J―オイルミルズは9日、家庭用マーガリン「ラーマ」の製造、販売を来年3月末の出荷を最後に終えると発表した。1966年の発売から続いた57年の歴史が幕を閉じる。家庭でのマーガリン使用量が少なくなったことや、製造する静岡事業所(静岡市)の設備の老朽化などを踏まえた。 製造、販売を終えるのは「ラーマ バターの風味300g」と「ラーマ ベーシック350g」で、家庭用マーガリン事業から撤退する。J―オイルミルズによると、家庭用マーガリン市場は20年前と比べ半減し、ラーマのシェアは約10%だった。
J―オイルミルズは9日、家庭用マーガリン「ラーマ」の製造、販売を来年3月末の出荷を最後に終えると発表した。1966年の発売から続いた57年の歴史が幕を閉じる。家庭でのマーガリン使用量が少なくなったことや、製造する静岡事業所(静岡市)の設備の老朽化などを踏まえた。 製造、販売を終えるのは「ラーマ バターの風味300g」と「ラーマ ベーシック350g」で、家庭用マーガリン事業から撤退する。J―オイルミルズによると、家庭用マーガリン市場は20年前と比べ半減し、ラーマのシェアは約10%だった。
神奈川県鎌倉市が2018年の憲法記念日に開いた講演会で、公募で選ばれた市民でつくる実行委員会が提案した憲法学者の木村草太東京都立大教授(当時は首都大学東京教授)の講師起用を、「政治的だ」という理由で市側が拒否していたことが、分かった。識者は「市民の活発な議論を下支えすることは行政の中立性を損なわない。鎌倉市の判断は民主主義に逆行している」と指摘している。(石原真樹) この講演会は「憲法記念日のつどい」。17年までは市と実行委の主催だったが、18年から主催は市で、実行委が企画・運営。市側が作成した議事録によると、実行委は17年12月に講師の選定を始め、木村教授を含む3人を候補に挙げた。ところが翌年1月の会議で市の担当者が「政治的要素が見られる」と難色を示した。委員は「全く政治性のないことはありえない」と反論し、あらためて木村教授を1番目の候補者として5人を提案した。
森喜朗元首相は26日夜、東京都内で開かれた河村建夫元官房長官のパーティーで、衆院議員会館の河村氏事務所にいるベテラン女性秘書に触れ「河村さんの部屋に大変なおばちゃんがいる。女性と言うには、あまりにもお年だ」と述べた。女性蔑視発言で東京五輪・パラリンピック組織委員会会長を2月に辞めたばかりで、批判が集まりそうだ。 森氏は女性秘書に関し、河村氏よりも古くから議員会館で働いていると紹介。「私が河村さんの所を通ると、その女性が外を見ていて『森さん、ちょっといらっしゃい』と呼ばれて、ああだこうだといろいろご注意を頂いた」とも言及した。 森氏は2月、日本オリンピック委員会(JOC)臨時評議員会で「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と発言した。その後撤回したが、国内外の非難がやまず、組織委会長を辞任。後任に橋本聖子前五輪相が選出された。(共同)
首相は8日の衆院予算委員会で、森氏を巡り「私が進退を問題視すべきではない。組織委の中で決定してもらう」と話し、野党が森氏に辞任を促すよう求めたのに対し、自身は無関係であることを強調した。 首相は組織委の顧問会議議長でもあり、組織委の定款では、顧問会議は法人の運営に助言できる。加藤勝信官房長官は同日の記者会見で、首相が森氏の進退について助言する可能性を問われ「(組織委が)自ら判断すべきだ」と答えた。 日本学術会議の会員任命に関し、政府は過去の国会答弁で首相の任命を「形式的」と説明し、2004年に「首相が任命を拒否することは想定されていない」との内部資料をまとめた。それでも、首相は昨年、会議側が推薦した候補のうち6人の任命を拒否。拒否理由は語らず、自らの判断であることを強調し続けた。
日本各地の埋もれた民謡を見つけてはクラブで披露しているDJ二人組「俚謡(りよう)山脈」が、NHKFMで「民謡沼めぐり」と銘打った異色番組のパーソナリティーを務めている。放送では、二人が収集したレコードやCDなどの貴重な音源から「カッケー(かっこいい)曲」を厳選して紹介。不定期の早朝番組にもかかわらず、愛好者や二人のファンが“俚謡沼”にハマッているという。 七月中旬に行われた収録は「海外向けに作られたレコードの民謡」を特集。佐藤雄彦=写真(右)=と斉藤匠=同(左)=の「俚謡山脈」の二人は、千葉県の「麦打(むぎうち)唄」(一九四一年)、新潟県の「SADO OKESA=佐渡おけさ」(五九年)、東京都の「千束麦打ち唄」(八〇年、歌唱は米国人のデイビッド・ヒューズ)など、希少な楽曲をずらりそろえた。二人は「『和』や古い日本を伝えようとかお勉強とかの意図は全くない」と強調。かっこいいか楽しいか、選曲の
新型コロナウイルスの感染拡大は、エンターテインメント界にもかつてない危機をもたらしている。好調だったライブが中止に追い込まれ、テレビ番組の制作は中断、新作映画も公開できない状況が続く。しかし、大手芸能事務所「ホリプロ」の堀義貴社長は電話インタビューに、業界団体のリーダーでもある立場から、厳しい環境にある今こそ「エンタメの意義」を強調する。 (原田晋也) 「カタストロフだ」。堀社長は、エンタメ界が置かれた苦境をこう表現した。演劇など物語の世界で「悲劇的な結末、破局」を意味する用語は、通常「大災害、大変動」と訳す。 政府が大規模なイベントなどの中止や延期を呼び掛けたのは二月二十六日。当初は「今後二週間」と期限付きだったが、日に日に事態は深刻となり、延び続けている。この間、タレントやスタッフは再開を期して準備を続けざるを得ず、一カ月稽古したが開演できなかった舞台もあったという。「経済的にももちろ
昨年末に放送された「NHK紅白歌合戦」で、一九八九年に死去した美空ひばりの「新曲」が披露された。これはヤマハの専門スタッフがAI(人工知能)の技術によって美空ひばりの歌声を復活させ、秋元康が作詞を担当することで実現した。曲名は「あれから」。歌の間には「お久しぶりです。あなたのことをずっと見ていましたよ。頑張りましたね。さあ 私の分まで、まだまだ頑張って」という語りが挿入されている。 この曲が完成するまでの過程は、二〇一九年九月二十九日のNHKスペシャル「AIでよみがえる美空ひばり」で紹介された。放送後、感動したという声とともに、死者を冒とくしているとの批判も湧き上がった。 武田砂鉄は「AI美空ひばりへの違和感」(cakes、2020年1月8日)の中で、「感動させる目的で死者に新しい言葉を与えてはいけない」と批判する。「カリスマ的な故人に、誰かにとって好都合な言葉を新たに獲得させ、その言葉に
日本各地に埋もれている民謡を掘り起こし、クラブで披露しているDJ2人組がいる。彼らの名は「俚謡(りよう)山脈」。地域に残る素朴な音源を求め、そこに若い世代が共鳴して踊れるリズムやグルーブ(音楽に乗った状態)を見いだす。監修したCDは欧米にも輸出され、注目されているという。愛好者の減少が続く民謡だが、都会のクラブでダンスミュージックとして新たな輝きを放っている。 (藤浪繁雄) 「ヤッベー」「カッケー」。東京・歌舞伎町のクラブ「BE‐WAVE」で、俚謡山脈の佐藤雄彦(たけひこ)(41)と斉藤匠(たくみ)(37)が埼玉県深谷市に伝わる盆踊り曲「境(さかい)石投げ踊り」のレコードをターンテーブルにかけると、会場から歓声が起こった。ヒップホップやテクノ調の音楽と組み合わせる一般的なDJテクニックには頼らず、あくまで土着のにおいのする曲だけで勝負。「アレンジなどいらない。これで踊ってくれ」。2人の思い
市長選告示前の集会で民進の真山勇一参院議員(右)と握手する伊藤大貴さん。共産の小池晃参院議員(左)に手をつなごうと誘われたが、拒んだ=中区で 横浜市長選で現職の林文子さん(71)はなぜ圧勝したのか。国政で自民への逆風が強まる中、横浜では民進が林さんを応援するか否かで分裂。与野党対決にならなかったことも一因だ。争点を隠す戦略や野党勢力の結集を図る思惑が交錯し、結果的に対決の構図を曖昧にした。 (志村彰太) 「カジノで前向きな発言はするな。選挙で負けるぞ」。カジノに反対する世論が強まった昨年末、市議会定例会が終わった席で、民進のベテラン市議が市長の林さんに忠告した。十二月議会で林さんは、カジノを含む統合型リゾート(IR)の導入について「横浜の成長のために必要」と答弁していたためだ。
セブン-イレブンが一部地域で発売した「セブンカフェ アイスカフェラテ」が、「正確にはカフェオレなのでは」と、利用者の間で議論を呼んでいる。コーヒーを入れる専門家でつくる日本バリスタ協会がカフェラテと呼ぶのは「エスプレッソと牛乳を混ぜた飲み物」。しかし、セブンは店舗にエスプレッソの抽出機がなく、ドリップコーヒーと牛乳を混ぜる「カフェオレ」の製法でつくっているからだ。コンビニで過熱するコーヒー競争は、細かい製法やネーミングにも広がっている。 (白山泉) カフェラテはイタリアのカフェ発祥の飲み物。日本ではスターバックスの進出などとともに普及し、女性を中心におしゃれな飲み物というイメージが広がった。一方、カフェオレは十七世紀ごろからフランスで飲まれてきたドリップコーヒーと牛乳を混ぜた飲料だ。 コンビニでカフェラテの販売が始まったのは二〇一一年以降。ローソンとファミリーマートがエスプレッソ式のコーヒ
シンボル的存在だった開閉式屋根の建設を先送りするなど、新国立競技場の建設計画が見直されることになった。十月の着工予定まで五カ月を切った土壇場での軌道修正は、計画にいまだに問題が山積していることを物語る。(森本智之)
太平洋戦争中、高級品だったイチゴが不要作物とされ、栽培が制限されたという歴史を知る人は意外に少ない。全国有数の生産量を誇る栃木県の元職員の男性が今春、こうした経緯を自ら調べ、一冊の本にまとめた。十三年間かけて、県内各地で八十人以上から証言を得た。イチゴを育てただけで弾圧されたという信じ難い出来事が、戦後七十年の今、戦争の愚かさを伝える。 (大野暢子) 栃木県都賀(つが)町(現栃木市)の男性は、戦前から戦中にかけ、観光イチゴ園を営んだ父親の記憶を語ってくれた。約百四十アールで露地栽培し、春から初夏にかけての収穫期は、入場料三十銭で園を開放。電車の中に園のポスターを張るなど、東京向けの宣伝にも力を入れ、一日に最大約三百人が訪れた。 しかし、太平洋戦争が激しくなると、食糧増産のため、行政がコメや麦の生産を奨励するようになった。男性の父親は、県の役人に「(イチゴの苗を)即刻抜いて、麦を育てろ」と非
国立天文台は二日付の官報で、二〇一六年の春分の日を三月二十日、秋分の日を九月二十二日とする暦要項を発表した。 春分の日と秋分の日は、国立天文台が太陽の位置を計算し決める。秋分の日は九月二十三日が多く、二十二日となるのは一二年以来で、それより前は一八九六年だった。
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