全体が1人の女王で、頭がスペイン、右腕がイタリアで、シチリアは宝珠、左腕はデンマーク、ブルガリアやモスクワ大公国が足にあたる。
全体が1人の女王で、頭がスペイン、右腕がイタリアで、シチリアは宝珠、左腕はデンマーク、ブルガリアやモスクワ大公国が足にあたる。
同じ西スラブ族の「兄弟」はなぜ決別したのか かつて中欧には「チェコスロバキア」という国がありました。 1990年以前に教育を受けた人には馴染みがあると思います。 ところがこの国は1993年1月に分離をして、チェコ共和国とスロバキア共和国の2つの国に別れてしまいました。かつてのユーゴスラヴィアのように分離にあたって流血の事態に至らなかったので「あれ?いつの間に?」と思った人もいたのではないかと思います。 そんなに理性的に別れられる知恵があるなら賢く統合を維持できなかったのか?など部外者は考えたりしますが、実際に別れても両国の国民は親密だし、むしろ統合していた時より良好な関係であるようです。 今回はチェコとスロバキアが分離するに至った歴史的な背景をまとめていきます。 1. 1993年のチェコとスロバキアの「円満離婚」 冒頭に述べた通り、1993年1月1日に実施された分離は、一滴の流血や暴動も伴
"義賊大国"ハンガリー、その社会的背景 弱きを助け、強きを挫く。農民の味方・正義の義賊。 世界各地に義賊はいるのですが、特に義賊の数が多く社会や文化に根ざしていたのが中央ヨーロッパとバルカン諸国。 このブログでは初期の頃に、18世紀〜20世紀の義賊を紹介する記事を書いており、スロヴァキアのユライ・ヤーノシークや、ハンガリーのロージャ・シャーンドル(上記写真)についても言及しました。 今回のテーマは、なぜこれらの地域で義賊がたくさん出現したのか、です。 1. なぜ盗賊は発生するか 世界的な義賊研究の権威E.J.ホブズボームによると、 盗賊が「義賊」として認識されるには以下の要因があるそうです。 農民社会の周縁部に生き、いつでも元の農民に復帰できること 義賊になるきっかけが名誉なものであること 豊かなものから奪い貧しいものに与えること 無意味な殺害はしない、悪を正すということ そして義賊は、部
「アイスマン」の手を研究者がそっと持ち上げる。凍結した5300年前のミイラを解剖する貴重な機会だ。アイスマンは40代~50代の健康な男性で、肩に矢を受けて殺されたことがCTスキャンにより判明している。(PHOTOGRPAH BY © EURAC, MARION LAFOGLER) 5300年前に氷づけになったミイラとして知られる「アイスマン」。発見された場所にちなんで「エッツィ」とも呼ばれるこの男性の胃の残留物について新たにDNA分析を実施したところ、ピロリ菌(ヘリコバクター・ピロリ)が見つかった。しかも、それは現代ヨーロッパ人には見られないタイプの細菌株だった。(参考記事:2007年7月号特集「アイスマン その悲運の最期」) ピロリ菌は世界中で多くの人の胃にすみついている菌で、胃潰瘍や胃がんの原因になる。科学誌「サイエンス」に1月7日付で発表された研究結果によると、アイスマンから検出され
皆様こんにちは。ご無沙汰しております、Rasielです。今回のエントリは声優やアイドルにまつわる話題ではなく、歴史についての(少し堅めの?)話題です。 さて。Googleとは恐ろしいもので、先日「カール大帝 ヒルデガルト」で検索をかけていたら、たまたま次のページを見つけてしまいました。 http://hidexhirax.hatenablog.com/entry/2015/06/29/234249 http://hidexhirax.hatenablog.com/entry/2015/06/30/235531 このブログや筆者が何なのかは存じ上げませんが、少なくともこのエントリには言葉を悪くすればデタラメが数多く含まれています。私はカールの時代の国制や教会、ひいては神学に関心があり、ほんの少しですが勉強しているので、このエントリに書かれていることに対する反証を書かせていただきます。趣旨は「
獅子公だの熊公だのとブログに書いていたら、 中世ヨーロッパ史専門の先輩から 中世ヨーロッパのあだ名文化についての論文を紹介されました。 岡地稔「ピピンはいつから短躯王と呼ばれたか: ヨーロッパ中世における「渾名文化」の始まり ―プリュム修道院所領明細帳カエサリウス写本・挿画の構想年代について―」 『アカデミア』人文・社会科学編 南山大学 2007年1月 この論文はプリュム修道院所領明細帳のある写本の挿画が いつ頃描かれたか(あるいは現存写本が複製画を載せているなら原画が作成された年代) を論じるための前提の前提として、 Ⅱ節 ヨーロッパ中世における「渾名文化」の始まり を論じているのですが、 当該節の内容を短くまとめてしまうと、 もともと個人名のみで姓ないし家族名のなかったゲルマン社会の流れの中、 カロリング期に貴族たちは一族で限られた個人名を使用することで、 カールやルートヴィヒと聞けば
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