なぜ日報を書くのか ※この文章は「日報を書くの良いですよ!」という事を進める文章ではないです。 あくまでも自分がScrapboxで外部向けの日記を書いたり、社内のドキュメントツールで日報を書いていく内に思いついた考えを一旦まとめたくて書いています。 元々は社内向けで書いていたので…
なぜ日報を書くのか ※この文章は「日報を書くの良いですよ!」という事を進める文章ではないです。 あくまでも自分がScrapboxで外部向けの日記を書いたり、社内のドキュメントツールで日報を書いていく内に思いついた考えを一旦まとめたくて書いています。 元々は社内向けで書いていたので…
nisemono_sanから反論トラバもきてるしもう少しこの件について書こうと思ってたのだけど、何かはてブコメント問題ブームが来てるようで色んなことがもう書かれてて、読んで、書く気が失せた。 ってことであれ。まとめた方がいいかなと思った。だよ派メソッドで。 ◆参考:http://d.hatena.ne.jp/Maybe-na/20050707/1120745633 そもそもはてなブックマークとは何か、どう受け止められてるのかはコメント問題を考える上でも前提になると思うのでお勧め。ついでにオレの「はてなブックマークはみんなで楽しく行うレッテル貼りだよ派」も追加してもらったのでお勧め。 んでとりあえず、 管理には機治と人治と放治があるよ真性引き篭もり - はてなには道徳がない。 礼治もあるよ「機械を丈夫にすると人が壊れる」 - ぶろしき システムの問題だよ2005-11-17 - 行乞記 -
難しい内容を理解しているとは、どのような状態を指すのであろうか。また、理解と論理的思考とは、どのような関係があるのだろうか。対象を“難しい内容”に限って、世の中の人々の様子まで含めて考察したら、かなり面白い結果が得られた。大事な点だけ紹介しよう。また、難しい内容の理解に深く関係している哲学も、一緒に取り上げる。 理解の度合いの軸は2つある まず最初に、理解に関する状態を一般的な言葉で表してみよう。単純に考えれば、「理解していない」と「理解している」の2つの状態がある。しかし、「理解していない」から「理解している」へと一気に移行するわけではない。だんだんと理解が進み、ある時点で「理解している」状態へと達する。その途中に、アナログ的な段階があるわけだ。どのような途中状態があるかは、理解する対象によって異なるため、途中の状態が無段階にあるとしておく。この軸は理解の度合いなので、略して「理解度」と
作品外の短い文章 ここには、以前に雑誌に寄せた、短いエッセイなどを再録してみました。 古雑誌をひっくりかえすかわりに、記録になればと思います。 夢の免罪符 児童文学二世代説 読む女の子たち 一つ余計な壁 夢の免罪符(yume no menzaifu) 第22回 日本児童文学者協会新人賞受賞のことば (日本児童文学 1989 7月号掲載) 大学生のころ読んだ「空へ翔ばす手紙」という題の、マンガ家山田ミネコさんのエッセイが思い出されてなりません。 もう10年近く前のその掲載雑誌(寺山修司氏が存命だったころの「ペーパームーン」)を今のわたしはもっていないので、正確な引用ができないのですが、自分がなぜ作品を描くかについて、これは私の免罪符なのだと語っていました。 「ずっと夢を見つづけていたいので、夢を見つづけて生きることを許してほしいので、私がこういう人間であることをわかってほし
前回、情報を知識として正しく自らに取り入れる為にはバランス感覚と無知を恥じない心が必要だと書いた。今日は何故俺がそういう結論に至ったかを書くことにする。書いてみたらほとんど自分語りの含有率が高めなのでその手のがイヤな人はスルーを推奨。 高校2年生ぐらいまで、俺は政治的な事に関して何も考えていなかった。新聞は読んでいたし無知では無かったが、真剣に向き合い考えた事が無かったのだ。その時は考える必要が無いと思っていたし、特に興味も無かった。しかし世界史を真剣に学んだこと、高3の倫理の授業、この二つをきっかけにイデオロギーについて考えるようになった。受験勉強から逃避する為にこの分野は格好の題材であった。遊んでいるよりかはマシなイメージがあったからだ。勉強してない、ということには変わりがないというのに。ネットで調べ書籍を読み、とにかく様々な情報を集めた。突然難しい本を読む事はできないので、こういった
ブログのトップページってわかりにくい 3カラムのレイアウトに最新記事数十件、他サイトへのリンク数百件とか表示してる人がいたりするけれども(というかそっちがブログ的には主流)(3カラムにするとスカスカになっちゃうからたくさん何かを載せなければいけない気になるんだと思う)、さすがにそこまでやるとブログ慣れしてない人にはわけがわからないと思う。どれが外部リンクでどれが内部リンクなのか。なのでなるべくrecent titleとかpermalinkとかブログ用語(?)を使わないで日本語表記にして、検索経由で来る初心者の方々を大事にする方向にした。たまーにPCをほとんど触らないリアル知り合いに「ニイさんのサイト見てみたけど何が何やらさっぱりわからなかったです」と言われる。これだけ噛み砕いてもわからない人の方が大多数なのです世間的には。そこらへんブロガーの人たちはどこまで意識してんですかね? こういう記
小学校の修学旅行でのことだった。 我々は一路目的地をめざしてバスに乗り込んだ。 クラスのおどけ者、安川君はその日も元気良く、皆の前で おどけては、バスの中に笑いを振り撒いていた。私は彼と同じ班で 席も隣同士だった。少しテンションの高すぎる彼に閉口しながらも、 バスの旅は快調に進んで行った・・・。 しかし、バスに乗って1時間が過ぎた頃には、安川君はさっきまでの テンションがウソだったかのように静かになり、何か神妙な顔つきに なっていた。 「車酔いか?」 私は聞いてみた。 「うん、ちょっと酔ったみたい。」 「先生に言おうか?」 「いや、大丈夫、言わんといて」 「そうか、また気分悪くなったら言いや。」 「うん。」 まぁ彼が大丈夫だと言うのだから、それ以上のしようはない。 私も彼の車酔いにつきあって、せっかくの楽しい修学旅行をだいなしに するつもりは毛頭なく、彼を放って友人らとの会話を楽しんでいた
「いの一番」という言葉もあるように、「いろは歌」はかつて五十音図よりもさかんに用いられていた。五十音図の方になじんだ私たちの世代でも、「いろは歌」を最後まで唱えることは造作ない。しかし、昨今の高校生では、トップクラスの生徒でも、最後まで唱えることのできる者は少ないようである。「いろは歌」は、七五を四回繰り返す、平安時代末期に流行した「今様(いまよう)」という歌謡形式に従って作られている。ただ、47文字であるから「わかよたれそ」の部分が字足らずになっている。今様を集大成した『梁塵秘抄』という書物には、「仏は常にいませども うつつならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ」という具合に仏教色が強いが、「いろは歌」も同様であり、当時流行した無常感に彩られている。今様の形式を守り、しっかりした内容のある歌をかな一字を一回ずつ使うという制約のもとで作った作者が非凡な人であることは分か
ブログをはじめて50日が経とうとしている。 私は世の中に向かって叫びたいことが取り立ててあるわけではなく、一人の大人と話すことなく過ごす日があるような、「引きこもり」的生活を送っている「普通の人」だ。 ふとしたきっかけでブログをはじめることになったわけだが、それもリハビリのようなものかも知れない。 大人になるまでの私は「普通の子」ではなかった。人生を+-の座標で表すとしたら、私の10代までは随分と(-)の方に寄っていた。だから、ゼロ地点に立てるよう学校の勉強をした。そうして、色々なものを手に入れた。目に見えるもの、見えないもの。とにかく、人並みに見えるようにはなった。何も知らない人から見れば、私は多くのものを持っているように見えるかもしれない。どんなことも、事も無げにやっているといわれたこともある。しかし、私にとってそれはゼロに戻れただけのことでしかない。世の中が平等になったといっても、自
■連載派:毎週待つことによるマンガの楽しみ方 ○ネギま!で遊ぶ ○のどか15歳 : 魁!!エヴァンジェリン劇場 ○Haste makes waste in BLOG : 魔法先生ネギま!111時間目について ここ数ヶ月、毎週の水曜日の週刊マガジンの発売日が、待ち遠しいけれども、思い返してみると、週刊連載の次の号を心待ちにするという、物語の感受形式は、小学から中学生時代のドラゴンボールで既に終わっていたはずだった。 それ以来、僕は、ずっと単行本派。 実に、10年以上僕にとって、マンガとは単行本を読むものであった。熱狂的に週刊連載の次号を待つといううスタイルは80年代のジャンプ黄金期以来、既に僕にはなかった。 ところが、最近は違う。 いま赤松健先生のネギまにはまっているのだが、6巻ほどまでは単行本派であった。途中からマガジンの購読に入ったのだが、楽しみ方のスタイルがまったく変わってしまった。
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