”
  • 国立ハンセン病療養所「長島愛生園」1800人以上 遺体解剖記録 | NHKニュース

    mfluder
    mfluder 2021/03/26
    “解剖が常態化され療養所という特異な環境で事実上強制的に解剖が行われていた可能性”
  • 【第1話】死の声――古河為子のこと (その4)|編集工房けいこう舎マガジン

    古河為子はなぜ死んだのか。 死の前日に「鉱毒地救済」の演説会へ女中を聞きにやった、という噂は当なのか。 かんじんの為子の「遺族」は、何といっているだろう。 古河方の記録(市兵衛、養子潤吉、実子虎之助や、古河商店の番頭、混田文次郎や木村長兵衛の伝記など)をあたってみた。 どの文にも「為子」は名さえ出てこなかった。そんな人はいなかったかのようである。 けれど、『古河潤吉君伝』の口絵には、市兵衛、潤吉、為子と3人で移った記念写真が載っていた。キャプションにちゃんと「為子」とある。 椅子に腰掛けた市兵衛と為子、後ろに立った潤吉。 蒲柳の質である潤吉は、陸奥宗光の二男だ。市兵衛なきあと古河をつぐが、早世している。 「養親」である夫婦のいずまいは全く対照的だ。時代劇の「悪徳商人」さながらの貌に活力みなぎる市兵衛。上品な細面の、美しいがこの世の人とも思われないほど無表情な「老婦人」。 文に為子

    【第1話】死の声――古河為子のこと (その4)|編集工房けいこう舎マガジン
  • 【第1話】死の声――古河為子のこと (その3)|編集工房けいこう舎マガジン

    (ひきつづき、為子の死のことを、鉱毒地救済運動の人々は何か記していないだろうか……という話) 矯風会や救済婦人会の意見ではなく、個人ではどうだろう。何か書き残してくれていないだろうか。 救済活動のエース、潮田千勢子はどうだろう。 女手一つで5人の子を育てあげ、60歳(為子と同年代なのだ! 当時ならもう「お婆さん」だろう)とは思えない、行動的でいきいきした目をしていたといわれる潮田千勢子。その公平で廉直な人柄を、田中正造に最も信頼されていたが、ものを書き残すにはあまりにも忙しすぎた。 千勢子は、被災地の子どもたちを会の施設「慈愛館」にひきとり、講演に走り回り、物資を積んで被災地に通い、仏教青年たちと連繋して診療所を作り、議員にビラを配って警察に呼ばれたり。あたう限り駆け回り、「鉱毒地救済婦人会」の発足の日(つまり為子の死の前日)から1年半後には、ガンで亡くなってしまうのだ。 田中正造の切れ切

    【第1話】死の声――古河為子のこと (その3)|編集工房けいこう舎マガジン
  • 【第1話】死の声――古河為子のこと (その2)|編集工房けいこう舎マガジン

    【第1話】死の声――古河為子のこと (その2)   栗林佐知 ひきつづき、足尾鉱毒事件について。 明治34年11月16日。 潮田千勢子たち(この人と日基督教婦人矯風会のことは後で述べよう)篤志の女性5、6人が、被災地を視察に訪れる。案内したのは、議会と政府に失望し、議員を辞めた田中正造だった。 潮田らは、朝一番の汽車で上野を発ち、古河(こが)の駅から人力車で思川と利根川の合流する地点まで来た。 堤防の上から一行が見たものは、一面の葭の沼。聞けば、ここはもとは麦と菜種の畑だったのが駄目になり、桑や柳を植えたがそれも育たず、仕方なく葭を植えたが、この葭ではもろくて屋根も葺けなければ、簾も編めないという。 村に入ると、会う人会う人、青白いやせこけた顔をして、襟元がすり切れ垢で光ったボロのような着物をまとっている。農業も漁業も成り立たず、着物も家財も片っ端から売ってしまったという。 ほんの10年

    【第1話】死の声――古河為子のこと (その2)|編集工房けいこう舎マガジン
  • 【第1話】死の声――古河為子のこと (その1)|編集工房けいこう舎マガジン

    【第1話】死の声――古河為子のこと (その1)    栗林佐知 明治34(1901)年11月30日、朝のこと。 東京は神田橋の下で、電信地下線の工事(一説には、船荷の荷揚げ作業)をしていた作業員が、上げ潮に乗って川を上流へ押し上げられてゆく人を発見した。 巡査を呼び、引き上げてみると、それは六十歳ほどの婦人で、すでに亡くなっていた。着物の品の良さや、小さな丸髷につけた櫛や笄(よく抜け落ちなかったものだ)から、良家の内儀らしいと思われたが、お守袋の他に持ち物はない。 だがすぐに身元がわかった。 通りかかった男が駆け寄り、息をのんで言ったのだ。 「これはわが家のおかみです。夕べから行方不明で、皆で探していたのです」 男は、丸の内に社のある「古河商店」の番頭、混田(昆田)文次郎。婦人は、かの「銅山王」古河市兵衛(ふるかわいちべえ)の、為子(ためこ)だった。 亡骸は近くの知人(弁護士)宅へ運ば

    【第1話】死の声――古河為子のこと (その1)|編集工房けいこう舎マガジン
  • ヴィトルト・ピレツキ『アウシュヴィッツ潜入記』 - 紙屋研究所

    まもなくアウシュヴィッツが解放された記念日(国際ホロコースト記念日)である1月27日である。 私はアウシュヴィッツで危険なゲームをやっていた。いや、この文章は現実を正しく伝えているとはいえない。実際、私の経験は世間の人々が考える危険をはるかに超えるものだったのだ…… 書の冒頭に掲げられている著者ヴィトルト・ピレツキの言葉(文p.145に登場)である。 書を二度読み直して、このをどういうものとして伝えようかと考えた時、確かに「私はアウシュヴィッツで危険なゲームをやっていた」という規定がしっくりきた。 アウシュヴィッツ潜入記 作者:ヴィトルト・ピレツキ 発売日: 2020/08/18 メディア: 単行 なぜか。 「危険なゲーム書の著者ヴィトルト・ピレツキは第二次世界大戦期のポーランドの将校(大尉)である。同国は独ソに分割され消滅してしまっていた。ピレツキは抵抗組織に身を投じ、「

    ヴィトルト・ピレツキ『アウシュヴィッツ潜入記』 - 紙屋研究所
    mfluder
    mfluder 2021/01/19
    うーむ
  • 「限界文化財」、守るのは誰?:朝日新聞デジタル

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    「限界文化財」、守るのは誰?:朝日新聞デジタル
    mfluder
    mfluder 2020/12/31
    “「廃村や限界集落に取り残され、信仰の対象としての役割を終えた文化財はこれからどこにあるべきか。残すか、それとも土に還すか」。メンバーの一人はこれを「限界文化財」と呼んだ。”