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「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』が『優婆塞戒経』の利用その他の面で似ている点が多く、同じ人物によって書かれたらしいことは、私が以前指摘しました(こちら)。 今回は、タイトルにあるように、『日本書紀』中で「憲法十七条」だけが、それも重要な箇所で2度用いている語法が、実は三経義疏すべてに見えることを指摘した画期的な論文が刊行されました。 岡田高志「「憲法十七條」の表現と思索-前漢~六朝の「詔書」・諸典籍との比較を通して」 (『古事記年報』第66号、2024年3月) です。この発見は、数年前に古事記学会の研究会での発表で報告されたため、その論文化が期待されていたものです。私が昨年から『憲法十七条を読む』の原稿を書いておりながら、それが進んでいなかったのは、この論文が出るのを待っていたため、というのも一因です。 その発表の後、私がリモートでやっていた『勝鬘経義疏』の読書会にも参加してくれた岡田さんは
このブログでは、聖徳太子に関する諸分野の最新の研究成果を紹介するとともに、大山誠一の聖徳太子虚構説を詳細にわたって批判したうえ、法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮めるための寺と論じた梅原猛(こちら)、ノストラダムスの大予言シリーズで人気になって聖徳太子をその類の予言者とした五島勉(こちら)、日本をキリスト教国家にしようとした蘇我氏が邪魔な聖徳太子を暗殺したと妄想した田中英道の本(こちら)なども取り上げ、論評してきました。その類の「あぶない」聖徳太子論を取り上げて分析した面白い本が刊行されました。 オリオン・クラウタウ『隠された聖徳太子―近現代日本の偽史とオカルト文化』 (筑摩書店、ちくま新書1794、2024年5月) です(クラウタウさん、有り難うございます)。 クラウタウさんのこうした研究については、以前、このブログで論文を紹介したことがあります(こちら)。今回の本はその拡張版ですね。その時も今
このコーナーでは聖徳太子作とされる偽の『五憲法』とそれを含む偽作の『先代旧事本紀大成経』に関する学問的な研究、そして『五憲法』や『大成経』を利用した強引な国家主義・道徳主義の押しつけやトンデモ説をともに紹介していきます。 8月27日に東洋大学で『大成経』研究集会が開催され、私を含む内外の研究者が発表し、討議をおこないました。江戸時代の偽作である『先代旧事本紀大成経』について、こうした研究会が開かれたのは、これが初めでしょう。 江戸中期に山王一実神道や修験道系の思想と『大成経』の影響を受け、独自の説を形成した天台僧、乗因について論じた『徳川時代の異端的宗教 : 戸隠山別当乗因の挑戦と挫折』(岩田書院、 2018年)を著すなど、『大成経』関連の研究を進め、この研究集会を組織した東北大の曽根原理さんの共編で刊行されたのが、 岸本覚・曽根原理編『書物の時代の宗教ー日本近世における神と仏の変遷』【ア
中国の中華意識は有名ですが、実は、中国北地の北方遊牧民族国家や中国周辺の国家の中にも、中華意識を持っていた国はいくつもあります。そうした国々と比較しつつ、倭国について検討したのが、 川本芳昭「《日本側》七世紀の東アジア国際秩序の創成」 (北岡伸一・歩 平編『「日中歴史共同研究」報告書 第1巻 古代・中近世史篇』、勉誠出版、2014年) です。日本・中国・韓国は、歴史観の違いによってこれまでいろいろな問題が起きてきましたが、この本は書名が示すように、日本と中国の学者が協議してそれぞれの視点を示し、ともに認めることができる事実を明らかにしようとした試みの一つです。川本氏は、外交面などに注意している東洋史学者です。 川本氏のこの論文の次には、王小甫「《中国側》七世紀の東アジアの国際秩序の創成」が掲載されています。このように、諸国の研究者がそれぞれの視点で意見を出し合い、協議していくことが大事です
前回、日中を比較して「朝政」の検討をした馬豪さんの論文を紹介しましたので、同様に中国人研究者による日中比較の論文を紹介しておきます。 官文娜「日本古代社会における王位継承と血縁集団の構造-中国との比較において-」 (『国際日本文化研究センター紀要』28号、2004年1月) です。20年前の論文ですが、この方面の論文は以後、あまり見かけないため、取り上げることにしました。 官氏は、冒頭で「日本古代社会には有力豪族による大王推戴の伝統がある」と断言し、大伴氏・物部氏・蘇我氏・藤原氏らは次々に王位継承の争いに巻き込まれ、その勢力は関係深い王の交代によって増大したり衰えたりしたことに注意します。 そして、6~8世紀には、王位継承をめぐる豪族同士の争いにおいて非業の死をとげた皇族が10数人以上におよぶのに対し、古代の中国では、王位をめぐる争いは常に統治集団内部の権力闘争だったと官氏は述べます。 中国
葛西太一さん、瀬間正之さん、森博達さんと、『日本書紀』の語法に関する論文が続きましたが、今回は私の番で、 石井公成「お説教でない仏教説話」 (『日本文学研究ジャーナル』第29号、2024年3月) です。「仏教説話」特集の冒頭のエッセイを依頼されたため、「ですます調」の気楽な感じで書いておきました。 仏教説話というと、仏教関連の興味深い話を紹介し、最後に教訓となるよううな言葉を述べるというのが通例です。ただ、仏教的な題材であっても、興味深いだけで最後に教訓が述べていない場合は、仏教説話と呼べるのか。 こうした点についていくつか例をあげて検討した後、取り上げたのが『日本書紀』の守屋合戦の記事です。この記事では、厩戸皇子と馬子が造寺を誓って誓願すると、敵を打ち破ることができたとし、合戦がおさまった後、「摂津の国に四天王寺を造る。大連の奴の半ばと宅とを分け、大寺の奴・田荘とす」と記し、馬子は飛鳥寺
前回の続きです。まずは被動句例、つまり受け身の語法から。漢訳経典では、通常の「為A所B(AのBする所となる=AによってBされる)」などの形とは異なる受け身形がしばしば用いられるだけでなく、動作主なしで「所~」という形だけで受け身を示すことがあります。梵語では受け身形が多いので。 森さんは、『日本書紀』に見えるそうした例をあげます。たとえば、巻21の「妣皇后所葬之陵」という部分は、普通の漢文であれば、「所」の前は動作主となるため、「妣皇后」、つまり亡き母である皇后が誰かを葬った陵という意味になるはずのところが、「妣皇后の葬られたまひし陵」と受け身になっているのです。この箇所はα群ですが、森さんは用明紀と崇峻紀から成る巻21には後人の加筆が多いことを指摘していました。 巻24では、蝦夷が国史を焼こうとした際の記事として、船史恵尺が「疾取所焼国記奉中大兄」とあり、「焼かるるる国記」となっています
久しぶりの森博達さんの力作の論考です。定年退職後、日本語と系統が近いトルコ語の勉強を始め、一昨年と昨年は、イスタンブールのトルコ語の学校に2ヶ月つづ通われた由。 凄いですね。私は、退職後はベトナム語の学校に通う予定でしたが、コロナ禍でのびのびになったままです。たくさん抱えている仕事を一段落させて、来年あたりから通ってしっかり学び、2010年に不出来なまま出してしまったベトナム仏教史の概説を書き直したいものですが。 さて、その森さんが、『日本書紀』に見える仏教漢文の語法に関する画期的な論文を発表されました(有難うございます)。森さんには、2012年から4年間、私が代表となり、科研費研究「古代東アジア諸国の仏教系変格漢文に関する基礎的研究」にご瀬間さんとともに参加いただきました。 日本からは森博達・金文京・瀬間正之・奥野光賢・師茂樹、中国からは董志翹・馬 駿、韓国からは鄭在永・崔鈆植などの諸先
7月9日に早稲田大学で開催される聖徳太子シンポジウム(こちら)では、太子の事績を疑った津田左右吉の誤りと慧眼について語る予定です。 それはともかく、津田左右吉を不敬罪で告発した連中については、論文を何本か書きましたが(最初の論文は、こちら)、考えてみたら、私が監修した論文集でも、売れっ子の中島岳志さんがこの問題を論じており、紹介していないままでした。 中島岳志「『原理日本』と聖徳太子ー井上右近・黒上正一郎・蓑田胸喜を中心としてー」 (石井公成監修、近藤俊太郎・名和達宣編『近代の仏教思想と日本主義』、法藏館、2020年) です。 中島さんは、『親鸞と日本主義』(新潮社、2017年)で、親鸞崇拝の超国家主義者が登場したのは、親鸞の思想自体にそうした主張を生み出す余地があったからだと論じて衝撃を与えました。その影響は極めて大きく、上記の論文集のうちの多くの論文が、この本に触れています。新たな視点
少し前に瀬間正之さんと葛西太一さんの論文が掲載された『日本書紀』の論文集を紹介しました(こちら)。その瀬間さんの新著が3月1日に刊行されました(瀬間さん、有難うございます)。 瀬間正之『上代漢字文化の受容と変容』(花鳥社、2024年) です。この3月で上智大学を定年退職するにあたり、最近の論文をまとめたものである由。構成は以下の通り(詳しい目次は、花鳥社のサイトにあります。こちら)。 初出及び関連論文 序に代えて はじめに——上代という特殊性—— 第一篇 表記と神話——東アジアの文学世界—— 第一章 高句麗・百済・新羅・倭における漢字文化受容 第二章 〈百済=倭〉漢字文化圏——音仮字表記を中心に—— 第三章 『古事記』の接続詞「尒」はどこから来たか 第四章 上代日本敬語表記の諸相——「見」「賜」「奉仕」「仕奉」—— 第五章 文字言語から観た中央と地方——大宝令以前—— 第六章 漢字が変えた
このところ、聖徳太子に関わる論文を含めた古代史の本が続いて刊行されていますが、面白いのは、以下の2冊が偶然ながらともに2月26日に出版され、同じ日に献本が届いたことです。 一つは、山下洋平さんの『日本古代国家の喪礼受容と王権』(汲古書院、2024年)です。山下さん、有難うございます。「憲法十七条」における『管子』の影響を論じた山下さんのすぐれた論文は、このブログでも紹介しましたが(こちら)、その論文も収録されています。最近、考古学の発見が続いているだけに、古墳や墓の変化と中国から受容した喪礼がどう関わるかは重要な問題ですね。 もう一冊は、『日本書紀』の編纂について語法の面で論じた論文集であって、このブログで取り上げた上智大学国文学科の瀬間正之さん(こちら)と葛西太一さん(こちら)の論文が収録された、小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝来』(雄山閣、2024年)です。瀬間さん、葛西さん
現在、「憲法十七条」の本を執筆中ですが、悩むのは訓読をどうするかです。平安時代の古訓を載せるのか、国語学者の協力を得てさらに考察し、より古い形を復元するよう努めるのか、太子当時の訓み方を示すのは諦め、現代の普通の形の訓読にするのか。 その点、参考になるのが、2021年に刊行された神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀』上巻(講談社)です。この本は原文と現代語訳はのせていますが、工夫された訓読は付されていません。そうなった理由を述べたのが、共著者の一人による、 福田武史「『日本書紀』の訓読がもたらしたもの」 (『和漢比較文学』第71号、2023年8月) です。 福田氏は、『新釈全訳日本書紀』の解説では、では、中国人のように読むことを主張した吉川幸次郎が、『尚書正義』では従来の漢文訓読法に執着する必要はないとし、原文と現代語訳だけにしたことにならったと、と記してある
アメリカの大富豪であるニコラス・バーグルエンの財団は、美術コレクションや文化財保護その他の多彩な活動をしていますが、そのうちのバーグルエン研究所は、政治・社会面の対立が続く21世紀の状況の改善に役立つような新たな哲学を摸索しており、哲学におけるノーベル賞となるべくバーグルエン哲学・文化賞を創設し、毎年、「人間の自己理解の形成と進歩」に貢献した思想家に授賞しています。 評論家の柄谷行人がアジア人初の受賞者に選ばれ、2023年4月に表彰されて賞金100万ドルを得たことで話題になりましたね。 このバーグルエン研究所は、東西交流による思想の発展をめざしているため、中国の大学などに拠点を置いて大がかりなシンポジウムを開催し、論文集を刊行しています。このところ力を入れているテーマが「共生」の問題です。 その研究活動の一環として、昨年12月に中国の北京大学で「共生」シンポジウムを開催する予定でしたが、い
聖徳太子は蘇我氏を代表とする有力氏族の横暴を押さえるために「憲法十七条」を制定した、といった説明が現在でも良く見られますが、こうした図式は近代になって生まれたものです。 つまり、江戸時代の儒者や国学者たちが、聖徳太子は崇峻天皇を暗殺した逆臣である蘇我馬子をとがめず、ともに政治をおこなった、いや太子こそが元凶だ、などと非難したため、天皇の権威を強調するようになった明治以後、太子を弁護しようとする者たちは、「いや、太子は馬子などの横暴を押さえ、皇室の権威を確立しようとしたのだ」と主張したのです。 実際は、太子は父方・母方ともに蘇我氏の血を引く最初の天皇候補者であったうえ、馬子の娘を妃とし、その間に生まれた山背大兄を後継ぎにしていたのであって、大叔父かつ義父である馬子によって太子道の建設や斑鳩寺の建立などの支援がなされていました。 太子擁護派は、皇室をないがしろにする氏族の横暴を押さえようとした
「<聖徳太子>はいなかった」という大山説が学界でまったく相手にされなくなって10年以上たちますが、面白いものを入手しました。 大山誠一『創作された聖徳太子像と蘇我馬子の王権』 (CD2枚組:アートデイズ、2011年) こんな講演CDが出ていたとは知りませんでした。聞いてみたら、聖徳太子に関する資料は後代に捏造されたものばかりだが、学問というのは「真実を追求するもの」であるため、「嘘を積み重ねてもですね、学問にはならないのですよ」と言いながら、嘘をいくつも語っていました。 ある文献を610年頃と見るか、630年頃と見るか、650年頃と見るかというのは意見の違いであって、いろいろな説がありえます。ただ、一人だけ720年頃と主張する人がいたら、かなり強引な説ということになりますが、まったくあり得ないわけではありません。 しかし、文献に書いてないこと、それも学界の常識と異なることを「この文献は~と
『法華義疏』については、奈良国立博物館、ついで東京国立博物館で開催された「聖徳太子と法隆寺」特別展(こちら)で一部が展示されていました。九州国立博物館開催の「皇室の名宝ー 皇室と九州をむすぶ美ー 」でも展示された由。 聖徳太子の真筆とされているのですが、このブログでは、2月に「『法華義疏』の画像データベースによると重要な訂正部分は別人の筆跡:飯島広子氏の博士論文」(こちら)という記事を掲載しました。題名どおりの内容であって、20年以上前の博士論文ですが、刊行されておらず、学界で注目されていないため、敢えてとりあげた次第です。 その記事では、飯島氏の研究を高く評価しつつ、先行論文であって、しかも44頁もある力作、 中島壌治「「法華義疏」筆者試考」 (『国学院大学紀要』第20号、1982年3月) を参照していないことを問題点としてあげました。そして、中島氏の論文を近く紹介すると書いてしめくくっ
古都飛鳥保存財団では、創設40周年を記念して「飛鳥学冠位叙任試験」を始め、これまで10回続いてきた由(こちら)。その問題を作成してきた研究者たちが、飛鳥に関する最新の研究成果をまとめた本が出てます。 今尾文昭編・飛鳥学冠位叙任試験問題作成委員会『飛鳥への招待』 (中央公論新社、2021年) です。著者は、橿原考古学研究所調査課長を務めた編者の今尾文昭氏ほか、考古学系の人が多いですが、古代史・『万葉集』・民俗学などの研究者も含まれています。 前半は、一つの項目を3頁程度で写真入りでわかりやすく説明した辞典のようなもので、後半に相原嘉之・石橋茂登・井上さやか・岡林孝作・今尾文昭氏による「座談会 古都飛鳥の百年 これからの飛鳥」が収録されています。 聖徳太子関連の項目を見ると、「明らかになってきた聖徳太子の実像」(西本昌弘)では、聖徳太子架空説や『勝鬘経義疏』遣隋使将来説などに触れた後、『日本書
このブログは、「聖徳太子研究の最前線」という名ですので、この10年以内、できればこの数年内の論文や研究書を紹介するようにしてきましたが、それらについてコメントしていると、かなり前の研究が問題になることもあります。その一例が、 森田悌『天皇号と須弥山』「一 天皇号と須弥山」 (高科書店、1999年) ですね。森田氏のこの説については、これまで何度か言及したことがあるものの、20数年前の論文であるため、詳しく紹介してませんでしたが、前々回の記事で須弥山と天皇の関係に触れましたし、天皇号の問題は以後も未確定のままですので、ここで紹介しておきます。 森田氏は、天皇以前の倭王の称号としては「大王」とされることが多いが、大王は皇族中の有力な人に対しても用いられているため、「治天下」という語と結びつけられることによって倭王の立場を示すとします。そして、前後の文脈からそれが分かる場合は、「治天下」の語が省
森博達さんの区分論と加筆の指摘は、『日本書紀』研究に圧倒的な影響を与えました。私が三経義疏の変格漢文研究などを始めたのもその影響です。 ただ、同じ巻の中でも天皇によって記述の形が違う場合があるのが気になっており、基づいた史料の違いかと思っていたのですが、この点についてクラスター分析を用いて検討した研究が出ています。 松田信彦『『日本書紀』編纂の研究』「第四部第二章 日本書紀「区分論」の新たな展開-多変量解析(クラスター分析)を用いて-」 (おうふう、2017年) です。 松田氏は、「序 研究史と問題点の整理」において、これまでの区分論は、別伝注記の用語、分注の偏在、歌謡表記に用いられた仮名、様々な用語、多義性のある漢字の用法、漢籍の出典、助動詞的な用字、などに注目して区分分けしてきたと述べます。 その結果、ほとんどの研究結果が、巻13(允恭・安康)と巻14(雄略)の間で区分の線を引くことで
私が長らくやめていた聖徳太子研究に復帰し、大山説批判に乗り出してまだ数年の頃、2011年に藝林会の第5回学術研究大会としておこなわれたシンポジウム「聖徳太子をめぐる諸問題」に参加しました。 このシンポジウムでは、所功氏の司会のもとで、武田佐知子、石井正敏、北康宏の諸氏と私が発表して相互討議をおこない、翌年、他の研究者が書いた聖徳太子関連論文とともに『藝林』第61巻2号に掲載されました(諸氏の論文の一覧は、こちら。私の論文は、こちら)。 その石井正敏氏は、温和な様子で文献を着実に検討しておられましたが、残念なことに2015年に亡くなってしまっため、知友が編纂して著作集を出しており、その中にこの時の発表に基づく論文が収録されています。 石井正敏『石井正敏著作集第一巻 古代の日本列島と東アジア』「『日本書紀』隋使裴世清の朝見記事について」 (勉誠出版、2017年) です。 『日本書紀』は編纂時の
現在、EAJS(ヨーロッパ日本学協会)の2023年大会のため、金沢みたいなベルギーの古都、ゲントに滞在中です。会場はゲント大学。19日に私が参加したパネルは、以下の通り。 Phil_13 A tradition of reinvention: Shōtoku Taishi in modern Japanese religious history Convenor: Orion Klautau (Tohoku University) Discussant: Makoto Hayashi (Aichigakuin University) Lokaal 0.3: Sat 19th Aug, 11:00-12:30 Modern commentaries on the apocryphal "five constitutions" of prince Shōtoku Kosei ISHII (Ko
蘇我氏が勃興する以前、最も強大であった豪族、物部氏については研究が進んできており、その代表例の一つが、 篠川賢『物部氏の研究【第二版】』 (吉川弘文館、2009年) です。この研究書は広範な時代を扱ってますが、ここでは「第三章 物部氏の盛衰」のうち、「第二節 物部氏の衰退」を紹介します。 まず、「1 物部守屋と蘇我馬子」では、敏達紀に見られる記事から検討を始めます。敏達元年四月是月条では、「物部弓削守屋大連」を元の通りに大連に任じたとあります。 その前の欽明朝では、当初の大連は物部尾輿でしたが、尾輿の名は崇仏論争の後、見えなくなります。このため、それ以後のどこかの時点で、守屋が大連を受け継いだことになります。尾輿と守屋については、後の文献では父子としますが、篠川氏は確定はできないと述べ、物部氏の長がこの家系に固定されていたと見ることもできないと説きます。 これは妥当な見解ですね。天皇にして
古代史家であって聖徳太子研究に力を入れていた新川登亀男氏が、今年の2月に亡くなりました。新川さんは、『上宮聖徳太子伝補闕記』の着実な文献研究でスタートしておりながら、福永光司先生が巻き起こした強引な道教ブーム(こちら)に飛びつき、「あれも道教、これも道教」と論じる軽率な日本史研究者の一人となるなったことが示すように、時々困ったこと書く場合があったものの(たとえば、こちら)、聖徳太子の受容を跡づけた『聖徳太子の歴史学』のような好著も出していました。 また、若い頃、大分大学など九州で勤務していたこともあってか、韓国との関係など、古代日本の海外交流についても取り組み、韓国の学者たちを招いた共同研究のプロジェクトを組織するなどしていたことも、功績の一つでしょう。 その新川さんが、開皇20年(600)の第一回目の遣隋使について検討し、特に倭王の名について論じたのが、 新川登亀男「倭の入隋使(第一回遣
昨秋、真宗大谷派の九州教学研究所でおこなった講義が刊行されました。 石井公成「近代の聖徳太子信仰と国家主義」 (『衆會』第28号、2023年6月) 10月19日と20日の2日にわたって講義した内容に手を入れたものですので、95頁もあります。奥付は6月30日刊行となっていますが、雑誌が届いたのは 本日です。 この講義では、まず、日本における仏教と神、仏教と国家主義の関係について概説しました。そのうえで、「憲法十七条」が「神」にも儒教の「孝」にも触れておらず、仏教のみ重視していることへの非難に対する弁解として、聖徳太子は儒教・仏教・神道を等しく尊重するよう命じて『五憲法』を作ったとされたことを紹介しました。 太子が編纂したという触れ込みで17世紀後半に登場した偽史、『大成経』のうちの「憲法本紀」という形で偽作され、『大成経』に先駆けて個別に出版されたのです。偽作者やその信奉者たちが、いかに太子
ベルギーのゲント大学で開催されるEAJS(ヨーロッパ日本学協会)大会が近づいてきました。そのうちの近代の聖徳太子パネルでオリオン・クラウタウさん、ユリア・ブレニナさんとともに発表・討議することは前に書きましたが、私が報告する『五憲法』、つまり、5部の偽作の「憲法十七条」を含む『先代旧事本紀大成経』の受容の歴史を調べば調べるほど、この偽作文献にだまされる人の多さにあきれざるを得ません。 中でも驚いたのは、江戸文化の研究家として名高い三田村鳶魚(1870-1952)が昭和10年代になって『大成経』にはまりこみ、その注釈を書いた徧無為、すなわち独自な神道家であった依田貞鎮(1681-1764)を尊崇して月命日ごとに墓参りに行っていたことです。 このことについては、徧無為研究に取り組んでいる野田政和氏が「三田村鳶魚 晩年の大成経研究と徧無為三部神道の信仰について」(『府中市郷土の森博物館紀要』第3
このところ、聖徳太子の周辺の人物に関する論文の紹介が続いてますが、今回は、 遠藤慶太「歴史叙述の中の『継体』」 (『史学雑誌』第129巻第10号、2020年) であって、継体天皇です。遠藤さんについては、以前、その『日本書紀の形成と諸資料』の紹介をしたことがあります(こちら)。 父の用明天皇や叔父の崇峻天皇、叔母の推古天皇ならともかく、祖父どころか曾祖父であって、聖徳太子とはかなり遠い存在であるわけですが、ご当人も大王家の血縁は薄かったうえ、大和の地の生まれでもなかったのですから、なおさらですね。 しかし、継体天皇の子である欽明天皇の子、敏達、用明、崇峻、推古が次々に天皇になったのであって、敏達以外はすべて欽明天皇と蘇我の稲目の娘たちの間に生まれており、天皇の家系が定まったのは、この継体天皇からとされているのですから、その意義は大きいですね。 しかも、継体は『日本書紀』で重要な位置づけにな
7月19日(水)に、NHKの歴史バラエティ番組、「歴史探偵」(22:00~22:45)で「聖徳太子 愛されるヒミツ」が放送されました。 私は亡き恩師の遺命によってテレビ出演はしませんので(ラジオはいくつか出てます)、これまで10を超える各局の聖徳太子番組に依頼されたものの出演はせず、監修したり情報提供したりするだけにとどめてきました(その一例が、BS松竹東急のこちら)。今回も、情報と資料の提供だけです。 番組は、聖徳太子が愛されてきた理由として、「文明開化の立役者」「世界最古の木造建築」「スーパーヒーロー伝説」をあげ、これらについて説明していきます。 冒頭で語られていた法隆寺の古谷正覚管長には、執事長時代から法隆寺の朝課で用いる冊子を送っていただいたり、講演に呼んで頂いたりしてしてます。景観について説明していた平田政彦氏の論文については、このブログでも何度か紹介しました(たとえば、こちら)
恒例となっている4月1日限定の特別記事では、蘇我馬子の「桃原」の墓と桃つながりらしい高桃塚古墳?を紹介しました(こちら)。 飛鳥の古墳については新たな発見が続いており、その最新成果を収めた明日香村教育委員会編『遺跡の発掘からみた飛鳥』が刊行されるはずでした。しかし、1年半くらい前に予約したのに、発売延期、延期が続き、いよいよ刊行されるはずの日程の直前になってまた「5月末に発売」という延期通知が来ました。狼少年もこんなに繰り返し「出るぞ、出るぞ」とは言ってなかったんじゃないか……。 それはともかく、古墳は重要なので、坂田原から桃原にかけての一帯の地の古墳について論じた最近の論文を紹介しましょう。 坪井恒彦「大王(倭国王)陵としての前方後円墳の終焉-敏達・用明朝の墳墓観変遷の背景-」 (『羽衣大学現代社会学部研究紀要』第6号、2017年) です。 前方後円墳が造られなくなることは、以前、取り上
「聖徳太子はいなかった」説は撃破されましたが、珍説奇説は以後もあとを絶ちません。また、戦前から戦中にかけて盛んだった国家主義的な聖徳太子礼賛は、今も根強く残っています。このため、「いなかった」説が消えると、今度は国家主義に基づく強引な聖徳太子論が流行する可能性があります。 少し前に紹介した田中英道氏の本もその一つですが(こちら)、あのような妄想だらけのトンデモ本と違い、生真面目に聖徳太子に取り組み、我が国体を守った偉大な英雄として賞賛しようとする人たちがいます。 この系統の人たちの中には、日本会議や自民党の右派や神社本庁などと結び着いて政治運動としての太子礼賛をやるタイプも見られますが、問題はその太子解釈が史実を無視していることであり、自らの国家主義を太子の事績に読み込もうとしがちなことです。 そうした人が日本を危険な方向に持っていきがちであることは、津田左右吉が強く警告したことであり(こ
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