Published 2022/01/02 16:01 (JST) Updated 2022/01/02 18:34 (JST) 【北京共同】中国で1989年に民主化運動が武力弾圧された天安門事件について、習近平国家主席が昨年11月の演説で、共産党と国家を守るための歴史的な英断だったと称賛していたことが分かった。米国と戦った朝鮮戦争と並ぶ国家的危機を切り抜けたと位置付けた。党の政治理論誌「求是」が1日伝えた。 演説は昨年11月に党が40年ぶりに「歴史決議」を採択した際に行った。習氏は80年代末から東欧や旧ソ連で社会主義体制が崩壊し「中国でも89年に深刻な政治風波(騒ぎ)が発生した」と天安門事件に言及。「党は断固とした措置で、党と国家の生死存亡がかかる闘争に打ち勝った」と述べた。
好評連載「恐竜大陸をゆく」。今回は「中国龍」(シノサウルス)という名前の恐竜についてご紹介します。名前からも想像できる通り、中国の恐竜研究の歴史のなかでは比較的はやい時期に発見された恐竜ですが、いまだに新発見が続いているホットな恐竜でもあるそうです。 恐竜の名前から見える愛国主義の時代 中国で見つかった恐竜には、名前に「Sino」(中華、中国)を冠している例が少なくない。いまざっと調べてみたところ、たとえば以下のようなものがあった。 シノサウロプテリクス(中華龍鳥:Sinosauropteryx) 獣脚類(コエルロサウルス類)、白亜紀前期、遼寧省で発見。 シノルニトサウルス(中華鳥龍:Sinornithosaurus) 獣脚類(コエルロサウルス類)、白亜紀前期、遼寧省で発見。 シノカリオプテリクス(中華麗羽龍:Sinocalliopteryx) 獣脚類(コエルロサウルス類)、白亜紀前期、遼
前回に書いたブログ parupuntenobu.hatenablog.jp のはてブに、kame710さんからこんなコメントがありました。 昔の中国はこんなにすばらしかったのに、今はあんまり尊敬できることなく、残念です。 文字からため息が聞こえてきそうなこの言葉、同じような声がいろんな所から聞こえます。 そう思ってしまうのもごもっとも。 だって私もそう思いますもん。中国のことを知れば知るほど、その思いは深くなります。 中国は、日本の歴史や文化形成に多大な影響を及ぼしてきました。いちいち書くまでもありません。 これは、いくら中国が嫌いな「嫌中派」でも認めざるを得ません。 明治時代までは、日本の教養人の条件は中国古典、つまり漢文に精通した者というのが絶対条件でした。 幕末~明治維新の洋学(蘭学)マスターたちも、教養の土台は漢籍なのです。 福沢諭吉しかり、夏目漱石しかり、西郷隆盛しかり。 それだ
国際政治経済のゲームのルールが変わりつつある。シェール革命により自国でエネルギーをまかなえるようになったアメリカは、中東の石油に依存する必要がなくなり、不安定化する中東情勢に介入しなくなった。 かつての世界の警察官が興味を失い、ますます混迷を極める現在の中東。一方で、資源の乏しい日本はそんな不安定な地域にエネルギーの大部分を依存しつづけている。アメリカによる中東地域の安定が保障されない今、日本は国家として戦略的にこのエネルギー問題に対処すべきである。 この絶妙なタイミングで、過去の日本のエネルギー問題を振り返る本書が発刊された。今や「エネルギー界の池上彰」と称されるエネルギー専門家によるエネルギー版 失敗の本質論である。太平洋戦争時、なぜ日本は石油を求めて戦争へと突入したのか。過去の失敗から学ぶべきことは多い。 太平洋戦争前後のエネルギー関連資料を読み漁った著者はこう語る。 太平洋戦争に突
国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産に中国の「南京大虐殺文書」が登録された問題で、「新しい歴史教科書をつくる会」(高池勝彦会長)は11日、2017年の記憶遺産登録を目指し、日中戦争の発端となった盧溝橋事件直後に200人以上の日本人が中国側に殺害された「通州事件」の資料をユネスコに申請すると発表した。 通州事件は1937年7月29日、北京東方の通州で日本人が中国人部隊に襲われた事件。申請する資料は、東京裁判に提出された証言や外務省の抗議声明などの公的文書のほか、当時の新聞の号外なども予定している。同会は「通州事件が忘れられている現状を意識的に変えなければならない。広く世界に知ってほしい」と訴えている。 記憶遺産の登録審査は2年に1度行われ、申請できるのは1国2件まで。ユネスコの国内委員会はすでに2017年の登録候補2件を公募の上で選定しており、それぞれ申請者である自治体などが来年3月に
歴史問題をテーマにしたシンポジウムに参加するため訪日を予定していた中国人12人について、日本政府が入国査証(ビザ)を発給しなかったことが26日、わかった。外務省は理由を明らかにしておらず、主催者側は「自由な議論を封じるもので、理解できない」と話している。 シンポは「戦争法の廃止を求め 侵略と植民地支配の歴史を直視し アジアに平和をつくる集い」(アジアと日本の連帯実行委員会主催)。27~29日、東京都内の3会場で開かれ、日本側の研究者らの報告や講演を受けて、韓国と中国の戦争被害者らが発言する予定だった。 主催者によると、中国からの招待者は、旧日本軍の731部隊による細菌戦の被害者遺族ら12人。26日に来日し、12月1日に帰国予定だった。身元保証人の一瀬敬一郎弁護士が国会議員の秘書を通じて外務省に連絡を取ったところ、25日夕に発給されないことがわかったという。一瀬弁護士は「遺族らはこれまで何度
例年のウチの学校の東北ツアーのため、8月22日に村を出て、一昨日8日に戻りました。17日間村を空けたわけですが、ツアーそのものは11泊12日です。今年は予算の問題もあって、昨年まで行っていた国境の町丹東をやめて、ハルビン→長春→撫順→瀋陽という、一直線コースで移動は楽でした。その上に「高鉄」という新幹線が開通しているので、瀋陽−ハルビン間がなんと、2時間というスピードです(しかし高い。2等で5000円くらいで、一般庶民は乗れない)。最初に行った頃は、どこまで走っても車窓に延々と拡がるトウモロコシ畑を眺めながら、「あぁこれが赤い夕陽の満州か…」などと、満鉄職員だった父を持つ私には、感無量の思いもあったのですが、もはや昔日の感慨などあっさり吹き飛ばす猛スピードです。 毎年ほぼ同じコースを巡って12年目ですから、改めてご紹介するようなところもないのですが、ただ、リニューアルなった「侵華日軍第七三
8月27日、海上自衛隊の新しいヘリコプター搭載護衛艦が、「かが」と命名されました。この「かが」は歴史ある艦名ですが、その知名度、武勲ゆえに中国から大きな反発を受ける可能性があります。 太平洋戦争開戦時、旧帝国海軍最大の航空母艦だった「加賀」 本日、2015年8月27日(木)の14時半頃、海上自衛隊のヘリコプター搭載護衛艦「かが」の進水式が、ジャパンマリンユナイテッド磯子工場(神奈川県横浜市)にてとり行われました。 「かが」は今年3月に就役したばかりの新鋭艦「いずも」の2番艦であり、「ひゅうが」「いせ」「いずも」に続き4隻目となる全通飛行甲板を有す、事実上の“ヘリコプター空母”です。今後「かが」はジャパンマリンユナイテッド内において、必要な設備や装備を搭載する艤装作業へと移行し、2017年の就役を目指します。 ジャパンマリンユナイテッドで建造中のヘリコプター搭載護衛艦「かが」(2015年1月
日本右翼機関紙のSAPIOです。 中国で抗日戦争を戦ったのは国民党軍 共産党は成果を横取り NEWS ポストセブン 8月19日(水)7時6分配信 今年の9月3日、中国共産党は北京で「戦争勝利70周年記念」の式典と軍事パレードを行う。しかし、そもそも中国共産党が日本に勝利したという話自体が嘘なのだ。1937年7月の盧溝橋事件を発端に始まった日中戦争は、中国国内の内戦に日本が干渉する形で始まった。 当時、中国では、日本が支援していた汪兆銘の南京国民政府と、蒋介石の国民党、毛沢東の共産党が三つ巴の内戦を繰り広げたが、すでに共産党軍は内戦で疲弊し弱体化していた。 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150819-00000006-pseven-cn どこから突っ込もうか悩むくらい酷い。 「1937年7月の盧溝橋事件を発端に始まった日中戦争は、中国国
袁世凱――現代中国の出発 (岩波新書) 作者: 岡本隆司出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2015/02/21メディア: 新書この商品を含むブログ (10件) を見る 中国近代史の研究が進むにつれて、「洋務(李鴻章ら)→変法(康有為ら)→革命(孫文ら)→反動(袁世凱)→軍閥支配→北伐と反共クーデタ―(蒋介石)」といった、中国政府の公式見解に近い、直線的な進歩史観は研究者の間では完全に過去のものになっている(ちなみにいまだにその理解から一歩も出ていない「研究者」によって堂々と出されたという意味で「おどろきの」本がこれ)。当然、そういった研究成果に基づく、各登場人物に関する評価も公式見解もしくは「通説」とは大きく異なることになる。が、通説の人物評価を覆しつつ、新たな評価を当時の中国社会の情勢と関連付けながらわかりやすく提示する作業というのはこれまでほとんどなされてこなかった。それには人並み
DOL特別レポート 内外の政治や経済、産業、社会問題に及ぶ幅広いテーマを斬新な視点で分析する、取材レポートおよび識者・専門家による特別寄稿。 バックナンバー一覧 2015年は第二次世界大戦が終結して70周年となる。戦争の記憶が薄れていくなか、若い世代は先の大戦とは一体何だったのか、どうして起こったか、ということを考える環境がなくなっている。そのため、戦争について認識は偏ったものとなっている。 日中関係において、日本はまだ中国に対する戦争を総括しきれていないこともあり、歴史認識が両国関係を発展させるうえで大きな問題となっている。過去の戦争の歴史をどうとらえるかは、日本が中国と付き合う上で大変重要なことである。 一方、中国は、習指導部発足後、党史と近現代史を重視する方向となり、9月3日の抗日戦争勝利記念日、12月13日の南京大虐殺記念日が設けられた。これは、日本の右傾化への牽制の意味もあるが、
最初の上海事変で日本軍の前に立ちふさがったのが十九路軍。ヘルメットではなく、竹の笠に墨で「十九路軍」と書いてある程度の、地方軍隊に近い組織なのだが、それでも第一次上海事変で日本軍と四つに組み合い、崩れることはなかった。 その装備も相当に貧弱。十九路軍は60師、61師、78師で編制されるが、1ヶ師には機関銃20-24、砲は6-10門、迫撃砲は10-20門しか保有していない。 完全装備状態となっても、軽機が1連(中隊)に3丁、重機が1営(大隊)に1門、軽迫が1団(連隊)に4門、砲は1師に砲兵1営4門、山砲1営4門しかない。通信手段は営以上に有線、無線は旅と師の間にしかない。 しかし、十九路軍はナショナリズムを武器に日本軍と戦った。なんだかんだ言って日本軍を2ヶ月以上拘束し、久留米の旅団長を戦死させている。また、中国人民も、日本軍に対して積極的なサボタージュをしている。日本軍にトラック運転手とし
終戦後も約4年にわたり中国での戦闘を強いられた元山西省残留日本兵・稲葉績(いさお)さん(89)=さいたま市=の証言集会が9日、川崎市幸区で開かれた。残留命令を受けて山西省にとどまり、八路軍(共産党軍)との激闘で多くの日本兵が「戦後」とされる時期に戦死した事実を詳細に語った。 「中国山西省日本軍残留問題」として一般的に知られる。終戦後も2600人が現地にとどまって国民党軍とともに共産党軍と戦い、4年間で約560人が戦死した。ポツダム宣言で定めた武装解除に反する行為となるため、日本政府はいまでも軍命による残留を認めず、兵士らが自らの意志で中国の内戦に加わったとしている。 稲葉さんは1943年に学徒動員で陸軍に入隊。中国戦線に送られ山西省で終戦を迎えた。 証言集会では、46年2月上官に呼ばれた際のやりとりを述懐。「帰国の話で呼ばれたと思ったが、上官からは『作戦命令』が出された。3分の1の兵
【上原佳久】中国の南宋時代、12世紀ごろに刊行された漢詩選集「唐人絶句」が11日、東京・飯田橋の古書展示即売会で、4億6千万円で売り出された。東京・神保町の古書店「一誠堂書店」が保有していた。中国にあれば国宝級とも言われる逸品に、古書ファンたちが見入っていた。 同店などによると、「唐人絶句」は南宋の文人、洪邁が唐の漢詩を編んだもので、杜甫が李白に贈った七言絶句も収められている。高度な技術による木版印刷で、「宋版」と呼ばれる書物の一つ。 続きを読む最新トップニュースこの記事の続きをお読みいただくには、会員登録が必要です。登録申し込みログインする(会員の方) 無料会員登録はこちら朝日新聞デジタルのサービスご紹介はこちら
海自ヘリ空母、中国国防省「高度な警戒」 名前にも不満 海自の「ヘリ空母」進水のニュースを1面で大きく扱う中国各紙 【北京=奥寺淳】6日に進水式をした海上自衛隊のヘリコプター搭載護衛艦「いずも」を巡り、中国が敏感に反応している。中国国防省は「高度な警戒」を表明。中国各紙は「中国を侵略した際に使用した旧日本海軍の艦艇と同じ名前だ」などと批判している。 同艦は全長248メートル、基準排水量約1万9500トンで、広い甲板に5機のヘリが同時に離着陸できる。国際的にはヘリ空母とされるが、憲法上の制約から攻撃型空母は保有できないため、海自は「護衛艦」と位置づけている。 これに対し、中国各紙は7日、1面で「准空母が進水した」などと写真付きで大きく報道。同艦の満水排水量は2万7千トンあるとし「(垂直離着陸の出来る)F35B戦闘機を搭載すれば、さらに強力な攻撃能力を備えられる」(共産党機関紙・人民日報系の環球
ご無沙汰ぶりのブログで、わりとビッグニュースの紹介です。隋の煬帝の墓が江蘇省揚州市邗江区西湖鎮司徒村曹荘で出土したとのことです。 ↑今回発見の墓 揚州市は長江下流域の北岸に位置している古くからの都市ですが、隋のころには江都と呼ばれていました。南朝の文化を愛した煬帝は、たびたびこの江都に来ておりまして、最期を迎えたのもここでのことです。煬帝は江都に宮殿を建てて趣味全開の遊興三昧。晩年に華北の情勢が怪しくなると、江都から離れようとせず、そのために部下の宇文化及に殺害されております。 さてこのたびの出土品ですが、鎏金銅鋪首や金瓖玉腰帯といった文物が出ているようですが、やはり決定的だったのは、墓誌の発見ですね。 「隨故煬帝墓誌」(隨は隋と通字)というようです。墓誌中に「隨大業十四年」とか「帝崩于揚州」とかあって、決め手になってるようです。 ↑鎏金銅鋪首 ↑発見された墓誌 あと今回発見の墓の東側の墓
書家 石川九楊 四世紀の中国、東晋の政治家で書家である王羲之の展覧会が、東京国立博物館で始まっています。書道に親しむ人は誰もが知っている、名の知れた書ですが、一般には、いったいそれが私たちに何の関連があるのだろうと思う人も多いことでしょう。 私も子供の頃から書道の先生に「王羲之の書は最高だ」「王羲之『蘭亭序』以上の書はない」と聞かされてきました。書を見て、なるほどと腑に落ちるものではありませんでした。 美しく整った書なら、唐の時代の楷書の方が、はるかに勝っており、また鮮やかな書きぶりなら、宋の時代の黄庭堅(こうていけん)や米芾(べいはい)の書の方に軍配が上がるからです。 しかし沢山の書を見、書の歴史についておおよそ掴みえた今になって、王羲之の歴史上の位置がはっきりと見えるようになってきました。今日はそのあたりをお話します。 『万葉集』の中に「朝寝髪 われは梳らじ 愛しき 君が手枕
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