古典画像は、かてつ絵巻、屏風などのシリーズものが刊行されて普通の研究者や読者に読まれるようになるのが、ほぼ唯一のアクセスの方法だった。そのようなシリーズものへの期待や、そのような刊行がもたらす影響は、いまだ変わったものではない。一方では、そのような出版は明らかにペースが落ち、対してデジタル画像公開は日増しに広がり、印刷刊行がなければ、古典画像へのアクセスは実物しかないという事情は、すこしずつ変わった。 「平家物語」をテーマにした画像群のことを例にしよう。これまでの印刷出版を通して、絵巻、屏風、それから版本の挿絵などの資料がさまざまな形で紹介されている。一方では、ウェブで公開されているデジタル画像に目を移せば、以上のような資料に加えて、さらに奈良絵本、伝存あるいは流失した絵巻の模写という二つのグループの存在が浮かんでくる。これらのデジタル画像へのアクセスは、古典の電子化を精力的に取り掛かって
前回に引き続き花押のことを考えてみたい。今度は英語圏に目を向けてみる。そこにも文字と絵との交差というものはもちろん存在している。漢字は花押なら、ローマ字はモノグラム(monogram)だ。 北米で生活していると、日常の中で日本のと違う作法あるいはスタイルをあげるとすれば、そのトップに個人の署名が上げられるだろう。印鑑というものはほぼ存在せず、その代わり署名というのは、仕事の場に限らず、クレジットカードでの買い物などでも頻繁に要求される。最近になって、署名用電子パットを用いるような業種まで多く見られるようになった。自分の署名の書き方を思い巡らし、あれこれと試して見るという経験はいまでも記憶に新しく、成人に向かう若者たちの模索をじかに見つめたことも一度や二度ではない。 しかしながら、そのような署名の文化において、モノグラム はだいぶ異なる役目を果たしている。あえて言えば、漢字圏で署名そのものの
文字は、それ自体一つのビジュアル的な表現媒体でもある。現代の生活においてこそ、教育基準やらパソコンにおける文字コードやフォントセットやらという過程を経て、文字の同性化がすさまじいスピードで進み、文字のビジュアル的な特性は、わずかに書道などの場において認められるぐらいだ。一方では、歴史的な文化伝統において文字と絵との交差、言い換えれば文字でありながらも絵的な要素を限りなく必要としたものと言えば、おそらくまず「花押」を挙げるべきだろう。 花押という言葉は、最初は日本語の単語として覚えた。とりわけ武士のそれなどを眺めて、言葉とそれが指し示す対象と時代の中における位相など、一つの中世文化のセットとして習い、理解していた。それが唐や宋の文献や詩・詞に頻繁に登場し、りっぱな中国語だと気づいたのは、だいぶ後のことだった。もともとかなり近代まで使われていた言葉には、「画押」がある。発音が近くても、こちらの
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く