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ブックマーク / higeta.hatenablog.com (11)

  • 「満洲国」建国過程で誰を省長に登用したか - 日本近現代史と戦争を研究する

    Last Emperor of China / tonynetone 満州事変では、日は独立運動を支援するという体で、溥儀を傀儡国家の執政(のち皇帝)として担ぎ出すわけですが、では大臣などその下の役職はどうなっていたのでしょうか。日人が全部担当したわけではありません。それらのポストを担当する者を担ぎ出す必要があったわけです。やり方としては、二通りが考えられます。 地位の低い者を格上げして強引に高い役職につける もともと地位の高い者をそのまま高い役職につける もちろん、2のやり方のほうがいいわけでして、日が実際にめざしたのも2です。 ここでは、省長のポストについて簡単にみてみましょう。「満洲国」の範囲に該当するのは、遼寧省、吉林省、黒龍江省、熱河省です。独立という体裁を整えるのに一番いいのは、それぞれの省長*1に独立を言わせて、そのままそのポストにつかせることです。日はこのやり方を進

    「満洲国」建国過程で誰を省長に登用したか - 日本近現代史と戦争を研究する
  • 「満人なんか…」 - 日本近現代史と戦争を研究する

    満洲も暮しよいです 満人なんか内地人にはびく\/して居ます そこをつけ込んで私達なんかも満人を屁とも思つて居りません嫌な奴と思つたら頭から怒鳴つてやります とても面白いです 買物などでも無茶苦茶に値切つて買つて来ます 値切れば幾らでも値切れるよ (吉林省檔案館, 廣西師範大學出版社編『日関東憲兵隊報告集(第一輯)』8、廣西師範大學出版社、2005年、456頁) ふつうの一庶民の書いた、差別意識ばりばりの手紙の内容が、名前と住所とともに史料として残ってしまっている。1942年10月15日の手紙である。通信を検閲していた関東憲兵隊隷下の東寧憲兵隊がこの手紙を没収し、記録していた。人は何気なく書いたつもりでも、70年後の今日まで残り、出版された史料集に収録されて、みんなが見れるようになってしまった。 日の敗戦により、地中に埋められたはずの関東憲兵隊の報告書類が発見・掘りおこされ、出版される

    「満人なんか…」 - 日本近現代史と戦争を研究する
  • おぼえておきたい史料読解のコツ 2 - 日本近現代史と戦争を研究する

    今回の史料 人夫使用願の件 明27.8.5 ref:C06031003000 第1、2画像を開いて下さい。 ポイント1 高級副官 文書の発信元ととして陸軍大臣や次官とともによくでてきます。陸軍省副官は大臣官房に属し、大臣・次官の命を承けて公文書の浄写や注記、接受、発送の事務などに当たります。高級副官は、副官部の事務を監督します。 明26陸達第98号「陸軍省処務細則」第3条には次のようにあります(ref:C06081809400)。 尋常定例ノ省務ニ就キ陸軍全部若クハ一部又ハ他向ニ対スル通牒ハ次官ノ名ヲ以テシ其軽易ノ事件ハ高級副官ノ名ヲ以テスルコトヲ得 ポイント2 同じ綴りの文書がヒントに 読めない場合、ひとつの文書だけで勝負しないことです。例えばある機関からの照会へ回答をしている文書であったら、近いページにその元となる照会の史料が綴られているはずですから、それを見てみるとヒントが得られます

  • おぼえておきたい史料読解のコツ 1 - 日本近現代史と戦争を研究する

    はじめに アジア歴史資料センターの史料を各自参照することを前提としています。 (アジ歴の使い方については、以前書いたもの参照) 今回の史料 米国駐在海軍大尉秋山真之同國北大西洋艦隊乗組ニ関シ諸般ノ便宜ヲ受ケタル謝辞其筋ヘ伝達之件 明32.9 ref:B07090197000 第3画像を開いて下さい。 ポイント1 旧字体 「國」は問題ないでしょう。ほかには「與」が出てきています。これは「与」の旧字体です。旧字体と新字体の対応関係がすぐ思い浮かぶようにしましょう。 今回は出てきませんが、ぜひおぼえておきたいものとして、 舊→旧 體→体 團→団 などがあります。 ポイント2 「候」のくずし字 公文書や手紙などで用いられた丁寧語です。「候」は何度も繰り返し出てくるので、くずし字をおぼえてしまいましょう。 今回は、な感じ。ほかには、、あるいは単にと書かれることもあります。 ポイント3 決まり文句・言

  • 台湾戦線と正貨支出 - 日本近現代史と戦争を研究する

    前回のエントリでは、明27.6以降の準備正貨減少についてみた。正貨減少は、財務当局に危機意識を生じさせた。 明27.11.15、日銀総裁は蔵相宛て、外征の進展に伴う戦線の拡大は、多くの正貨支出を伴うとして、正貨の節減を図るため、「軍事手形」の使用を蔵相に提議した(ref:A01200777300)。 外征事件ハ皇軍ノ連捷ニ従ヒ益々其区域ヲ拡メ軍資ノ需要日ニ多キヲ加フルト共ニ正貨ノ支出モ亦次第ニ多額ニ上ルハ自然ノ勢ニ有之 皇軍次第ニ敵地ニ深入スルニ従ヒ正貨ノ需要其額益々増加シテ準備正貨ニ著シキ減少ヲ来シ為メニ兌換制度ノ基礎ヲシテ或ハ薄弱ナラシムルガ如キコト無カルベキ歟ト痛心苦慮仕候就テハ此危害ヲ未然ニ予防スルニハ内ニ向テハ為シ得ラルヽ丈ケ正貨ノ使用ヲ節約シ外ニ向テハ大ニ力ヲ貿易上ニ用ヰテ銀貨回収ノ策ヲ講スベキコト最モ緊要ナリト思考仕候 占領地ニ対シテ使行スル貨幣ニハ一種ノ軍事手形ナルモノヲ発

    台湾戦線と正貨支出 - 日本近現代史と戦争を研究する
  • 抜刀隊と史料 - 日本近現代史と戦争を研究する

    「百人斬り」との関連で西南戦争時の抜刀隊をとりあげるという Apemanさんの着想が興味深い*1。 『郵便報知新聞』1877年3月12日付社説「賊之兵略常在二接戦一」には、次のようにある。 腰間三尺ノ秋水ヲ提テ狂呼スル于今幾年ゾ其凝塊セル精神ハ初メテ今日ニ表発シタリ是レ廃刀ヲ傷ムノ精神素是レ日刀ヲ護スルノ精神ヲ以テ其敵ニ向フ安ンゾ日刀ニ頼リテ奮戦セサルヲ得ンヤ且其戦フヤ弾薬ノ予備ナキニ非ルモ事久シキニ亘レハ貯備モ亦竭尽セサルヲ得ス且刀ヲ揮フテ奮闘スルハ彼ノ長所ナラハ一ハ以テ弾薬ヲ省助シ一ハ以テ其長所ニ拠ランカ為メニ接戦ニ出ルナキニ非ス近時田原吉次ノ戦闘ハ唯接戦ノミニ在ルカ如シ顧フニ官軍ハ殊ニ欧州ノ戦規ニノミ因依セスシテ殊更ラニ一種ノ制規ニ出テ日人ト戦フニハ別ニ一派ノ戦規ヲ以テセサル可ラサルヲ了知シ自ラ其方法ヲ設置シタル可シ ここでは、薩摩軍が廃刀に対抗し、日刀を守るという精神によ

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  • ノモンハン事件責任者の処分 - 日本近現代史と戦争を研究する

    ノモンハン事件責任者(軍上層部)の処分に関して、 陸相・畑俊六は、日記に次のように記している(続・現代史資料4『畑俊六日誌』みすず書房、1983)。 昭14.9.8 ノモンハンに於ける第六軍の戦績は頗不良にして、23Dは支離滅裂となり軍旗二旒を焼却し、死傷一万を越え、未だ曾てあらざることゝなれり。畢竟関東軍が敵の攻勢意図を承知しながら之が対策を放置し、此の如き結果となりたるものにして、殊に多数の死傷者を敵線内に委棄したるは大失態と云はざるを得ず。依て植田大将には甚気の毒ながら責任を執て貰ふことゝし参謀部附に、参謀長磯谷中将、副長矢野少将も各々参謀部附となし、作戦主任課長も亦交迭せしめたり。甚以て心苦しき次第なるが致方なし。 (231-232頁) 同11.14 ノモンハン事件責任者の処分は事頗重大にして色々の議論あり。植田大将の如きも自分独りの処分にて他に累を及ぼさゞることを極力主張しあ

    ノモンハン事件責任者の処分 - 日本近現代史と戦争を研究する
  • 忘却の台湾 - 日本近現代史と戦争を研究する

    dj19さん引用のあわせて読みたいと あわせて読みたい。 ■松田京子「戦争報道の中の台湾台湾領有戦争の語りと記憶をめぐって―」『南山大学日文化学科論集』6、2006.3 領土の「合法的」割譲と、その地で徹底した暴力が行使されたこととは矛盾するものではない。台湾や朝鮮の植民地化が条約によって「合法的」に行われた点をことさら強調する語りは、植民地支配が暴力の行使を伴ったことを「忘却」しようとする欲望と結びついているといえるだろう。 台湾の植民地支配、それは植民地領有戦争というむき出しの暴力の行使を伴って開始された。 (31頁) この時期(引用者注―1895.5〜96.3)の戦闘は日清戦争として一括して扱われることが多く、そのことも関連して、台湾が「戦場」となったということ自体が、現在の日歴史意識の中で「顕在化」しにくい状況を生み出しているといえる。 (32頁) 最後に、宗主国内部におい

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  • 「日中戦争」という呼称 - 日本近現代史と戦争を研究する

    多くの研究者は、当時呼ばれていた「支那事変」ではなく、「日中戦争」と呼称する*1。「支那」に替わり「中国」という呼び名が一般的になったことが一つの原因であるが、では「事変」ではなく「戦争」と呼ぶのはなぜだろうか。 1960年代の代表的な研究である、日国際政治学会・太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道』(朝日新聞社、1962-63、全8巻)は、第3・4巻を「日中戦争」上・下としているが、第4巻、23頁に次のようにある*2。 「事変」という名の全面戦争 戦争が華北から上海へ波及するにおよんでは、もはや「事変」を短期の局地紛争として収拾する可能性は失われていた。それにもかかわらず、満州事変以来なしくずし的な武力行動の積重ねの間に鈍磨した感覚は、伝統的な中国への軽侮感情とも結びついて、政府・軍部が事態の質をみぬいたうえで、適切な政策指導を打ちだすのを妨げたのであった。 数十万の大軍を送った

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  • 南京事件否定論者が歴史学者による入門書・研究を読まなくていいと考える論理を忖度する - 日本近現代史と戦争を研究する

    Apemanさんのところの最近の経緯、南京事件を否定してしまうのは入門知識すら身につけてない証 - 模型とキャラ弁の日記や過去に見聞した議論に基づくが、多分に推測を加味し、整合したものも含まれる。否定論者のなかでは、明確に意識されておらず、複数の論理が未分化になっているものも多いと思われるが、細かく区分してみた。 1.歴史学不能論 歴史学では結論が出ていないので、読まなくていい。 2.サヨク論 歴史学者はサヨクなので、読まなくていい。 3.インチキ論 歴史学者による通説は、インチキだとどこかで聞いたことがあるから、読まなくていい。 4.偏向論 入門書や研究書は偏向しているから、読まなくていい。 5.不良歴史学者論 まともな歴史学者は、南京事件なんて研究しないので、読まなくていい。 6.愛国論 愛国のためには、読まなくていい。 7.予防論 読むと説得されてしまいそうなので、読まない。 8.ガ

    南京事件否定論者が歴史学者による入門書・研究を読まなくていいと考える論理を忖度する - 日本近現代史と戦争を研究する
  • 「日台戦争」と呼ぶのは誤りか - 日本近現代史と戦争を研究する

    檜山幸夫氏は日清戦争および植民地期台湾を専門としているが、 その著書『日清戦争 秘蔵写真が明かす真実』(講談社、1997)では、 第六章「台湾統治と台湾戦線」の第三節を「日台戦争」と題している。 同節251頁では、次のように述べる。 清軍兵士と異なり、彼ら(引用者注―台湾の抗日軍)が頑強に抵抗した背景には、台湾に福建省や広東省から移住し、そこに住んでいた原住民を討伐し、苦労して荒れ地を開墾して獲得した土地を守るという意識があったからにほかならない。その意味では、台湾での戦闘は、正しく日台湾との戦争(日台戦争)であり、最初の植民地戦争であったということになろう。 檜山氏は、日台戦争の終末を、 第二師団が凱旋した明29.5月末とみているようである。 自分たちが苦労して獲得した土地、郷土を守ろうとする者が 頑強に抵抗するのは、道理であろう。 現地に入った樺山台湾総督は、明28.6.10、伊藤

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