「誰が得をして、誰が損をするか」というのは相関関係にすぎず、因果関係とは異なる。 「風が吹けば桶屋が儲かる」は真でも、桶屋は風を吹かせられない _(:3 」∠ )_
外国にある「我々の土地」 特にユーラシア大陸の、時期によって主要民族が大きく移り変わった場所では、過去の主要居住地と現在の主要居住地が大きく異なっていることは珍しくありません。 日本だと、例えば天孫降臨神話がある高天原、古都の奈良や京都といった地は、そこに例え馴染みがなくても、自分たちのルーツがある土地として、精神的な故郷と感じることができます。 幸運なことに日本人の精神的故郷は国内にありますが、そうでない国もいくつもあります。仮に京都や奈良が中国大陸や朝鮮半島にあると考えたら、その感情を少しは理解できるかもしれません。 過去の民族の神話や歴史が整理し近代国家を形成する過程で、場合によってはそれを取り戻そうとする動きも高まり、戦争にまで発展したケースもあります。 1. フィンランド人の故地カレリア フィンランド人の心の故郷 カレリアは現在はロシアのレニングラード州とカレリア共和国、フィンラ
徳川家康の子孫にあたる徳川宗家18代当主の徳川恒孝さんがことしいっぱいで退き、長男の家広さんが19代当主として家督を継ぐことが関係者への取材でわかりました。 徳川宗家18代当主の徳川恒孝さんは昭和38年、先代の死去に伴い家督を継ぎ、平成15年には徳川家に伝わる資料や文化財を保存・展示するため徳川記念財団を設立するなど60年近くにわたり当主を務めてきました。 関係者によりますと恒孝さんは82歳と高齢であることなどを理由にことしいっぱいで当主を退くことを決め、長男の家広さんが19代当主として正式に家督を継ぐことになったということです。 徳川家広さんは東京都出身の57歳。 アメリカの大学を卒業後、政治や経済、歴史の評論家などとして活動し、3年前の参議院選挙静岡選挙区に立憲民主党から立候補しました。 現在は徳川記念財団の理事長を務め、来年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の「浜松大河ドラマ館」の名
文化や街歩きが好きな会社員。昔からあるものと新しい技術が好き。誰も気づいていないことを見つけると燃える。好きな食べ物は天下一品。 前の記事:阿佐谷の塀に描かれた絵の進化を見守る > 個人サイト 足跡を辿る 114年前に書かれた本 ある日、『伊豆新誌』という本を見つけた。 なんと無料で読める。ありがとうインターネッツ。(国会図書館デジタルコレクション) 発行は明治41年(1908年)。114年前か。夏目漱石の小説が話題をかっさらい、日清・日露戦争を経て日本の軍隊が強化されていった時期だ。 めくっていると、伊東のページで目が止まった。 「最もよい」とはすごい自信だ。生きていてここまで強く言い切ることってなかなかないんじゃないか。 さらに『伊豆新誌』を読み進む。次々出てくる知らない名所たち。しかも「オススメ10選!」みたいな観光サイトにのってない場所ばかりだ。足がうずうずしてきた。 よし、伊東に
焼夷弾で焼き尽くされた「国宝」 江戸時代に存在していた天守の多くは1873(明治6)年、城を封建時代の遺物と断じた明治政府がいわゆる「廃城令」を出したのち、取り壊されるなどして姿を消した。それでも1945(昭和20)年を迎えるまでは、全国に20の天守が残っていた。 しかし、城は軍の駐屯地であったりして、米軍の空襲の標的になりやすかった。直接の標的にはならなくても、米軍は密集する市街地に焼夷弾攻撃を繰り返したので、火はあっという間に城にまで燃え広がった。 焼夷弾とは、火のついた油脂をまき散らして、あたり一面を焼き尽くすもので、米軍はこれを人口密度が高く木造家屋が密集する市街地に落とした。飛び出した油脂は90メートルも飛んだので、あっという間に火の海に囲まれてしまった。 まず5月14日に名古屋城天守が焼け落ちた。有名な金の鯱を避難させようとして組んであった足場に焼夷弾が引っかかり、そこから火が
源頼朝の平家打倒の挙兵に参加して戦功を立てた 元久2(1205)年閏7月、江間(北条)義時は、父・北条時政を伊豆に追放し、北条家を継承した。 時政は、嫡男の北条宗時が石橋山の戦い(1180年)で戦死した後、スムーズに「次男の義時を当主に」と考えていたのではない。北条氏の苗字の地「北条」(静岡県伊豆の国市)の隣地である「江間」を義時は父から与えられていた。つまり、義時は本家である北条家から出されて江間家を継いでいた。 義時は北条家の正当な後継者ではなかったわけだが、その義時が一発逆転、北条氏の惣領となることができたのは、父を追放したからであった。 さて、北条氏は梶原景時、比企能員、畠山重忠といった有力御家人を排除、打倒してきた。では、義時が北条家を継承してから、最初に潰した大物御家人は誰であろうか。それは、和田義盛である。 和田氏は三浦氏の一族で、根拠地は相模国(神奈川県)和田であった。源頼
NHK大河ドラマでは秀吉が悪く描かれがちな背景は何か? 江戸時代は一番人気…時代で変わる秀吉の評価 「東洋のナポレオン」とも言える功績について八幡氏が論じる NHK大河ドラマでは豊臣秀吉は悪く描かれることが多い。来年の大河は松本潤主演の「どうする家康」で、秀吉役のムロツヨシさんもまた格好の悪役を演じるかもしれないと言ったら失礼になってしまうか。 若い頃の木下藤吉郎はともかく、天下をとってからの秀吉は、野心と好色と我が子である秀頼への溺愛が空回りして、甥の秀次を殺したり、朝鮮出兵という暴挙をした醜い老人扱いというワンパターンだ。 しかし、秀吉ファンとしては、悔しいので、あの世の寧々が、日本経済新聞社から「私の履歴書」の執筆を頼まれたという想定で、『令和太閤記 寧々の戦国日記』(ワニブックス)という評伝を書いてみた(八幡衣代と共著)。小説でないので、嘘は書いてない。あやふやなことは寧々の推測と
加藤マニ @katomani ロシア語には「熊」という意味の単語はないけれど、「メドヴェーチ(Медведь)」という言葉があって、意味は「蜂蜜をたべるもの」なんだけど、この言葉が「熊」という意味も持ってるらしい。歪曲的に表現することで熊を呼び寄せないようにしてるみたいだ。 2022-01-16 13:17:21 emuson(えむそん) @butachan_emuson これ気になって大学助教授やってるロシア人の友達に聞いたら一ヶ月調べてくれて、まさに古い語で「Бер」と言う。(bearと同源?) 現在は熊の巣穴を指す「Берлога」など熊に関する言葉に残っている。でも殆どのロシア人は「Бер」だと通じなくて一般的に「медведь」じゃないと通じないという🧸 twitter.com/katomani/statu… 2022-09-18 23:47:33
東京は広い。長いこと住んでいても、まだまだ知らない場所がたくさんある。 著者は東京品川区の戸越銀座で生まれ、現在もそこで暮らしている。著者の家は祖父の代からこの地で町工場を営んでいた。 戸越銀座は五反田から東急池上線なら二駅、都営浅草線なら一駅だ。戸越銀座も五反田もそれなりに知っているつもりでいたが、所詮それはピンポイントの知識に過ぎなかった。本書を読むまで、このあたりを面としてとらえるイメージがまったくなかったのである。 戸越銀座と五反田は直線距離でわずか1・5キロほどしか離れていない。この界隈に住む人にとっては、戸越銀座商店街も五反田駅周辺も生活圏なのだ。五反田駅を中心とした半径約1・5キロの円を、著者は〈大五反田〉と呼ぶ。 本書は〈大五反田〉の歴史を著者の個人史と結びつけて掘り下げた一冊だ。知らない街や他人様の歴史に興味はないと敬遠するのはあまりにもったいない。実は五反田は、日本の近
トマトスープ @Tsoup2 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。 これの続きは、掲載サイトから読んでいただければ嬉しいです。👇 souffle.life/author/tenmaku… 1〜7話までは単行本として発売されますので、お気に召しましたら、こちらもよろしくお願いします。 amazon.co.jp/dp/4253264468/ 2022-08-15 18:01:35 リンク souffle.life 『天幕のジャードゥーガル』トマトスープ | Souffle(スーフル) 後宮では、賢さこそが美しさ。 13世紀、地上最強の大帝国「モンゴル帝国」の捕虜となり、後宮に仕えることになった女・ファーティマは、賢さをただひとつの武器に、大帝国を揺るがせていく。 4 users 30
トルコ・イスタンブールで一般公開された「地下宮殿(バシリカ・シスタン)」の名で知られる貯水槽(2022年7月26日撮影)。(c)Yasin AKGUL / AFP 【8月6日 AFP】国連教育科学文化機関(UNESCO、ユネスコ)の世界遺産に登録されているトルコ・イスタンブール歴史地域で、「地下宮殿(バシリカ・シスタン、Basilica Cistern)」の名で知られる貯水槽の一般公開が再開された。 この貯水槽は、紀元542年に東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世(Justinian the Great)によって建設された。5年の改修を経て、音と光の演出を楽しみながら涼を味わえる空間となった。 ユスティニアヌス1世の時代に首都だったこの街には、ローマ時代からオスマン帝国時代にかけて建設された貯水槽が100か所以上存在した。(c)AFP
Kent AOKI @kentaoki @asahi_photo これは見事な洪水制御の写真. 単に氾濫しているのではなく,霞堤によって制御されている氾濫.浸水しているのは当初から氾濫が想定されいる遊水地となる場所.さらに,堤防として機能させることを想定して作られている道路もしっかりと集落への浸水を防いでいる. 2022-08-06 05:15:37 オイカワ丸 @oikawamaru これは見事な治水。絶対にあふれない治水はあり得ないということが昨今の災害で明らかになったこと。その前提の上でいかに人の命を守るか、いかに失う財産を減らすか、というのが流域治水の考え方。なのでこの記事は「霞堤が機能して町の水没を防ぎました!」と報道しないといけません。 twitter.com/asahi_photo/st… 2022-08-06 11:20:26
この 「歴史上で一番人を殺したカルトはダントツ一番が共産主義」 というフレーズは統一協会(原理研究会)が好んで用いる煽りフレーズです。しかもこれは実はデマでして「共産主義がダントツで一番人を殺したカルト」という言説に実は根拠はあり… https://t.co/O2ieHOXJj2
多くの人の命を奪った落馬事故 現代の交通事故に類する事故が、昔では落馬事故にあたったのかもしれません。 不注意や追突、飲酒運転などもあったでしょうし、今の自動車にはない「馬の機嫌」というものもあったので、自動車よりもよっぽど危険です。 落馬で死んでる人は歴史上数限りなくいますが、今回は国王を15人リストアップします。事前に申し上げますが、この15人だけというわけではなく、もっともっとたくさんいます。独断と偏見で15人に絞らせていただいています。 1. ルイ3世(865-882) 女の子を追いかけて落馬 ルイ3世はカロリング家出身の西フランク王国の王で、弟のカルロマン2世と共同統治を行いました。彼の治世は879年から882年とわずか3年しかないのですが、881年8月に北のヴァイキングを倒すなど、軍事的な成功があります。 ルイ3世は882年、17歳のときに、領地のサン=ドニで馬に乗って少女を追
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