タグ

ブックマーク / blog.livedoor.jp/yatanavi (40)

  • 岩波文庫『沙石集』の謎の伏せ字 : やた管ブログ

    今日Upした『沙石集』巻7第6話「嫉妬の心無き人の事」は、嫉妬をテーマにした短い12の説話が詰め合わせになっている。テーマがテーマだけに、なかなか面白い説話が多く、おなじみの長くて難解な説教もない。 その中でも、一番面白かったのが、この説話。 遠江国、池田のほとりに、庄官ありけり。かの、きはめたる嫉妬心の者にて、男をとりつめて、あからさまにもさし出ださず。所の地頭代、鎌倉より上りて、池田の宿にて遊びけるに、見参のため、宿へ行かんとするを、例の許さず。「地頭代、知音なりければ、いかが見参せざらん。許せ」と言ふに、「さらば、符(しるし)を付けん」と、隠れたる所に摺粉(すりこ)を塗りてけり。 さて、宿へ行きぬ。地頭、みな子細知りて、「いみじく女房に許されておはしたり。遊女呼びて遊び給へ」と言ふに、「人にも似ぬ者にて、むつかしく候ふ。しかも、符付けられて候ふ」と言うて、「しかじか」と語りければ、

    岩波文庫『沙石集』の謎の伏せ字 : やた管ブログ
    mfluder
    mfluder 2019/02/14
    "岩波文庫『沙石集』(下)の初版は1943年11月なので戦時中である(僕のは1988年4月の2刷)。あるいは検閲を意識したのだろうか"
  • 『撰集抄』にみるゾンビの作り方 : やた管ブログ

    西行作に仮託された説話集『撰集抄』は、あまり有名ではないが、一つだけよく知られているヘンな説話がある。ちょうどそこまで入力を終えたので、ご紹介。 『撰集抄』巻5第15話(48) 作人形事(於高野山):やたナビTEXT 友人の僧が「都に用事がある」といって出て行って、高野山でひとりぼっちになった西行。文字通り友達を作ろうと、知り合いから聞いた、〈死体の骨から人間を作る方法〉を試してみる。聞いた通りやったところ、人間の姿にはなったが、心はなく、声もヘタクソが吹く笛の音みたいで、およそ人間ではない。 この場面、版には挿絵がある。なんと、井原西鶴の絵だそうだ。西行の足元にノコギリとかナタが見えるが、一体何に使ったのだろう。 出来損ないのゾンビを作ってしまった西行、我に返って、「それにしても、これをどうしよう。壊せば殺生の罪になるかもしれんし・・・」ってなわけで・・・ 山奥に放置! たぶん、放置さ

    『撰集抄』にみるゾンビの作り方 : やた管ブログ
  • 渋滞のほぼ先頭になった : やた管ブログ

    以前から一度渋滞の先頭を見てみたいと思っていた。もちろん事故渋滞ではなく、自然渋滞の先頭である。そして、昨日、初めて渋滞のほぼ先頭(前から三台目)になった。 首都高速道路を走っていると、どこからともなく右車線にパトカーが現れ、次第にスピードを落とした。よく見るとパトカーの左の窓から、誘導灯(所謂ニンジン)が突き出ている。これでは左車線を走っている車も先に行くことができない。 「ハハア、先頭の誰かがやらかしたな」 しかし、やらかした(違反をした)なら、その車を停車させるはずだが、一向に停車させる気配がない。そのままF1のペースカーみたように、時速30キロ程度でのろのろと走っている。後ろはどんどん詰まってくる。渋滞になっているようだ。 ずいぶん長く感じたが、そのまま10分ぐらいは走っただろうか。スピードはどんどん落ちて、ついに10キロぐらいになった。 その時、パトカーのスピーカーから何か言って

    渋滞のほぼ先頭になった : やた管ブログ
    mfluder
    mfluder 2015/11/11
    おもしろい
  • 古典の現代語訳 : やた管ブログ

    古典を現代語に直すことを、現代語訳とか口語訳とかいう。全編通して解釈するので、通釈という言い方もある。いずれにしても、ごまかしが効かないので、注釈とはまた違った難しさがある。 方法としては、なるべく原文に沿った形で訳す方法(逐語訳)と、語彙等を補って現代人にとって読みやすい文章にする方法がある。同じ国、言語で書かれたものとはいえ、古典の文章は現代の文章とは価値観が違うので、言葉だけを現代語にしても、読みにくい文章になってしまう。たとえ逐語訳であっても、ある程度の補足や語順に入れ替えは必要になってくる。 現代語訳だけを独立して出版するのなら、何もとらわれず後者の方法の方でよい。しかし、原文と同時に提示するなら、なるべく逐語訳に近い現代語訳にしなければならない。この場合、解釈が原文と一致している必要があるし、こういうの現代語訳は初学者が原文を読むための手がかりとして使われる可能性が高いからで

    古典の現代語訳 : やた管ブログ
  • 続・古典の現代語訳 : やた管ブログ

    10月20日のエントリの続きのようなもの。 最近、河出書房新社から日文学全集が出ている。 日古典文学全集 全30巻:河出書房新社 日文学全集というと、近代文学と古典文学で分かれているのが普通だが、この全集は半分近くを古典が占めている。ただし、古典は現代語訳で、訳者の多くは古典文学の専門家ではなく、小説家が〈訳して〉いる。 現在、サンプルとして、町田康氏の「奇怪な鬼に瘤を除去される」(『宇治拾遺物語』より)が全文読めるようになっている。なお、この原典は、『宇治拾遺物語』の第三話「鬼に瘤取らるる事」である。 町田康訳「奇怪な鬼に瘤を除去される」(『宇治拾遺物語』より):河出書房新社 さて、これを古典の現代語訳と言っていいのか、はなはだ疑問ではあるが、翻案としてはアリだと思う。これを読んで、忠実な現代語訳だと思う人はいないだろうから、原文を尊重せよなどと野暮なことを言うつもりはない。だが・

    続・古典の現代語訳 : やた管ブログ
  • 落寸号令来とユダヤ人実朝 : やた管ブログ

    8.6秒バズーカーのギャグ「ラッスンゴレライ」が「落寸号令来」で、原爆投下を揶揄しているとかいう、ふざけ切った読み方をして、何が何やら、ただ意地悪く反日扱いにしている人たちがいるのを知って、太宰治『十五年間』の以下の文章を思い出した。 太宰治『十五年間』(「文化展望」1946(昭和21)年4月号) 昭和十七年、昭和十八年、昭和十九年、昭和二十年、いやもう私たちにとっては、ひどい時代であった。私は三度も点呼を受けさせられ、そのたんびに竹槍突撃の猛訓練などがあり、暁天動員だの何だの、そのひまひまに小説を書いて発表すると、それが情報局に、にらまれているとかいうデマが飛んで、昭和十八年に「右大臣実朝」という三百枚の小説を発表したら、「右大臣(ユダヤジン)実朝」というふざけ切った読み方をして、太宰は実朝をユダヤ人として取り扱っている、などと何が何やら、ただ意地悪く私を非国民あつかいにして弾劾しようと

    落寸号令来とユダヤ人実朝 : やた管ブログ
    mfluder
    mfluder 2015/04/27
    "右大臣(ユダヤジン)実朝"
  • 「はしかのようなもの」は死語になりました : やた管ブログ

    もうすでに死語になっているような気がするのでちょっと説明しておくと、かつて、はしかは子供が必ずかかる病気で、「はしかのようなもの」というと、若い頃に一度はハマってしまう物事をいう。このブログでも、一度タイトルとして使ったことがある。 文学研究者がかかるはしかのようなもの:2013年06月23日 このはしかがついに撲滅されたという。これで「はしかのようなもの」は、完全に死語になった。 はしか:日で「撲滅」 WHOが認定:毎日新聞 厚生労働省は27日、世界保健機関(WHO)が同日、日をはしか(麻疹)の「排除状態」にあると認定したと発表した。「排除」は、日に土着するウイルスによる感染が3年間確認されない場合に認定される。日の認定は初めて。 はしかは高熱や全身の発疹などが出るウイルス感染症で、肺炎や脳炎を合併して死亡することもある。日では2007年、10代から20代の若者を中心にはしかが

    「はしかのようなもの」は死語になりました : やた管ブログ
  • 今昔物語集のホラー的表現 : やた管ブログ

    ミステリーで殺された被害者が、今際の際にメッセージを残し、それが推理のヒントになったり、妨げになったりするというお約束のパターンがある。いわゆるダイイング・メッセージである。近代に入ってから誰かが発明したものだろうと思っていたら、何と『今昔物語集』の中にあった。 早朝の政務に遅刻してきた史(さかん)の某が、慌てて庁舎に入ろうとしたが、そこには彼の上司、弁の某がいるはずなのに暗く、人気がない。人を呼んで火を灯して入ってみると、そこには猟奇的な殺人現場が展開されていた。 巻27第9話 参官朝庁弁為鬼被噉語 第九:やたナビTEXT 史、極て怪く思て、弁の雑色共の居たる屏の許に寄て、「弁の殿は何こに御ますぞ」と問へば、雑色共、「東の庁に早く着せ給ひにき」と答ふれば、史、主殿寮の下部を召して、火を燃(とも)させて、庁の内に入て見れば、弁の座に赤く血肉(ちみどろ)なる頭の、髪所々付たる有り。史、「此は

    今昔物語集のホラー的表現 : やた管ブログ
    mfluder
    mfluder 2015/01/18
    おもしろい
  • 『古本説話集』と『宇治拾遺物語』 : やた管ブログ

    『古説話集』にしろ『宇治拾遺物語』にしろ、翻刻をやる以前に何度も読んでいた。その時はよく似た説話集だたなと思っていた。説話そのものも多く共有しているし、文体も似ている。しかし、今回『古説話集』を翻刻してみて、全然違う印象を持った。 『古説話集』は二巻からなり、上巻が和歌説話、下巻が仏教説話になっている。目録はあるが、序文・跋文がなく、天下の孤なので、これで完結しているのか、それとも一部しか残っていないのも分からない。 一方、『宇治拾遺物語』の方は、同じく二巻(古系)からなるが、様々な説話をランダム(意図があるのかもしれないがよく分からない)に並べてある。 読んで面白いのは『宇治拾遺物語』の方だ。説話そのものの面白さもさることながら、読んでいて飽きない。「この話つまんないな」というのが出てきても、数話後にはサプライズがある。作者はそうとう面白い人物に違いない。 もちろん『古説話集

    『古本説話集』と『宇治拾遺物語』 : やた管ブログ
    mfluder
    mfluder 2014/07/16
    "説話そのものも多く共有しているし、文体も似ている。しかし、今回『古本説話集』を翻刻してみて、全然違う印象を持った"
  • 「全然」の話 : やた管ブログ

    前回のエントリで馬上駿兵氏の『文豪たちの「?」な言葉』を紹介したが、その中で取り上げられている言葉で、以前から気になっていた言葉があった。否定をともなわない「全然」である。 馬上氏によると、現代の国語辞書では、否定を伴わない「全然」は「俗な用法」とされるが、昭和40年代ぐらいまでは文学作品の中にごく普通に見られるという。このでは『広辞苑』の「全然」の項の変遷が挙げられているのだがこれが面白かった。 昭和10年の『辞苑』、昭和30年の(『広辞苑』)第一版には否定云々という説明がありません。(中略)そして、昭和44年の第二版で初めて「否定の語を伴って」という説明が出てきます。更に、昭和58年の第三版から、否定を伴わない使い方を「俗」だとする説明が加えられているのです。 現在、否定を伴わない「全然」は、再び使われるようになったが、現代人の全然と、かつての文学作品に見られる全然は、意味において違

    「全然」の話 : やた管ブログ
    mfluder
    mfluder 2014/05/05
    面白い
  • 馬上駿兵『文豪たちの「?」な言葉』を読んだ。 : やた管ブログ

    馬上駿兵氏『文豪たちの「?」な言葉』(新典社新書)を読んだ。 書は、否定をともなわない「全然」や、「役不足」の用法(役不足の誤用に見える表現については、僕も太宰治の「役不足」:2013年9月26日で書いたことがある)、「女に別れる(女と別れる)」など、現代の用法としては誤りか、おかしいと見られる表現を、近代文学作品の中から博捜し、それらの言葉がどのように使われてきたかを探求している。 それぞれに用例が挙げてあり、古語との関係や、用法の変遷をたどっている。これを読むと、正しい表現、間違った表現という考え方がいかに安直で浅薄なものかが分かるだろう。 言葉を語る上で重要なポイントは、言葉はあくまで単独ではなく、文や文章の中で使われるということだ。その言葉の前後だけを切り出しても、言葉の使い方は分からない。その点、書ではその言葉が使われている、作品のコンテクスト(文脈)をしっかり追うことによっ

    馬上駿兵『文豪たちの「?」な言葉』を読んだ。 : やた管ブログ
    mfluder
    mfluder 2014/05/05
    "言葉を語る上で重要なポイントは、言葉はあくまで単独ではなく、文や文章の中で使われるということだ。その言葉の前後だけを切り出しても、言葉の使い方は分からない"
  • お遍路の話(その3・寛大さ) : やた管ブログ

    お遍路の話(その1・遍路道):2014年04月12日 お遍路の話(その2・お接待):2014年04月13日のつづき。 この記事を書くにあたって、いろいろなサイトを覗いてみたが、僕が巡礼したのは2001年、そのころよりも、道案内ステッカーの数は増えているようだ。お遍路文化は健在だという印象を受けた。 お遍路というと、あの印象的な白装束、納経帳を想起する人も多いだろう。しかし、実際、そのようなお遍路グッズはあまり大きな意味を持っていない。歩き遍路の人は、菅笠と金剛杖だけであとはスポーツウェアの人が多い。また、ベテランほど御朱印をもらわない。 巡礼というと、何か堅苦しいしきたりがあるように思えるかもしれない。しかし、お遍路にはそれが驚くほどない。 すでに述べたように、巡礼コースは遍路道という名前で存在しているが、そこを歩かなければならないわけではない。順番も番号順に回らなくてもよい。一度に回れな

    お遍路の話(その3・寛大さ) : やた管ブログ
    mfluder
    mfluder 2014/05/05
    "納札は自分の住所と名前を書く紙で、いわば名刺のようなものだ。札所の本堂と大師堂に収めるほか、お接待をいただいたときや、仲良くなったお遍路さんに渡したりするのに使う。千社札のように休憩所などに貼る人も
  • レイシストに遍路道を汚させるな : やた管ブログ

    最初に、今お遍路をしている人にお願いがある。もしこのバカげた貼り紙を見かけたら即座に剥がしてほしい。これは遍路道を汚すものだ。 お遍路に外国人排除の紙:nikkansprts.com 徳島県吉野川市川島町川島にあり、四国遍路の巡礼者が利用する休憩所に「『大切な遍路道』を朝鮮人の手から守りましょう」と印字し、外国人排除を訴える紙が貼られていたことが9日、分かった。 貼り紙は「最近、礼儀しらずな朝鮮人達が、気持ち悪いシールを、四国中に貼り回っています。『日の遍路道』を守る為、見つけ次第、はがしましょう」とも記載。「日の遍路道を守ろう会」の名があった。 「気持ち悪いシール」とは崔象喜さんが貼った、道案内のシールを指すらしい。もちろん許可を得て貼ったものである。 「お遍路」韓国に広がれ 崔さん、道沿いに案内シール:徳島新聞 「お遍路」韓国に広がれ 崔さん、道沿いに案内シール 韓国人の崔象喜(チ

    レイシストに遍路道を汚させるな : やた管ブログ
    mfluder
    mfluder 2014/04/13
    "道案内ステッカー自体がお遍路文化になっているのである。崔さんのステッカーもこれに習ったものだろう"ニンジン嫌いのいうことを聞いて、ニンジン嫌いになるほどバカバカしい話はない"
  • お遍路の話(その2・お接待) : やた管ブログ

    お遍路の話(その1・遍路道)の続き。 お遍路を語る上で、絶対に欠かすことのできないキーワードが「お接待」である。 お接待とは簡単に言うと、お遍路さんに便宜を施すということである。それは現金だったり、料や水などの物だったりする。物ではなく道を教えるとか、休憩所や泊まる場所を提供することもお接待になる。道案内のステッカーも一種のお接待である。 お接待として最も一般的なのは現金だろう。僕の場合は自転車だったので、追いかけて渡すというわけにはいかないから、あまりもらわなかった方だと思う。それでも休憩中にポケットにお金をねじ込んでくれる人や、自動販売機のお釣りをくれる人がいて、合計5千円ぐらいはもらった。歩き遍路の人からは、小学生が走り寄ってお金をくれたという話も聞いた。 水や果物、缶ジュースなどをもらったのは数しれない。休憩所にはずいぶんお世話になった。ほとんど野宿したので使わなかったが、善根宿

    お遍路の話(その2・お接待) : やた管ブログ
    mfluder
    mfluder 2014/04/13
    興味深い
  • お遍路の話(その1・遍路道) : やた管ブログ

    この話題、そんなに引っ張るつもりはなかったのだが、昨夜、枕元に弘法大師様が示現され、世の人に分かりやすく説明せよとお告げをたまわったので、書くことにする。 お遍路とは、弘法大師空海が修行したとされる、四国八十八箇所の寺を巡礼することである。実際には、八十八番目にお参りしたあと、最初の寺にお礼参りに行き、さらに高野山に参るので、一回の遍路でのべ90の寺をお参りすることになる。このように円環状になっている巡礼は世界的にも珍しい。 巡礼はどこからはじめてもよいが、一番札所の霊山寺(徳島県)から始めることが多く、僕も霊山寺から始めた。一番札所から始めると八十八番の大窪寺まで打って結願(けちがん)となり分かりやすい。ハングルのステッカーを貼っているという崔さんは、四回結願したというから、四周しているわけである。 全距離は歩き方にもよるが1200km〜1400km。徒歩で巡礼すると早くても40日はかか

    お遍路の話(その1・遍路道) : やた管ブログ
    mfluder
    mfluder 2014/04/13
    興味深い
  • 文学研究者がかかるはしかのようなもの : やた管ブログ

    以前、Twitter青空文庫のテキストを批判して、青空文庫呼びかけ人グループの富田倫生氏に反論された人がいた。 「青空文庫」はアブナイ?:Togetter 近代文学のテキストには言いたいことがたくさんあるが、この件について僕は微笑ましく見ていた。文の正統性を疑うのは、文学研究を志した人ならだれでも通る道だからである。小谷野敦氏はこれを「中二病」になぞらえた。 歴史中二病:を償うにをもってせよ 文学のほうで中二病をこじらせると、『芥川全集』なんぞで研究ができるかと言い、初出の雑誌を見るようになり、遂には生原稿を見ないと研究は出来ないと思い込むに至る。美術のほうはもっと分かりやすく、画集で見たってダメだ、欧米の美術館で物を見なければ研究とはいえないと思い、一般の美術好きを「物も見てないくせに」と軽蔑するのである。 大学で文学を学ぶと、必ず文批評というものを習う。これは、簡単に言う

    文学研究者がかかるはしかのようなもの : やた管ブログ
    mfluder
    mfluder 2013/06/25
    興味深い じっくり読む
  • 真福寺本『日本霊異記』の巻頭発見される : やた管ブログ

    真福寺『日霊異記』の巻頭が真福寺(大須観音)で発見されたという。 日最古の説話集の巻頭部分か:NHK NEWSWEB 名古屋市内の寺から、日で最も古い説話集とされ、国の重要文化財の「日霊異記」の未発見の巻頭部分とみられる史料が専門家のグループの調査で見つかり、貴重な文化財として注目されています。 新たに史料が見つかったのは名古屋市にある大須観音です。 大須観音では、平安時代に書かれた日で最も古い説話集とされ、仏教の教えが書かれた国の重要文化財の「日霊異記」の写を所有していますが、これまでは巻頭部分がない状態でした。 『日霊異記』は三巻からなるが、すべて揃った完の古写がない。上巻のみの最古写興福寺(国宝)と、上巻のない真福寺を取り合わせて文を作成する。なお、興福寺は奈良女子大学附属図書館の奈良地域関連資料画像データベースで見ることができる。 興福寺『日霊異

    真福寺本『日本霊異記』の巻頭発見される : やた管ブログ
  • 甘いものには価値がある : やた管ブログ

    中国でペットボトル入りのお茶(緑茶・烏龍茶)を買うときには注意しなくてはならない。砂糖が入っていることが多いからである。夏の暑い日、冷たいお茶を飲もうとしたら思いっきり甘かった・・・関西でトコロテンを注文したら黒蜜がかかっていたのと同じぐらい寂しい気持ちになる。 温かいお茶には絶対に砂糖を入れないのに、ペットボトルのお茶には入っているのは日人にとっては不思議と言う他ないが、当の中国人にしてみると、日のペットボトルお茶が甘くないのが不思議なようだ。 中国オタク的疑問「なんで日のペットボトルのお茶は砂糖入ってないの?」:「日中文化交流」と書いてオタ活動と読む なぜ、このような違いがあるのか。上のリンク先にもいろいろ挙がっているが、僕は日でミネラルウォーターが普及する前にお茶が普及したからだと思っている。 30代以下の人は知らないだろうが、昔は日でも自販機で売られる飲料はすべて甘かった

    甘いものには価値がある : やた管ブログ
    mfluder
    mfluder 2012/10/09
    ほー
  • これが日本のホスピタリティ : やた管ブログ

    テレビを見ていたら、銀座の中国人観光客に「尖閣諸島問題をどう思うか」みたいなインタビューをしていた。 最低だなと思った。 ビジネスマンや留学生に聞くのはいい。彼らは少なからず日の社会と関わっているから、尖閣諸島問題も無関係ではあるまい。中国中国人にインタビューするのもいいだろう。 しかし、銀座の中国人観光客は、高い金を払って日に来ているツアー客である。ツアー客なら日は初めてという人も多いだろう。彼らは、日常を離れて現実から逃避したいと思っている。そこに、そんな生々しい質問をするのは失礼千万と言う他ない。 逆を考えてみればいい。ハワイのワイキキビーチでくつろいでいるところに、アメリカテレビ局から「真珠湾攻撃をどう思う」とか聞かれたらどうだろう。答えに窮するだけではなく、たまらなく興ざめに思うだろう。もう二度とハワイには行かないと思うかもしれない。 実際、質問に困惑していた人もいた。

    これが日本のホスピタリティ : やた管ブログ
  • 本を切るということ(その2) : やた管ブログ

    を切るということ(その1)のつづき。 書籍の質はデータである。データがなければ、それは紙を束ねたものにすぎない。現代では「紙を束ねたもの」以外にデータを保存・閲覧する方法が出てきたから、「紙を束ねたもの」は必要ないという人もでてきたのである。 僕たちは美しく装丁されたものを長年「書籍」だと思ってきた。だから、データだけのもの・・・例えば、表紙も扉もなく、ノンブルも打っていない紙の束をとは言わない。たとえそこに文豪の小説が印刷されていても、それはとは認められないだろう。逆にどんな駄文が書かれていようとも、書籍の体裁になっていれば、それは疑いなく書籍である。つまり、書籍とは〈書籍の外形をしたもの〉として理解しているのである。 しかし、書籍が今のような形になる前、書籍はデータそのものだった。 かつて、書籍は写という形で読まれた。写とは手書きで書き写したのことである。もともとの著者が

    本を切るということ(その2) : やた管ブログ
    mfluder
    mfluder 2011/12/23
    面白い。写本。古筆切。