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mediaとhistoryに関するgogatsu26のブックマーク (18)

  • 「第5スタジオは礼拝堂~文化放送 開局物語」 | 文化放送

    第1章「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら 第2章「マルチェリーノ、憧れの日へ」はこちら 第3章「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら 第4章「暴風雨の中を上海、そして日へ」はこちら 第5章「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」はこちら 第6章「帝都の玄関口、東京駅に救世主は現れた」はこちら 第7章:「東京・三河島で迎えた夜」はこちら 第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」はこちら 第10章:「大森での新生活がスタートした」はこちら 第11章:「初めての信徒」はこちら 第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」はこちら 第13章:「戦争の足音が近づいてきた」はこちら 第14章:「ベルテロ、ニューヨークに向かう」はこちら 第15章:「印刷の責任者に」はこちら 第16章:「イタリアの政変で苦境に」はこちら 第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」はこちら 第18章:

    「第5スタジオは礼拝堂~文化放送 開局物語」 | 文化放送
  • 宮田輝 - Wikipedia

    宮田 輝(みやた てる、1921年(大正10年)12月25日[1][2] - 1990年(平成2年)7月15日)は、日のアナウンサー、政治家。参議院議員(3期)。名、宮田 輝(みやた あきら)[2]。は声優の河口恵美子[2][1]。 東京都足立区出身。血液型B型。明治大学専門部商科卒業[1]。1942年にNHKに入局[1]。NHKにおいて、高橋圭三や青木一雄らと同じく、「芸能番組向けアナウンサー」の先鞭を付けた人物の一人に数えられる。1974年にNHK退職後は参議院議員(3期)を務めながらフリーアナウンサーとしても活躍。1990年、議員在職中に死去。 経歴[編集] 1942年9月に明治大学専門部商科卒業[3][2]。同年NHKに入局[2]。同期には高橋圭三がいる。1948年10月21日に東京放送劇団の団員であった河口恵美子と結婚[4]。 NHK名古屋放送局勤務を経て東京アナウンス室

    宮田輝 - Wikipedia
    gogatsu26
    gogatsu26 2023/05/06
    “56年の紅組司会担当時には、観客から「「テルテル坊主は女か!」!」といった趣旨の野次や怒号が宮田に対して頻繁に飛び交い、それらの野次は番組の進行に支障を来たす程の酷さであった”
  • 龍村仁 - Wikipedia #来歴・人物 ##NHKキャロル事件

    龍村 仁(たつむら じん、1940年 -2023年1月2日)は、ドキュメンタリー監督、元NHKディレクター。有限会社龍村仁事務所代表。 来歴[編集] 兵庫県宝塚市出身。1963年、京都大学文学部美学科卒業後、NHKに入局。報道局を経て教育局でフィルムドキュメンタリーの演出に従事。 NHK 教養部のディレクターだった[1] 1973年3月、龍村は、当時矢沢永吉などが所属していたロックバンド・キャロルに密着したドキュメンタリー番組を企画・製作したが、完成した作品にNHKの上層部が難色を示し、再編集した上で音楽番組として放送した。これに憤った龍村はその後、NHKを欠勤し、同じくNHK職員だった小野耕世(現マンガ評論家)と共に、ATGで龍村の監督によるドキュメンタリー映画『キャロル』を製作。結果、小野と共にNHK解雇され、解雇を無効として裁判まで行った(詳細は後述)。 その後はフリーの演出家とし

    gogatsu26
    gogatsu26 2021/09/16
    “憤った龍村はその後、NHKを欠勤し、同じくNHK職員だった小野耕世(現マンガ評論家)と共に、ATGで龍村の監督によるドキュメンタリー映画『キャロル』を製作。結果、小野と共にNHKを解雇され、解雇を無効として裁判”
  • 新聞社・通信社が戦前・戦中に発行した写真集~~『関東震災画報』『時局及排日ポスター写真帖』『支那事変写真帖』

    戦前・戦中に新聞社が多くの写真集を出版している。新聞社のカメラマンが国内外で撮影したものがほとんどだと思うのだが、言葉で書くよりも現場で撮影された一枚の写真の方がはるかに説得力があるので、時々覗いていい写真があればブログの記事に利用させて頂いたりしている。 戦前・戦中に新聞社が編集した書籍についてはいずれも著作権保護期間が終了しているのだが、国立国会図書館デジタルコレクションのルールでは、保護期間を終了した出版物のデジタルデータはネット公開されることになっているものの、未だに公開されていないものが少なくない。今回は、貴重な写真だと思うものをいくつか紹介させて頂く。 大阪毎日新聞社刊『関東震災画報』 関東大震災に関してはいくつかの新聞社が写真集を刊行しているが、大阪毎日新聞社の『 関東震災画報 』全三巻のうち二巻がネット公開されている。ほとんど画像ばかりのなのだが、迫力のある写真が少なくな

    新聞社・通信社が戦前・戦中に発行した写真集~~『関東震災画報』『時局及排日ポスター写真帖』『支那事変写真帖』
    gogatsu26
    gogatsu26 2021/08/23
    “GHQが焚書した書籍を、タイトルから判断して国別で分類すると、中国に関する書籍が圧倒的に多く413点あり、その次はドイツに関する書籍で232点”
  • 新聞社で二番目にGHQ焚書点数の多い毎日新聞社の本~~『日本へ寄せる書』、『国際戦を呼ぶ爆弾 支那』

    戦前・戦中の毎日新聞社 GHQが最初に焚書処分にした10冊のことを以前このブログで書いたが、そのうちの九点が毎日新聞社が発行した書籍であった。 前回の記事で書いた通り、戦前戦中に新聞社が発行したのうちもっともGHQ焚書点数が多いのは朝日新聞社であるが、次に多いのは、意外に思われる方が多いと思うのだが、毎日新聞社なのである。(東京では「東京日日新聞」、大阪では「大阪毎日新聞」という新聞名を用いて社名もその名前を用いていたが、昭和十八年に東西両社を統合し「毎日新聞」と新聞名を改めている。) Wikipediaによると、毎日新聞の発行部数は、2020年には日経済新聞に追い抜かれ、中日新聞にも抜かれたとあり、長期にわたり業績低迷中で今は存在感の乏しい新聞社なのだが、戦前・戦中に於いては朝日新聞社に次ぐ大手であり、当時の世界情勢などを解説するを数多く出版していた。 なぜ日英同盟が破棄されたのか

    新聞社で二番目にGHQ焚書点数の多い毎日新聞社の本~~『日本へ寄せる書』、『国際戦を呼ぶ爆弾 支那』
    gogatsu26
    gogatsu26 2021/08/23
    “毎日新聞の発行部数は、2020年には日本経済新聞に追い抜かれ、中日新聞にも抜かれたとあり、長期にわたり業績低迷中で今は存在感の乏しい新聞社なのだが、戦前・戦中に於いては朝日新聞社に次ぐ大手で”
  • GHQ焚書点数第1位の野依秀市が著した軍部批判の書

    野依のは復刊もされておらず、Amazonではなぜか一冊も販売されていないのだが、日の古屋というサイトで二百冊近い彼の著作が販売されている。GHQ焚書は割高なが多いのだが、野依の著作に関してはたまに手ごろな価格で買えることがある。 今回は最近入手した『軍部を衝く』というから「五・一五事件の断罪に就いて」という標題の論文の一節を紹介したい。ちなみに、五・一五事件は昭和七年(1932年)に海軍の青年将校が『昭和維新』と称して、犬養首相らを襲撃した事件である。犬養の後任首相は鈴木喜三郎となる予定であったが、陸軍の少壮将校が反発して不穏な情勢となり、海軍穏健派の斎藤実が後継の首相に就任した。また、事件を起こした青年将校に対しては助命嘆願運動が巻き起こり、軽い判決で終わったのだが、野依はそうならないように結審の前にこう述べていた。(論文日付 昭和八年五月十日) ◇国法の尊厳のために憂う 五・

    GHQ焚書点数第1位の野依秀市が著した軍部批判の書
    gogatsu26
    gogatsu26 2021/08/23
    “GHQの焚書点数では第一位(第一位:野依秀市二十四点、第二位:仲小路彰二十二点、第三位:長野朗十八点)”
  • GHQが最も嫌った野依秀市の著した政権・大手マスコミ批判の書

    昭和14年刊『支那事変の前途は悲観か楽観か』 前回このカテゴリーで、GHQ焚書点数の最も多い野依秀市の軍部批判の論文を紹介したが、今回は野依の著作の中から、政権批判や大手マスコミ批判の論文を紹介したい。 最初に紹介するのは『支那事変の前途は悲観か楽観か』(GHQ焚書:昭和十四年刊)というで、野依が新聞で発表した支那事変(日中戦争)に関する論説集である。野依は昭和十四年三月七日に発表した「英米の機嫌をとるべきか、それとも叩くべきか」という文の中で、支那事変の前途をかなり悲観的に見ている。 我々から見るならば、何としても、何としても、国内改革を思い切ってやらなければ、この所謂支那事変は乗り切れるものではないと堅く信じているのである。しかも近衛内閣に於いても、平沼内閣に於いても、それをやらぬところを拝見すると、結局、支那事変を軽く観ているからにほかならぬと察するのほかない。我々は毎度申す通りに

    GHQが最も嫌った野依秀市の著した政権・大手マスコミ批判の書
    gogatsu26
    gogatsu26 2021/08/23
    “今も朝日新聞は左寄りだが、戦前も左寄りであったことはあまり知られていない。ソ連スパイであった尾崎秀実や、風見章のような共産主義者が論説を書いていた新聞社だから、相当左翼であった”
  • 朝日新聞社が、戦前・戦中に刊行した本~~『植民地の再分割』『米国への判決』『陸軍』

    著作権保護期間終了しても多くの書籍が国会図書館でネット非公開 一昔前の大手新聞社は世界各地に特派員を送り込んで様々な情報を集め、今よりもはるかに質の高い記事を載せていた。屋には、大手新聞社が発行した国際情勢や時事問題に関する解説書が平台に並び、毎月数多くのが出版されていたのだが、今ではすっかりその勢いを失い、情報の質の低下は否めず、読者離れが止まらない。しかしながらかつての新聞は最大の情報源であり、読者の信頼も強く、出版物もよく売れていた。 戦前・戦中の朝日新聞社が出版した書物は膨大であり、歴史に関わる書物に限定しても結構な点数になる。新聞社の中では朝日新聞の刊行書籍が最も多くGHQによって焚書処分されたのだが、焚書処分を受けなかった書籍についてもその多くが未だにネット公開されていない。 国立国会図書館のルールでは、デジタル化された書物は、著作権保護期間が終了すれば「国立国会図書館デジ

    朝日新聞社が、戦前・戦中に刊行した本~~『植民地の再分割』『米国への判決』『陸軍』
  • 朝日新聞が号泣…全国紙の「1945年8月15日」を読み比べてみた(辻田 真佐憲) @gendai_biz

    泣きまくる朝日新聞、涙で「天皇陛下……」と絶叫 終戦の日、1945年8月15日。 朝日、毎日、読売、日経、産経の5紙はこの日をどのように報道したのか。すべて同じと思いきや、比較すると意外にもその差異が浮かび上がってくる。 まずは、朝日新聞からみてみよう。 この日の朝日は、とにかく泣きまくる。社説も「一億相哭(そうこく)の秋(とき)」。「相哭」は「みんなで泣く」という意味だ。その名のとおり、天皇も、臣民も、涙、涙の様相である。 「誰か涙なきを得るものぞ」「言々句々、御血涙の結晶」「この度の大詔を拝しては、必ずや哭(な)かずにゐられないであらう」「相懐いて哭するの情に堪へない」「君国の直面する新事態について同胞相哭」。 2面の記事もタイトルで泣いている。「玉砂利を握りしめつゝ宮城を拝したゞ涙」。しかも、その内容は社説よりすさまじい。 書いた記者は、正午の玉音放送にあわせて、宮城(皇居)前広場に

    朝日新聞が号泣…全国紙の「1945年8月15日」を読み比べてみた(辻田 真佐憲) @gendai_biz
  • 坂本衛 テレビ放送 地上デジタル放送 BSデジタル CSデジタル本当の話|すべてを疑え!! MAMO's Site

    放送を中心に取材・執筆を重ね、 専門誌「放送批評」「GALAC」 編集長も務めた坂衛の「すべてを疑え!! MAMO's Site」。最大の影響力を持ちながら、放送自らはもちろん新聞・雑誌も報じない テレビや放送局の実情や音、地上デジタル放送・BSデジタル・CSデジタルの真の姿 を伝えます。最大限に活用しメディア・リテラシーを高めてください。 2015-12-15 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 日2015年12月15日「放送法の誤った解釈を正し、言論・ 表現の自由を守る」ことを呼びかける記者会見を開きます。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ★★★新聞社・雑誌出版・テレビ/ラジオ放送局、ネットメディアなど言論・表現の自由に関心をお持ちのみなさんに、広く取材・報道していただきたくお願いいたします。★★★ 記 ◆日時:2015年12

  • コズミック・フロント「クレオパトラが残した 古代エジプト天文学」を視てみた…が…。

    先日放映されたこれ。 http://www.nhk.or.jp/space/cfn/150416.html エジプトものだしとりあえず見とくかー、と見たものの、途中で寝かかってしまうという大惨事。 …うーん。時間のわりに情報量が少ないわ、途中に関係ないシーンが入るわで、テンポがむちゃくちゃ悪い。そして必要な情報は入っていない。 そもそものツッコミなのだが、メインとなっている、ルーブルにあるこの天体図、「クレオパトラの天体図」なんて名前で呼ばれるのを見たことが無い。一般的には「デンデラの天体図(Dendera zodiac)」と呼ばれる。視聴者ウケをよくするために、一般的でない名前を作り出したのだろうか。 だが、番組の大前提となっている、「この天体図はエジプト最後の女王クレオパトラ7世が作らせたものだ」ということ自体が正しくない。 デンデラの神殿は、パーツごとに建てられた時代が違うのだ。神殿

    コズミック・フロント「クレオパトラが残した 古代エジプト天文学」を視てみた…が…。
  • 『そして、メディアは日本を戦争に導いた』:紙魚:So-netブログ

    ・「公益」「公の秩序」とは、いくらでも広げて解釈が可能である。要するに「権力者の利益」と同義であり、それに反するものは「認められない」すなわち罰せられる、弾圧されることになるのはもう明らか。そことことは昭和史にある歴史的事実が証明している。 ・最大の危機において日人は抽象的な観念論を好む。それを警戒せよ。すなわちリアリズムに徹せよ。 ・いまの人たちは知らなくて当然という顔で取材していますね。あれは、どうも恥ずかしいという感覚とは違うらしい。 ・事件を知らないと認めておいて、事件当事者の気持ちを尋ねる。これはどういうことだろうと考えると、気分が悪くなってきたんです。つまり、自分は何も知らないし何の関心もないので、上司か誰かに「聞いてこい」と言われた質問をそのまましているんですよ。 ・データマンが情報を集めてアンカーマンが二次加工して商品化するやり方ですね。 ・日露戦争戦争に協力したら部数

  • 白虹事件 - Wikipedia

    白虹事件(はっこうじけん)とは、大阪朝日新聞(現朝日新聞)が1918年に掲載した記事において発生した筆禍、あるいは政府当局による言論統制事件。 概要[編集] 当時、大阪朝日新聞は大正デモクラシーの先頭に立って言論活動を展開し、特にシベリア出兵や米騒動に関連して寺内正毅内閣を激しく批判していた。1918年8月25日、米騒動問題に関して関西新聞社通信大会が開かれ、各社から寺内内閣への批判が巻き起こった。 問題となったのは、大会を報じた翌8月26日付夕刊(25日発行)の記事だった。記事の一節に「卓に就いた来会者の人々は肉の味酒の香に落ち着くことができなかった。金甌無欠の誇りを持った我大日帝国は今や恐ろしい最後の裁判の日に近づいているのではなかろうか。『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆が黙々として肉叉を動かしている人々の頭に雷のように響く」とあり、文中の「白虹日を貫けり」という一句は、

  • zatsutama.net

  • 岩永裕吉 - Wikipedia

    岩永裕吉 岩永 裕吉(いわなが ゆうきち 、1883年(明治16年)9月13日 - 1939年(昭和14年)9月2日)は、日の通信事業経営者。 経歴[編集] 東京市神田区駿河台に内務省衛生局局長(勅任局長)長與專齋の四男(第6子)として出生する。7歳で母方の叔父に当たる岩永省一の養子となり、正則中学などを経て旧制第一高等学校を卒業する。1909年に京都帝国大学法科大学を卒業すると、内務省衛生局で父の部下だった後藤新平のコネで南満州鉄道株式会社に就職したが(1911年)[1]、1917年に鉄道院へ移り後藤総裁(寺内内閣内相と兼任)の秘書官、次いで同院参事・文書課長となる。翌年、寺内内閣が総辞職すると鉄道院を退官して渡米、さらに新渡戸稲造や鶴見祐輔らとヨーロッパを訪問する。 帰国後の1920年に個人事務所を開き、国際交流を目的とした「岩永通信」を発行し、翌年には通信社の「国際通信社」(国通)

    岩永裕吉 - Wikipedia
    gogatsu26
    gogatsu26 2013/04/22
    "財団法人「同盟通信社」を創設"
  • 16世紀の情報革命

    ANECDOTA  16世紀の情報革命 1517年10月31日、北ドイツの小都市ヴィッテンベルクで、神学教授ルターが『95ヶ条の論題』なる意見書を城教会の扉に打ちつけた。このことが、キリスト教世界をプロテスタント(新教)とカトリック(旧教)とに二分する宗教改革の口火を切ったことはよく知られている。 それにしても、宗教改革は不思議な歴史事件である。一介の修道士にすぎないルターが、なぜカトリック教会と皇帝カール5世の連合という巨大な敵に挑戦できたのか。そして、千年もの間あらゆる異端を葬り去ってきたカトリック教会が、なぜプロテスタントを抹殺できなかったのか…。 この疑問にはもちろん、いくつもの答えが用意されている。カトリック教会の腐敗と権威の低下、新興市民層のニーズに合ったプロテスタントの教義、教会権力に対する世俗権力の反発、オスマン帝国の進出やフランス対ハプスブルク家といった国際情勢…。しか

    gogatsu26
    gogatsu26 2012/01/19
    "一介の修道士にすぎないルターが、なぜカトリック教会と皇帝カール5世の連合という巨大な敵に挑戦できたのか。"
  • VIDEO NEWS正力松太郎はなぜ日本に原発を持ち込んだのか »

    正力松太郎はなぜ日に原発を持ち込んだのか 有馬哲夫氏(早稲田大学社会科学部教授) マル激トーク・オン・ディマンド 第532回 「原発の父」と呼ばれる正力松太郎は、独占的な通信網欲しさから原発を日に持ち込み、田中角栄は利権目的で原発を利用した。こうして日の原発は、その来の目的とは乖離した、いわば不純な動機によって増殖を続け、そしていつしかそれは誰も止めることができないものとなっていた。 正力松太郎に詳しい早稲田大学の有馬哲夫教授によると、読売新聞の社長で日初の民間放送局日テレビの社長でもあった正力の真の野望は、マイクロ波通信網と呼ばれる国内通信網の実現だった。これを手にすれば、当時将来有望な市場と目されていた放送・通信事業のインフラを自らの手中に収めることができる。正力はそのための資金としてアメリカからの1000万ドルの借款、それに対する日政府の承認、そして通信事業に参入するた

    VIDEO NEWS正力松太郎はなぜ日本に原発を持ち込んだのか »
  • NHKスペシャルが本気を出しすぎていてもう何も恐くない

    NHKスペシャル(土曜夜10時 日曜夜9時) @nhk_n_sp 【今夜放送!NHKスペシャル】大型シリーズ「日人はなぜ戦争へと向かったのか」の第3回「"熱狂”はこうして作られた」政策の決定に大きな影響を与えた「世論」の実体に迫る。今夜9時00分~9時49分。総合テレビ! 2011-02-27 11:15:01 NHKスペシャル(土曜夜10時 日曜夜9時) @nhk_n_sp 【まもなく放送!】NHKスペシャル大型シリーズ「日人はなぜ戦争へと向かったのか」の第3回「"熱狂”はこうして作られた」今夜9時。総合テレビへ! 2011-02-27 20:50:01

    NHKスペシャルが本気を出しすぎていてもう何も恐くない
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