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ブックマーク / imperialarmy.blog3.fc2.com (5)

  • 近衛読書中隊 中江丑吉の人間像

    阪谷芳直・鈴木正編『中江丑吉の人間像 兆民を継ぐもの』風媒社 何処で読んだか忘れたが、中江兆民は息子が車引きになってもいいように丑吉という名前をつけたと記憶している。しかし姉は千美といい、弟の娘には猿吉(えんきち)と名付けているところから、ただの珍名マニアだった可能性もある。千美は学校の成績が良かったが、終業式で「右総代中江チビ」と呼ばれるのが嫌でたまらなかった。中江家ではネグロという黒を飼っていた。朝になると皆が自分の掛け布団の裾を少しあけて、ネグロを呼び、誰の所へ来るかはに任せて、人の所へ行っても文句は言わないという規則があった。しかしネグロは丑吉の寝床へは絶対やってこなかった。丑吉に体中をしつこくいじくりまわされるのが嫌だったからだ。丑吉は時々癪にさわり、規則を破ってネグロを捕まえて自分の床へ持ってくるのだった。父はいけないと言い、姉は怒り、母だけが丑吉を弁護した。千美が丑吉を幼

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    mfluder 2010/03/23
    人物
  • 近衛読書中隊 銀河の道

    中島欣也『銀河の道 ”社会主義中尉”松下芳男の生涯』恒文社 芳男の父は下士官上がりの将校であった。新発田の彼の家の側には、第15歩兵旅団副官だった大杉東大尉の家もあった。日露戦争で鬼少佐と謳われる人物であった。大杉が宮城に詰めていた時、何かの際に馬から振り落とされてお濠に落ちた。明治天皇が泥まみれであがってきた大杉をごらんになって、『猿じゃ猿じゃ』と笑い興ぜられたそうである。芳男はその家の次男と仲が良かったが、長男とはその当時はあまり接点がなかった。「栄さん」何かの折に芳男が声をかけると、「おお松下」栄は振り返って無愛想に応えるだけだった。 芳男は仙台の地方幼年学校に進学した。そこには終生の友人となる田中新一もいた。晩年、芳男は仙幼の校史の編纂を手がけている。中央幼年学校を卒業後、田中と二人確実に一緒に行けるところということで、志望者の少ない弘前の歩兵第52聯隊を志望した。二人は志望通り弘

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    mfluder 2010/03/23
    松下芳男
  • 近衛読書中隊 強妻谷玖満子

    谷干城の夫人は非常にしっかりとした人で有名だった。西南の役で熊城に籠城していたときには、鯉を釣ったら何十にも切り分けて部下に配ったし、自ら城外の空き家へ這い入り七輪や鍋をとってきてを焼いてはこれまた部下に配った。與倉智実夫人の分娩時には産婆をして娘を取り上げた。この娘が後に婿養子を貰ったが、それが與倉喜平中将である。 谷が農商務大臣のとき、官舎へ移れというものがあった。それを聞いた夫人は「山縣の不要になったものに谷が這入られぬ」と大憤激した。 以前三浦の回顧録のときにも取り上げたが、谷が高知県知事をすると言い出したときも、「如何に国の為とは言え、僅か一県の秩序回復のため、井上(馨)内相の下風に立ち、その節度を受けらるるとは、妾が生存中は断じて受け入れ難し」と頑張ったため、谷も遂にこの一件を思いとどまった。 谷の死後、故人を語るというような企画で一人だけ3回も登場している曽我祐準(出たが

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    mfluder 2010/02/02
    "谷干城の夫人は非常にしっかりとした人で有名だった""西南の役で西郷どんの首級を発見したのは千田登文という少尉とその従兵の前田だった"
  • 近衛読書中隊 日本陸軍と内蒙工作

    森久男『日陸軍と内蒙工作 関東軍はなぜ独走したか』講談社選書メチエ 今日、会社でこのを読んでいて次の部分にウギャッとなった。 五月一日、田代皖一郎中将が支那駐屯軍司令官に就任した。佐賀閥である田代は、参謀部支那課長や中国公使館付武官を歴任した古参の支那通で、八月に同軍参謀長に着任した橋群少将とともに、中国に対して穏健な考えをもっていた。八月二三日、田代は川越茂大使と会見し、華北工作を差し控える方針を伝達している。 二七日、板垣参謀長一行は天津に到着した。板垣参謀長は軍司令官官邸で田代軍司令官と会見し、緩遠における視察状況を報告した。二八日、軍司令官官邸で関東軍と支那駐屯軍の合同幕僚会議が開かれ、支那駐屯軍から田代軍司令官・橋参謀長・河辺正三旅団長・重要幕僚等が参加した。板垣参謀長は華北・綏東の状況と緩遠出張の経過を説明し、橋参謀長は翼察の現況を説明した。二九日、会議を終えた板垣

  • 近衛読書中隊 九州二題

    『終戦秘録 九州8月15日』上野文雄 白川書院 『逃亡 「油山事件」戦犯告白録』小林弘忠 毎日新聞社 これも古まつりで買った。『九州8月15日』は、菊水作戦から終戦後の復員あたりまでの九州を舞台にしたドキュメンタリー。著者は西日新聞の記者。 九州では昭和20年、常軌を逸した事件が次々起こった。まずは衆議院議員吉田敬太郎が不敬罪などで逮捕された。新聞記者を相手に軍批判をやったときに、「皇族を担ぎ出そうという動きがあるが、高松宮様を除いてはつまらん方ばかりですな」とやったのがまずかったようだ。裁判は5分で終わり、懲役3年が宣告された。しかしこれはまだ序の口であった。 次に起こったのが九大の生体解剖事件、通称相川事件である。言いだしっぺは某軍医と方面軍航空参謀の佐藤吉直大佐。某軍医が九大のI第一外科部長のところに話を持ち込み、5月12日、Iの執刀で生体解剖が行われた。某が術後に肝臓を持ち出し

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    mfluder 2008/10/18
    『終戦秘録 九州8月15日』上野文雄 白川書院 ,『逃亡 「油山事件」戦犯告白録』小林弘忠 毎日新聞社
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