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ブックマーク / blog.goo.ne.jp/shinshindoh (39)

  • ■豊前入国後の忠興の子とその生母たち - 津々堂のたわごと日録

    忠興の豊前入国(1600・12月)以前に生まれた子女は、忠隆・興秋・忠利・長・古保・忠利・多羅・千丸そして最後は、万姫(烏丸光賢室)で慶長3年(1598)生まれである。万姫の生母は明智次右衛門女・小弥々で没年は元和9年(1623)である。 忠興は豊前入国後三人の男子を成している。(女子一人夭折) 四男・立孝(立允‐宇土細川家祖)    元和元年7月15日生 生母・清田鎮乗素閑女・幾知 五男・寄之(松井興長養子・松井家二代)  元和2年生 生母・眞下元重女・才 六男・興孝(細川刑部家祖)       元和3年正月13日生 生母・立孝同母 年があまり変わらない三人の子たちは、長じて運命を異にしていく。 四男は溺愛され、忠興の八代入国後忠興領の相続を確実としていたが、忠興より早く亡くなってしまった。 同母弟の六男・興孝は3歳より江戸証人となり、21年間江戸暮らしをした。実兄・立孝とは異なり、父・

    ■豊前入国後の忠興の子とその生母たち - 津々堂のたわごと日録
  • ■入れ墨談義 - 津々堂のたわごと日録

    大学副学長(医学部・皮膚科教授)を勤められた小野友通氏は、熊大学学術リボリトリーに「いれずみ物語」を30編に渡り紹介されている。内容は多岐にわたりこれがそれぞれ大変面白い。 昨今は若者の入れ墨指向や、外人観光客の入れ墨問題などで関係者は頭を悩ませておられる様だが、この様な状況を先生はどうお考えだろうか。 ご意見をお聞きしたい気がする。 (いれずみ物語 ; 1) ・谷崎の「刺青」 : 皮膚から肌への一瞬 (いれずみ物語 ; 2)・病理学者ウィルヒョウといれずみ : センチネルリンパ節概念の元祖 (いれずみ物語 ; 3)・桃のいれずみ : 霊力,性そして龍 (いれずみ物語 ; 4) ・イ草作業のつらさと"そらうでいれずみ" (いれずみ物語 ; 5) ・ヘナによるいれずみ (いれずみ物語 ; 6) ・南嶋の女のいれずみ : 針突 (いれずみ物語 ; 7) ・入れぼくろ : 客と遊女の駆け引

    ■入れ墨談義 - 津々堂のたわごと日録
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    mfluder 2019/02/23
    "熊本大学副学長(医学部・皮膚科教授)を勤められた小野友通氏は、熊本大学学術リボリトリーに「いれずみ物語」を30編に渡り紹介されている"
  • ■ヤフオク「米田家関係落札リスト」 - 津々堂のたわごと日録

    某古物店から「米田家文書」が200点ほどが数か月にわたってヤフオクに出品された。郷土の資料が流出するのは何とも痛ましく、オークションに応札して以下の品を落札した。箱に放り込んでいたのだが、リストを作っておこうとまとめてみたら、37点に及んでいた。故にいまだ慢性金欠病状態が続いている。 ■米田家御屋敷図 605×475 一点、372×282に132×62貼付け   ニ点 ■指物(図)          -沢村宮門            一点 ■甲立物幕之紋定紋附      -沢村宮門    弘化三年十二月 一点 ■指物附            -鎌田軍助    天明六年閏十月 一点 ■甲立物幕之紋定紋附      ー續 繁弥    天保二年十月  一点 ■指物附            -續 繁弥      同上    一点 ■甲立物幕之紋附        -牧 佐学    天明四年閏正月 一

    ■ヤフオク「米田家関係落札リスト」 - 津々堂のたわごと日録
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    mfluder 2017/10/05
    “リストを作っておこうとまとめてみたら、37点に及んでいた”
  • ■当たった推理 - 津々堂のたわごと日録

    友人の紹介である人から連絡が入った。何故か一代のお墓が見つからないと仰る。 ■「母方の先祖のお墓を整理しようとしているのですが、どうしても4代目の墓が見っからないようなんです」 □「ご養子さんじゃないですか?」 ■「えっ、なんで判るんですか?確かに養子ですけど・・・」 □「ご養子さんは実家の方のお墓に葬ります」 ■「えっ、そうなんですか?しかし次の代(5代)も養子ですが、こちらはお墓がちゃんとありますけど」 □「ん・・・・、ひょっとすると祖父さん(3代)の子供さんの可能性がありますね」 ■「はあ?」 □「4代目が養子に入られ跡目を継がれた時、3代目のお子さんが幼少であったか又はその後誕生されたか?・・・・ではないですかね?」 ■「はあ・・・・・・・成程・・・・・」 ■「有難うございました。いろいろ調べてみます」 概略この様な会話をしたのだが、後日(昨日)再度の連絡が入り「全く仰る通りでした

    ■当たった推理 - 津々堂のたわごと日録
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    mfluder 2017/09/10
    “ご養子さんは実家の方のお墓に葬ります”4代目が養子に入られ跡目を継がれた時、3代目のお子さんが幼少であったか又はその後誕生されたか?・・・・ではないですかね?"
  • ■北の関事件、藩主の裁定 - 津々堂のたわごと日録

    筑後領北の関で、前川勘右衛門とその助っ人が藤田助之進一家を誅罰するという事件が起きたのは、延宝元年七月二十三日である。 縁談のもつれというなんともしまらない原因だが、名門三渕家(前川家)の面目を立てるための私闘ともいえる。 延宝二年二月一日藩主綱利は、「この事件は法のてらすべきものなきため、既往は咎めざるも向後は注意すべし」と諭したという。 三渕家は細川藤孝(幽齋)の実家である。細川家に連なる一族の不祥事だから、このような大甘の裁定となってしまう。 この事件は他藩領で行われ、勘右衛門の従弟・山名十左衛門(三渕家三代)が加勢の為徒党を組んで南関の関を押し通り、そして鉄炮を放つなどの大乱闘が在った。法に触れていることは明らかである。 そして当の勘右衛門は藤田一族の復讐を恐れ逃げ延びた臼杵の地で八月晦日自殺している。(23歳)。一族の面目が一人の若者を死に至らしめた。 十左衛門のは松井寄之(細

    ■北の関事件、藩主の裁定 - 津々堂のたわごと日録
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    mfluder 2017/02/02
    "筑後領北の関で、前川勘右衛門とその助っ人が藤田助之進一家を誅罰するという事件"名門三渕家(前川家)の面目を立てるための私闘"三渕家は細川藤孝(幽齋)の実家である。細川家に連なる一族の不祥事だから、このような
  • ■無力感 - 津々堂のたわごと日録

    のある古物商から毎日五通ほどの古文書がヤフオクに出されている。私が気づいたのが昨年12月10日頃で、休むことなく毎日だから100通は有に超えている。 そしてこれ等のほとんどが長岡監物に何らかの関係があることが伺える。つまり米田家の史料であったことが推察される。 最近では気が付かれた人も多いと見えて、品物が高値になって手が出なくなった。 まだ安い時期に10点ばかりは落札したが、今では年金生活者としては横目で睨むしかない。 五日後締め切りのものまで見ることが出来るが、これがいつまで続くのだろうかと不思議に思っている。 お店の場所は承知しているので、一度訪ねてみようかとも思うのだが・・・・・ 以前7mにも及ぶ絵巻物が出品されたが、是も米田家に関するものだった。七万円以上で落札されたように思うが、米田家史料が拡散している。 無力感に陥っている。

    ■無力感 - 津々堂のたわごと日録
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    mfluder 2017/01/19
    長岡監物"米田家史料が拡散している"昨年12月10日頃で、休むことなく毎日だから100通は有に超えている"
  • ■赤坂口の戦い - 津々堂のたわごと日録

    大河ドラマ「花燃ゆ」では、四境戦争(長州征討)がいかにも簡単にかたずけられ、長州勢の一方的勝利として描かれたことにはいささかの不満がある。 ドラマの事だから目くじらをたてることもないのだが、高杉晋作が唯一大敗を期して逃げ帰ったのが赤坂口の戦い(7月27日)で、その相手こそ細川藩の精鋭である。 坂竜馬は海上にあって艦上から大砲を放って助勢しているがこれとて特段の成果は上げていない。 竜馬は細川勢の陣所から戦利品を持ちかえったような書状を書き残しているが、現在では偽文だとされている。 もともと出兵に二の足を踏んでいた細川勢は、この勝利のあと7月30日には熊へ退却をはじめる。 豊前小笠原家は強力な味方を失い、8月1日居城小倉城を自焼させて香春方面へ撤退した。 この後小倉勢のゲリラ戦は長州勢に少なからぬ被害を与えている。 一族の老中・小笠原長行が小倉口の総督として指揮をとったが、将軍家茂の死の

    ■赤坂口の戦い - 津々堂のたわごと日録
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    mfluder 2015/09/07
    “高杉晋作が唯一大敗を期して逃げ帰ったのが赤坂口の戦い(7月27日)で、その相手こそ細川藩の精鋭である”
  • ■肥後昔話集の中の「井沢蟠竜」 - 津々堂のたわごと日録

    文豪森鴎外の愛読書として良く知られている「広益俗説弁」の著者が肥後藩士・井沢蟠竜である。 肥後人名辞書においては次のように紹介している。 井澤蟠龍 名は長秀、通称十郎左衛門、亨斎又蟠龍子と号す。元禄十年家を継ぎ撃剣、抜刀、柔術をも能くす、 好んで長さ三尺三寸も長刀を帯び、質性朴実にして邊幅を飾らず、江戸にある日神道に志し、山崎垂 加流の奥秘を究め、神道に関する著作少からず、平居手に巻を廃てず常に学に通じ通邑大都に就か ざるを以て憾みとす、然れども当時博学多識を以て聞ゆ、著述極めて多し、俗説瓣正十五巻・廣益俗 説瓣四十六巻・菊池佐々軍記七巻・肥後地誌略十巻・朝俚言六巻・武士訓五巻・肥後記三巻・漢字 和訓二巻・男子訓・日勇士傳・日五雑爼・日博物志・亨齋随筆・肥後事蹟考、其他人す著書 尠からず、享保十五年十二月三日歿す、年六十三、市内宗岳寺に葬る。 文武両道の天才ともいうべき人物である

    ■肥後昔話集の中の「井沢蟠竜」 - 津々堂のたわごと日録
  • ■「外様」とは - 津々堂のたわごと日録

    古文書を読んでいて出くわす言葉に「外様」がある。大名の「譜代」「外様」ではなく、肥後藩内で使う場合の「外様」とはどう理解すべきなのか、その定義を見出していない。 いろいろ調べていたら、別府大学の機関リポジトリの「ゆけむり史学.2(2008.3),p.66-74」に、大変興味深い御側外様諸役調子写 という論考を見出した。 著者である串間聖剛、中野正裕両氏はこの大学のご出身で共に佐賀県立図書館に御勤めのようである。 取り上げられた文書は、佐賀藩の初代から十代に至る職制を示したものである。両氏は解題の中で「藩主の家政を司る御側と、藩政一般を司る外様」と明快に表現しておられるが、誠に目から鱗と言う感じがした。9ページに亘る論考の中に4ぺーじの職制に関する一覧が表に成って紹介されている。 佐賀と熊が必ずしも同様だと理解するには早計であろうが、外様というもののくくりはこういったものと理解してよいので

    ■「外様」とは - 津々堂のたわごと日録
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    mfluder 2014/10/24
    “肥後藩内で使う場合の「外様」とはどう理解すべきなのか”「藩主の家政を司る御側と、藩政一般を司る外様」”
  • 坂の上の雲 熊本のロケ地 - 津々堂のたわごと日録

    横浜港 秋山真之と正岡子規が、高橋是清とともにイギリスから購入した最新鋭の軍艦を見に行くシーン 佐世保港 日露戦争に向かう戦艦「三笠」を人々が見送るシーン

    坂の上の雲 熊本のロケ地 - 津々堂のたわごと日録
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    mfluder 2011/12/26
    ほー 三角西港 熊本大学五高記念館 九州海技学院
  • 「あご」という場所 - 津々堂のたわごと日録

    幽齋公の田邊城籠城に際して忠興公は数度にわたり密使を送っている。其詳細はつまびらかではないが、中津海五郎左衛門は織田常真(信雄)の家臣・小崎図書を頼み、その息・兵次郎の手を借りて見事城内に入り役目を果たしている。史料は次のように記している。 「関東より著仕候処、敵の番所堅固にて、城に入難く候へとも、日比よく案内をよく存候ニ附き、あごと云海辺北の口より、夜半しのひ入、忠興君の御書を差上、関東の様子具に申上候、此両人は八月三日三島より、忠興君・与十郎殿御使として被差越候、越前に廻り、大野宰相秀雄卿 常真の御嫡子・参議従三位、慶長十五年八月八日逝 之内、小崎図書方へ被頼遣候処、折節上京せしに図書子兵次郎 後ニ又兵衛、一ニ図書弟と有 斐々々しく頼まれ、中津海を供につれ、関所々々を通り、田辺に至り候となり」 このあごという場所が判らずにいたのだが、舞鶴地方史研究会応援ブログ にお尋ねすれば判るのでは

    「あご」という場所 - 津々堂のたわごと日録
  • 切支丹罰文 - 津々堂のたわごと日録

    現在読み下しをしているU家の関係資料に、やたらと「切支丹」に関係する資料が多いことにきずいた。それと共に数家の細やかな系図が存在する。上博之先生の「切支丹」関係の史料を見てみると、U家のFなる人物が「転び切支丹」であることが判った。 人は離國したのか絶家したのか、「転び切支丹」の追跡記録には登場してこない。しかしながら一族は長く、切支丹ではないことを一定の書式を以って藩庁に届け出ることが義務付けられていたようで、残された史料はその様式が記されたものであった。 諸家の系図も類族の届けのために作成されたものであることは、上先生の論考の中でも数多くの家の系図が詳細に残されていることからも伺える。下にご紹介する文は様式のひとつとして添付されたものと思われる「切支丹罰文(南蛮誓詞)」である。 (まず日誓詞が書かれているが、現代においてはいささか不穏当な文言が含まれているので省略する) ていう

    切支丹罰文 - 津々堂のたわごと日録
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    mfluder 2011/12/08
    "本人は離國したのか絶家したのか、「転び切支丹」の追跡記録には登場してこない"一族は長く、切支丹ではないことを一定の書式を以って藩庁に届け出ることが義務付けられていたようで、残された史料はその様式が記さ
  • 細川内膳家と希首座の祠 - 津々堂のたわごと日録

    忠興公の大徳寺の僧・希首座殺害事件について私はその詳細を知りえないでいた。熊県立図書館の敷地内で偶然見かけた祠が、まさにこれに関係するものだと知り青天の霹靂の思いであった。 (財)島田美術館の先々代・島田真富氏が「江津荘物語」という一文を二回に亘り某雑誌に掲載されていた。江津荘とは旧・細川内膳家の下屋敷(現・熊県立図書館)のことだが、一時期井関農機株式会社が所有していた。その時期「江津荘」と称していたのだろう。 この一文の中で氏は次の資料を紹介しておられる。これが事件の全容であろう。 【慶長十九年二月十七日大徳寺之出家希首座仔細川有之(ママ・仔細有之カ)三齋様御手討被成候処出家を左様被成物には無御座候と申上二つに成候由依之大徳寺之僧故板倉伊賀守勝重まで訴状を指出候へば伊賀守被申候は成らぬ迄も越中守殿身躰を此専にて亡ぼし可申と被思候や夫ならば一山何れも江戸へ訴訟あるべし、若し又夫に不被思

    細川内膳家と希首座の祠 - 津々堂のたわごと日録
  • 東区ん家 - 津々堂のたわごと日録

    先の熊市の政令指定都市移行決定のニュースが流れたとき、我が家が「東区」になることで、「東区ん家」という東区に特化したサイトかブログを立ち上げようかと一瞬考えた。つまるところ、いまでもサイトの維持に苦労しているのに出来っこないなーと即諦めた。しかし中々のネーミングなので誰か使ってくれないかしらと思っている。 「ひがしくんち」と読ませたのだが、古い熊弁では「ひがしくんげー」となる。 今でも使う人が居るかもしれないが、子供たちも「ひがしくんげーに遊びに行ってくる」などと使ったものである。 「東区ん家」と書いてみると、「げー=家」だから、「家=け」が「げ」に変化したものなのだろう。(私の得意な推量に過ぎないが・・) 熊弁には古語が随分多く残っていて、思いがけない言葉に出くわすと嬉しくなってしまうことがある。 そのうち、居酒屋さんかなにかで「東区んげー」などというものが登場するかもしれない。

    東区ん家 - 津々堂のたわごと日録
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    mfluder 2011/12/03
    "「ひがしくんち」と読ませたのだが、古い熊本弁では「ひがしくんげー」となる"
  • 細川→長岡→羽柴→細川 - 津々堂のたわごと日録

    幽齋と忠興が細川姓から長岡姓としたのは、元亀四年信長に桂川以西の地を与えられてからである。 足利将軍家から離れ信長に追従していくことになる。 今度彼対信長彼抽忠節誠以神妙之至ニ候 仍而城州之内限桂川西地之事一職申談候 全領地不可有相違之状如件 元亀四 七月十日        信長朱印 細川兵部大輔殿 この桂川を限りとする西の地を領地としたときに、この地が旧都にて城州の名所歌枕の地である所から、御称号を長岡と改められた。 【長岡の都は桓武天皇延暦三年に奈良の京を移され十三年に及ひて今の平安京に遷都あり、此所樫木原の南より山崎の北迄南北長き岡山なれは長岡と号るもの歟、捴名を西の岡と云て東之方桂川を限り西は丹波の山に至、南は山崎、北は嵯峨を境とする由、城地は青竜寺村・神足村ハ勿論上野村迄も御郭内にて有之たるとなり】 綿考輯録・藤孝編p72~ しかしながら信長亡き後天正13年(1585年)、忠興は

    細川→長岡→羽柴→細川 - 津々堂のたわごと日録
  • 長岡姓を賜る - 津々堂のたわごと日録

    細川家家臣の主だった人たちが長岡姓を賜るのは、細川家の豊前入国後慶長六年七月七日だとされている。「於中津去年岐阜・関原・木付の役ニ手ニ合候者不残御饗応、御能仰付、各戦功御感賞、倍士(陪臣)迄も功有ハ御目見被仰付候」と、「御饗応之席」が設けられた。村上八郎左衛門・薮内匠・益田蔵人らが「一座被仰付」られ、「若き面々ハ御給仕いたし候」とある。与五郎(興秋)や有吉与太郎(興道)らもこれに加わった。 玄蕃殿(五千石)、松井(五千石)、有吉(三千石、五千石とも)、加々山庄右衛門(弐千石)、牧新五(弐千石)、沢村才八(千石)ら六人に無役の知行が下された。 この折、長岡姓を賜ったのは次の人々である。 ・松井新太郎(興長)長岡式部少輔 父佐渡守は「世に知れたる者なれはは名を替不被遣候」とある ・有吉四郎右衛門を長岡武蔵守 「古の武蔵坊(弁慶)にもおとるまじ」とある ・米田与七郎を長岡監物興季 ・沼田小兵衛を

    長岡姓を賜る - 津々堂のたわごと日録
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    mfluder 2011/12/03
    "細川家家臣の主だった人たちが長岡姓を賜るのは、細川家の豊前入国後慶長六年七月七日だとされている"
  • 三澤純氏の「お姫様たちの西南戦争:史料の解題と紹介」 - 津々堂のたわごと日録

    大学の三澤純氏の論考だがこれが大変面白い。CiNiiで紹介されているのでぜひ御覧いただきたい。説明によるとその概要は以下の通りである。 【1877年に起こった西南戦争に際して、旧熊藩知事細川護久の三人の娘たちが、細川家の家令や女中たちとともに熊県内各地を転々とした、疎開生活中の記録である「御子様方所々御立退中日記」を解題を付して紹介したもの】 http://hdl.handle.net/2298/3270 幼い姫君お三方が戦火を逃れて、熊のあちこちを逃げ惑われて居られる。 その出立は熊城が炎上し、城下町が焼き払われる明治10年2月19日の朝である。三澤氏はこれらのことが細川御内家に事前に連絡されていたろうと推測される。お三方が熊城下を縦断して、立田邸に到着されたのが10時過ぎだとされるが、直後その城下には火が放たれている。天守が炎上するのはこの直後である。官軍が自焼させたので

    三澤純氏の「お姫様たちの西南戦争:史料の解題と紹介」 - 津々堂のたわごと日録
  • 細川興秋の子孫について (一) - 津々堂のたわごと日録

    細川忠興の二男・興秋は細川家記によると、忠興の命により自裁したとされている。 ところが実は命ながらえて天草の地にのがれ、其の子孫が脈々と続いてきたことが、高橋町奉行・齋藤權之助によって書き残されている。細川護貞さまも天草の地をたずねられ、その真偽を調査されている。(否定も肯定もされていない)地元天草では周知の事実として捉えられている。 同家系図については、ぴえーるさんのサイト「白鷺×城下町」に詳しく紹介されているので、ご参照いただきたい。(ぴえーるさんに感謝) 齋藤權之助の記録が「天草史談 七号・八号」(天草史談会 1937年)に、「細川同族天草長岡家系譜」として掲載されているのでご紹介する。 尚、齋藤權之助についてご紹介すると 齋藤左太郎(権之助・権助) 六番与 二百石 (養子・実米良勘兵衛五男) 寛政六年十二月~享和三年十月 高橋町奉行・後作事頭二転 斎藤芝山(肥後人名辞典より) 名は

    細川興秋の子孫について (一) - 津々堂のたわごと日録
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    mfluder 2010/08/25
    "細川忠興の二男・興秋は細川家記によると、忠興の命により自裁したとされている。ところが実は命ながらえて天草の地にのがれ、其の子孫が脈々と続いてきたことが、高橋町奉行・齋藤權之助によって書き残されている"
  • 藤公(加藤清正公)遺業記から - 津々堂のたわごと日録

    加藤清正公が眠る浄地廟(妙寺)の真横に、3mをゆうに越える大きな石碑が有る。 清正公を土木の神様と崇め「神君」と奉って憚らなかった、鹿子木惟善がその徳を称えて建立したものである。そこに刻まれている内容に、菊陽町馬場楠にある「鼻繰り」に関する記述などが確認された。いろいろ調べていたら同氏の著「藤公遺業記」の巻末にその碑の全文が掲載されていた。 嗚呼公事上也忠、御下也仁、至其智勇、則古今絶倫、 謀無不中、戦無不克、其動燗焉于前朝、史冊之所載、 口碑之所傳、雖婦人需人、皆知而穪之、余先人又既 著神道碑、鹿子木維善軸而蔵之寺中、頃維善來告曰、 公之長于治國也、世之所不過知也、恐無傳後世、今 欲新建碑、請継先君子識之、余因擧其揚較、昔肥之 為國、數主領之、是以政令各異、風俗不一、民易蠢 動、其於水理利、曲防自便、故失其性、公之就封也、 法令厳明、寛以済之、人心帖然、皆愛戴之、築城於 茶臼山、外至四

    藤公(加藤清正公)遺業記から - 津々堂のたわごと日録
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    mfluder 2010/04/18
    藤公遺業記 鼻繰り井戸
  • 桜の井戸 - 津々堂のたわごと日録

    昨今明治神宮の清正井戸が注目を集めている。東京第一のパワースポットとか喧伝され、携帯の待ち受け画面に取り込もうと五時間待ちの行列が出来たというからびっくりものだ。加藤清正の屋敷跡であり清正が掘ったと伝えられるが、清冽な水が湧き出ている様が受けているのであろう。 www.meijijingu.or.jp/midokoro/3.html 清正の井戸といえばもう一つ、旧加藤家邸(彦根藩井伊家上屋敷)に「桜の井戸」というものがある。ぐぐってみると、熊城内にある井戸とつくりがよく似た立派な井戸である。加藤家時代からのものだろう。 www.asahi-net.or.jp/~jt7t-enmt/teien/ido.htmlにも「桜の井戸」がある。現在の地番で言うと熊市上通り5丁目は、かっては「桜井町」といった。藩政時代このあたりは中級武士の屋敷が立ち並んでいた。長安寺(現在・手取神社)の近くの

    桜の井戸 - 津々堂のたわごと日録
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    mfluder 2010/01/16
    加藤清正の井戸