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マスメディアで何度か取りあげられたのだが、私が小学四年生のときに、「母の日」というものがあることを知って、妹と一緒にお小遣いを使って、カーネーションを買いに行き、母に贈った。小さな花束を買って帰ってきて「お母さん、おめでとう、母の日おめでとう」と言ったら、母はどういうふうにも表現できない奇声を上げて、逃げまわって、落ちついたあとに私たちを厳しく叱った。世の中の一般的な祝い事が、エホバの証人のあいだでは禁じられているからで、そのときは子どもながらに愕然としたことを思いだす。母が喜ぶと思って一生懸命に考えてやったことが、そんなふうな目に遭ったわけで、後年回顧するたびに、そのとき以上に苦しくなる思い出だ。 (横道誠 編・著『信仰から解放されない子どもたち』明石書店、2023) こんばんは。勤務校の近くにあるフラワー・ショップは、母の日にお店に立ち寄った子どもたちに、カーネーションを一輪、無料でプ
しかしこの社会の働き方を、全身ではなく、「半身」に変えることができたら、どうだろうか。半身で「仕事の文脈」を持ち、もう半身は、「別の文脈」を取り入れる余裕ができるはずだ。そう、私が提案している「半身で働く社会」とは、働いていても本が読める社会なのである。 (三宅香帆 著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』集英社新書、2024) おはようございます。2週間くらい前でしょうか。教育学者の西川純さんが Facebook に「教員は副業としては最高。これが分かる社会が来るだろう」と書き込んでいました。「半身で働く社会」を提案している三宅香帆さんも首肯するであろう予言です。私も首がもげるくらい頷きました。 右足は教室に、左足は教室の外に。 教室の外で出逢った「人・モノ・コト」を授業につなげることができれば、換言すれば「別の文脈」を授業につなげることができれば、楽しい。担任が「楽しい」と感じていれ
私は東京に住んでいるが、自分の家から仕事場まで、三、四十分ほど歩いて通っている。その仕事場に着き、窓のカーテンを引き開けるときはいつもスリルを味わう。 ―― 今日は見えるだろうか? (沢木耕太郎『心の窓』幻冬舎、2024) こんばんは。数時間前に2泊3日の移動教室から帰ってきました。2週間くらい前に体調を崩し、しんどさを抱えたまま宿泊の準備(勤務時間内には絶対に終わりません。これも教員が勝手にやっていることとみなされるのでしょうか?)に追われ、通常業務もブログも滞り、ようやくの日常モードです。 ―― 今年は行けるだろうか? www.countryteacher.tokyo 行けました。3年前はコロナ禍のために断念せざるを得なかった、松代象山地下壕に、です。松代象山地下壕については、沢木耕太郎さんの『旅のつばくろ』に絡めた上記のブログ(日垣隆 著『「松代大本営」の真実』より)をぜひご覧くださ
ゴシック小説といえば、ウォルポールの『オトラント城奇譚』(1764)、ラドクリフの『ユドルフォの謎』(1794)や『イタリアの惨劇』(1797)、メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』(1818)、ロバート・マチューリンの『放浪者メルモス』(1820)などが挙げられるが、これらのゴシック小説には幽霊が出没する古城、迷路のような回廊といった舞台装置、あるいは超自然現象といった仕掛けがつきものである。 (小川公代『ゴシックと身体』松柏社、2024) こんばんは。ケアのつもりが執着になってしまうとか、教育はケアであるとか、ケアはめんどうくさいものだから統治や「叱る」に走りやすいとか、ケアの倫理は文脈に依存した個別・具体的なものであるとか、嘘やフィクションがケアになることもあるとか、見えないものを見ようとするのがケアであるとか、それからケアする人がケアされるようになってほしいとか。先週、そんな
だからマインドコントロールを発生させる本体とは、その団体の特異性だ。共同体を活用して団体の特異性に新しい信者を慣らそうとすることによって、マインドコントロールが機能する。そして、その際に暴力が用いられれば、それは洗脳ということになる。 私はそのように考えるようになった。そして、そのように考えると、じぶんが受けてきた学校や大学の教育現場でも、マインドコントロールがあったと感じられてならない。じぶんの在学期間を振りかえると、教えこまれた価値観の多くはもはや誤りだったことが明らかだし、「教育被害」と呼べるべきものがあったと感じる。 (横道誠『あなたも狂信する』本田出版、2023) こんばんは。以前、藪下遊さん&髙坂康雅さんの『叱らないが子どもを苦しめる』を読んだときに、ニューロマイノリティー(=発達障害者=神経学的少数派)の子が増えている気がするのは、叱らないが子どもを苦しめた結果なのではないか
経営するのは企業だけだと思い込むのは無知と傲慢のなせる業だ。学校経営、病院経営、家庭経営・・・・・・はどこに消えたのか。むしろ世の中に経営が不足していることこそが問題なのである。現代の学校や病院や家庭が不合理の塊なのは誰もが知っていることではないか。 (岩尾俊兵『世界は経営でできている』講談社現代新書、2024) こんばんは。私の本棚にある近内悠太さんの『世界は贈与でできている』には、著者のサインが入っていて、そこにはラテン語で「Credo quia absurdum」と書かれています。意味は、 不合理ゆえにわれ信ず。 世界は贈与でできている(2024.5.12) 夢うつつの状態がまだつづいているんだろうか、それとも現実なんだろうか。合理的に考えれば、あり得ない。でも、不合理ゆえに信じてみようかな。詳細は省きますが、最近、そんなふうに思うことがありました。 不合理ゆえにわれ信ず。 信じよう
「発達障害は大きな免罪符にならない。発達障害だから仕方ないと考えると、未来はありません。障害があったら、人の10倍は考えて、工夫しないといけないと思ってます。発達障害や精神障害があっても、それに引っ張られすぎてはいけない。楽しいことはたくさんあります」。 (横道誠『発達界隈通信』教育評論社、2022) こんばんは。教育評論社から出ているというのがいいですよね。この『発達界隈通信』が、です。教員は、読んだ方がいい。読めば、各教室にいる発達界隈の子どもたちの振る舞いに目くじらを立てたり、振り回されたりすることが少なくなると思うからです。 発達障害だから仕方ない。 大人の発達障害とは違って、子どもの、特に小学生の発達障害は「発達障害だから仕方ない」という面が多々あります。学校教育が前提としてしている「みんなに同じことを、同じペースで、同じようなやり方で、できあいの問いと答えを一斉に勉強させる」(
わたしは臨床ではもっぱらアドバイスをする側であるが、「なんでこれくらいのことができないの?」と思うことは正直多い。例えば、自分を守ること、人との距離を保つこと、自分の気持ちを抑えること、独りでいること。そんな「普通の人」にとっては簡単なことでも、患者さんはできなかったりする。でも、「ああ、彼女はいつも溺れそうな気持ちで生きているんだな」と気づけば、もっと寄り添える。 (宮地尚子『傷を愛せるか 増補新版』ちくま文庫、2022) こんにちは。お酒の席でわざわざ校長にお酌をしに行ったり、出勤したときにわざわざ校長室に足を運んで挨拶をしたり、そんな「普通の人」にとっては簡単なことが、私にはできなかったりします。正直、そういった場面を見るのもイヤです。生理的に、脳神経的に、無理。 なんでそれくらいのことができないの? 校長と仲良くなった方が自分のやりたいことができるじゃん。合理的じゃん。そもそも学
初めて仙台駅から出た瞬間、その仙台という街にすぐさま好印象を抱いた。駅前に高架橋が張りめぐらされていて、それがむかしの人が想像したら近未来という感じで、カッコよいと思ったのだ。ふだん暮らしている人にはどうでもよいものか、場合によっては厄介なものかもしれないけれど、僕はその高架橋を行ったり来たりして、ワクワクするのを感じた。エスカレーターがついているから、昇り降りは負担にならない。 (横道誠『解離と嗜癖』教育評論社、2023) こんばんは。もともと好印象でしたが、仙台に《すぐさま好印象を抱いた》という横道誠さんに、さらなる好印象を抱きました。学生時代を過ごした、我が母校のある街を《カッコよい》って褒めてくれているわけですから。当事者紀行の国内編と銘打たれた『解離と嗜癖』の目次を見て、ワクワクするのを感じたんですよね。あっ、仙台にも行ってる(!)って。横道さんへの傾倒は、もはや「嗜癖」レベルか
さて、レーニンには主要な部下が二人いた。片方はレオン・トロツキー。インテリで理論面でも演説もうまい。本書ではスノーボールのモデルだ。されに自ら赤軍の先頭にたって、政府軍や帝国残党との戦いを率いるというまったく予想外の軍事手腕も発揮し、外交手腕も見事だった。それと常に対立し続けたヨシフ・スターリンは、理論的にも軍事的にも経済政策的にも垢抜けず、恫喝と暴力的な手口によるゴリ押しが十八番ながら、それで新生ソ連の窮地を一応は切り抜けたことも多く、またそれなりの権謀術策と政治的駆け引きには長けていた。これはもちろん、ナポレオンのモデルとなる。 (ジョージ・オーウェル『動物農場』ハヤカワ文庫、2017) こんばんは。昨日行われた衆院3補欠選挙の投票率は、東京15区でも島根1区でも長崎3区でも過去最低を記録したそうです。東京15区に至っては40.7%です。約4割。30人学級だったら18人が投票しなかった
「外の世界に合わせて自分を調整する」という体験は、子どもにとって非常に不快なものです。それまでは泣くなどの行為を通して、親に「環境を変えてもらった」という経験が中心でしたが、環境を変えるということが難しい状況や、子どもが環境に合わせなくてはならない状況が増えるのですから、その不快は自然な反応と言えます。 ここで強調しておきたいことが、こうした状況で生じる子どもの不快感を「関係性の中で納めていく」という関わりが必須であるということです。「思い通りにならない場面」で不適応を示している子どもの親と接していると、こうした子どもの不快感を「親の関わり方の失敗」と考えたり「不快にさせてはならない」と捉えたりしている人が非常に多いと感じます。 (藪下遊、髙坂康雅『「叱らない」が子どもを苦しめる』ちくまプリマー新書、2024) こんばんは。せっかくのゴールデンウィークなので、東京は新宿に足を運んで、以前か
みゆきに礼を言ってスマホを確認すると、普段どおりナチュラルな無表情のあかりと、緊張で無表情になった慶彦が写っていた。あかりは母親似だと思っていたけれど、こうしてみると自分ともなんとなく似ている。見た目は無表情でも、心のなかではちゃんと喜んでいる。 (宮島未奈『成瀬は信じた道をいく』新潮社、2024) おはようございます。上記引用のところを読みながら、初任のときに「先生、リアクションが薄すぎます」って言われたことを思い出しました。保護者に、です。船に乗っけてもらって、海釣りに連れて行ってもらったんですよね。それだけでもう、心のなかでは大興奮です。さらに、ビギナーズラックでカレイを3匹同時に釣り上げて、 お~。 この「お~」が薄かったようです。見た目もおそらくは無表情だったのでしょう。かつての教え子にも「先生は怒っているのかどうかわからない」って言われたことがあります。心のなかではちゃんと喜ん
私が発達障害の診断を受けたのは、2019年4月のことだった。仕事を休職してしまい、長年の自分の「謎」を解くために、以前から疑っていた自分の鍵穴に、「発達障害の診断」という秘密の鍵を挿しこんだのだった。 そこから私は発達障害支援センター「かがやき」の光岡裕之さんらにつながり、「かがやき」から京都障害者職業センターの安田泰子さんらにつながった。私は診断を受けてから初めて、発達障害に関する書物を読みはじめた。不思議な体験だった。新しく仕入れる他者に関する知識が、私の困りごとを説明していた。 (横道誠『みんな水の中』医学書院、2021) こんばんは。横道誠さんの本を読みはじめてからというもの、そこに書かれている知識が、これまでに出会ってきた教え子たちの、否、一部のユニークすぎる教え子たちの「謎」を説明しているのだから、不思議というか、シーク・アンド・ファインドです。村上春樹さんの小説と同じように、
「この短時間でわたしのどこに惹かれたのか教えてくれないか」 成瀬さんが俺の目を見て尋ねる。 「だれにも似てないところかな」 考える前に口から出ていた。少なくとも、これまで俺が出会ってきた女子の中に成瀬さんのような人はいなかった。成瀬さんは「なるほど」とうなずく。 (宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』新潮社、2023) こんにちは。この「だれにも似てないところかな」というのは言い得て妙で、読みながら「なるほど」と頷いてしまいました。少なくとも、これまで私が出会ってきた女性の中に成瀬さん(以下、敬称略)のような人はいません。「だれにも似てない」女性だったら、奇跡的に一人いますが。それはさておき、この「だれにも似てない」というエピソードをまくらに、クラスの子どもたちに成瀬のことを、小学校の卒業文集に「200歳まで生きる」と書いた成瀬のことを、《大きなことを百個言って、ひとつでも叶えたら、「あの人
斎藤 なぜポリフォニーがよいのか。ポリフォニーは隙間、余白が多いのです。ポリフォニーの対義語にあたるのがハーモニーと言われます。ハーモニーの場合は、一つの調和した意見が全体を支配するという状況で、一見すごく満足度が高いように見えますけど、実際には余白がなく、個々人の意見も微妙に抑圧されてしまっていることが多いと思います。「本当はちょっと違う気もするけど、一体感の気持ちよさに水を差すのもなんだから」みたいな妥協、譲歩があり得るでしょう。ポリフォニーのほうがはるかに隙間が多くて、その隙間において当事者は自分の主体性や自発性を回復するとされています。 (横道誠、斎藤環、小川公代、頭木弘樹、村上靖彦『ケアする対話』金剛出版、2024) こんばんは。ハーモニーというタイトルの学級便りだったり、学年便りだったりを、過去に何回か目にしたことがあります。特段、違和感があったわけではありません。しかし、上記
子どもたちにとって学校がより良い場になることを願う団体や、学校を支援したい、学校と協働したいと考えている団体はたくさんあります。校内や教育委員会内のリソースだけで何とかしようとせず、ぜひ外部のリソースをうまく活用してください。 (吉村春美『みんなが「話せる」学校』学事出版、2024) おはようございます。給特法には手をつけないそうです。現状の枠組みを維持したまま、教員調整額を少しだけアップさせてお茶を濁すそうです。中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)の委員さんたちが話し合っているという、教員の待遇改善に向けた「素案」の話です。斎藤ひでみ(西村祐二)さんによれば、それはずっと主張してきた「最悪の結末」とのこと。最悪の結末が何を意味するのかといえば、それは、 長時間労働の放置です。 この問題、「調整額を4%から10%にしますでシャンシャン!」に済ませたら、おそらく「今後、50年は変わりません
「私ね、人生をちょっとゆったりと長めに考えるようになったの。ここで一区切りして、ドロドロした広島の政界とも、距離を置きたいなって。ホントは私、(昨年春に)県議を辞めて、ミラノにファッションの勉強に行こうと思ってたんです。でも参院選に出ることになっちゃったんだよね。だから私、自分が消費されているなって感覚があったんです。要は、岸田(文雄)さんと管(義偉)さんの覇権争いがあって、岸田派と二階派の争いがあって、検察と官邸の対立もあって、私はその中で『消費される対象』として擦り減っちゃった。だから、これから自分を取り戻したいっていう気持ちがある。私、今までは、世の中のためになるかどうかという尺度だけで、仕事も生活も測ってきたんですよね。自分がやりたいとかじゃなくてさ。でも、これから時間ができたら、小説を書くことに没頭したいと思っていて、正直な話ね。まだまだ未熟なので、(筆力)を磨いていきたいと思い
それにしても、10歳から明石市長を目指していたとはすごい。 泉 はい。冷たいまち・明石を優しくするのが自分の使命だと思い、そのために生きていこうと心に決めたのです。東大受験のための勉強中に眠くなっても、「今、寝てしまったら救える人も救えなくなる」と本気で考えてました。自分には使命があり、その使命を果たすためには「受験ぐらい通らなあかん」と。 (泉房穗『政治はケンカだ!』講談社、2023) こんにちは。小学5年生のときから明石市長を目指していたとはすごい。子どもたちにも伝えなければ(!)と思います。特に、受験産業に踊らされ、偏差値に踊らされ、使命感どころか優越感を得るために受験勉強をしているのではないか(?)と見受けられる一部の子どもたちには必ず伝えなければ(!)と思います。受験ができるという恵まれた家庭環境で育っているのだから、 使命感をもたなあかん、と。 春に百花あり(2024.4.7)
一対一の対話は、たしかに既に「ダイアローグ」なのです。でもオープンダイアローグとしては不充分なんです。ひとつの声でもふたつの声でもなく、多数の声が響いてほしい。というのも、声がふたつだけならハーモニーを奏でやすく、つまり調和しやすく、結果的にモノフォニーとなってしまうからです。大切なのはポリフォニー、複数性の共存です。 (横道誠『唯が行く!』金剛出版、2022) こんばんは。ニューロマイノリティー(神経学的少数派)の横道誠さんらしい見方・考え方だなぁと思いつつ、教室につくっていかなければいけないのもポリフォニー、複数性の共存だなぁと、続けてそう思いました。教室だけでなく、職員室も然りです。不登校が増えているのも、教員の精神疾患が増えているのも、もしかしたらポリフォニーという概念の暗示すらなくなってきたことが原因かもしれません。目指す児童像とか、教員に求められる資質能力とか、なぜ「複数性の共
ADHDがあると、無軌道な人生を爆走する傾向があるが、自閉スペクトラム症者には規範意識が強いという逆向きのベクトルが備わっている。結果として、支離滅裂な日々を送りながら、不思議なくらいマジメという謎の人生が出現してくる。私も全くそういう人間なので、ラガーさんには深く共鳴する。 (横道誠『ひとつにならない』イースト・プレス、2023) こんばんは。「全く」ではないものの、私も意外とそういう人間なので、特に《支離滅裂な日々を送りながら、不思議なくらいマジメという謎の人生が出現してくる》というところには深く共鳴します。で、マジメにとって、4月1日はしんどい。知らない人たちがやってきて、職員室の雰囲気が変わるからです。とりわけ本年度は、ガラッ。 しんどかったなぁ。 直感として、どうあがいても、ひとつにはなれそうにありません。4月1日について語るときに僕の語ること。真の発達は、別れた女と、払った税金
やさしさの一人相撲から、二人相撲へ。 あなたと私が関わることで、私自身が変容する。私自身が救われることになる。 そんな理路を、一緒に進んでいってもらえたら。 (近内悠太『利他・ケア・傷の倫理学』晶文社、2024) こんばんは。昨日、勤務校のお別れの会があり、何人かの同僚が職場を去って行きました。花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ。とはいえ、 寂しい。 そんなふうに思えるのは、近内悠太さんいうところの理路を、パーシャルとはいえ一緒に進むことができたからかもしれません。あなたと私が関わることで、私自身が変容する。マルティン・ブーバーの『我と汝』を想起させるこの理路を、クラスの子どもたちにも進んでいってもらえたら。ケアが混ざり合う教室で、変わっていってもらえたら。 嬉しい。 利他・ケア・傷の倫理学 作者:近内悠太 晶文社 Amazon 近内悠太さんの『利他・ケア・傷の倫理学』を読みまし
ガンディーの「不在」は多くの評論家やメディアが気になったようで、S・S・ラージャマウリ監督にこの点を問い質している。たとえば米誌『ニューヨーカー』は彼へのインタビューで、「スバース・チャンドラ・ボースやバガト・シンのような歴史的人物を目立たせる一方で、ガンディーやアンベードカルといった非暴力の革命指導者を意図的に外したのではないか」という問いを投げかけている。これに対してラージャマウリ監督は「その質問に答えるのはうんざりしていますよ」と前置きした上でこう語っている。 (笠井亮平 著「『RRR』で知るインド近現代史」文春新書、2024) こんばんは。この「問い」は、上映当時、私の近辺でも話題になっていました。なぜ、映画『RRR』のエンディングで紹介された《フリーダム・ファイター(自由の闘士)》の中に、インドの国父であるマハートマ・ガンディー(1869ー1948)が含まれていなかったのか。 w
発達障害の診断を受けてから、当事者研究(自分の疾患や障害を仲間と共同研究することで、生きづらさを軽減させる精神療法)に取りくんだ僕は、本書を書きながら、自分に何が起こっていたのかを、遅ればせながら理解できるようになっていった。当事者研究の知見を利用した紀行の執筆。だから、この書は「当事者紀行」とも呼ぶべき新しいジャンルの可能性を開いている。ここに、本書の人文書としての最大の意義があるだろう。 (横道誠『イスタンブールで青に溺れる』文藝春秋、2022) こんばんは。バンコクのカオサン通りで出会い、ノーンカーイまで旅を共にした学生さんが、実は発達障害だったということを帰国後に知り、たしかに変わっていたなぁと思ったことがあります。新聞にデカデカと出ていたんですよね、その彼が。学習障害乗り越え、東北大学大学院に合格って。おそらく限局性学習症(学習障害)以外の神経発達症(発達障害)も併発していたので
僕は従来からフランクルには強く共鳴し、論文を書いたこともあるし、『唯が行く!』で当事者研究の思想的源泉として解説した。苦悩することによって人生は輝きを増す、苦悩することそのものに「体験価値」があるというフランクルの思想は、苦悩だらけの僕の人生を優しく照らしだす陽の光だった。フランクル自身が、強制収容所の生き残りということが、自然に尊敬の念を感じさせる。 (横道誠『ある大学教員の日常と非日常』晶文社、2022) こんばんは。昨日は卒業式でした。PTA会長の祝辞、よかったなぁ。若かりし頃の苦悩を、その後の輝きとともに物語ってくれて、ある大学教員の言葉を借りれば、まさに卒業生のこれからの人生を優しく照らしだす陽の光だったように思います。発達界隈の人たちのこれまでの人生を優しく照らしだす、横道誠さんの本のように、です。 体験価値って、大事。 生シラス(2024.3) 占いみたいなものじゃない? 卒
僕は、毎日のように全国の学校で講演させてもらっている。 そんななか違和感を抱くのは、今の日本の小学校の先生たちの驚きを隠せないほどの「仕事量の多さ」だ。 通知表だって、とても大変な仕事のはず。 「当たり前のようにある」「これまでもそうしてきた」という先入観を取っ払い、なくすことができたなら、子どもたちはもっと勉強が好きになるかもしれないし、そうなれば、親たちもガミガミ言わずに済むはず。 (谷口たかひさ『シン・スタンダード』サンマーク出版、2023) おはようございます。引用は、本の表紙に「デンマークでは通知表禁止?」と書かれている、谷口たかひささんの初著書より。試しに ChatGPT に「小学校の通知表を禁止、あるいは制限している代表的な国を5ヶ国教えてください。その理由も教えてください。学級通信に掲載したいので正確に教えてください。」と入力すると、次のように出てきます。 1. フィンラン
確実に言えることは、大江がいなければ村上は存在しなかったということだ。そして、村上が大江を否定しながらサンプリングすることで、村上は村上になることができた。ふたりの「魂」はあまりにも近すぎて、年少の作家として出発した村上は、自分が自分になるために、己に似た「魂」を否定せねばならなかった。 (横道誠『村上春樹研究』文学通信、2023) こんばんは。確実に言えることは、小学校の教員の年度末の仕事量は異常ということです。村上春樹さんの作品をサンプリングすれば、 やれやれ。 そうつぶやきたくなります。が、正直なところ、やれやれどころではありません。夜遅くに通知表の所見を書いていると、どこからか「書くんだよ、とにかく書き続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい(?)。書くんだ。書き続けるんだ。何故書くかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。通知表の所見に意味なんてもともとな
勤めていた会社を辞めてから、早くも二年が経過した。今のところ心身(肛門以外)共に健康に過ごせているが、兼業生活に戻りたいな、と思うことがしばしばある。それはお金のためでも、社会とつながるためでもなく、単純に、会社勤めをしていたころのほうが「よし、小説書くぞぉ~~~!!!」という気持ちになることができたからだ。家に帰ったら、週末になったら、思いっきり小説を書くぞぉ~~~!!! と、自然にエンジンがかかったのである。「仕事として、生活のために小説を書く」ではなく、「娯楽として、一息つくために小説を書く」状態だったあのころは、時間の余裕こそなかったが、書いているときの幸福感はとてつもないものがあった。 (朝井リョウ『風と共にゆとりぬ』文春文庫、2020) おはようございます。昨日は土曜授業でした。給食なしの午前授業だったので、午後は教室にこもって通知表の所見を書く予定でしたが、とてつもなく疲れて
その途上のインドで、私は人生が変わるような体験をした。ある朝、親しくなったインド人に屋台に連れて行かれ、そこで食事をご馳走になった私は、気がつくと身ぐるみ剥がされて道ばたの下水道に横たわっていた。どうやら飲食物に睡眠薬が混入されていたようだった。幸い、パスポートは腰に巻き付けていたベルト状の小袋の中に残されており、ブーツの内底に縫い込んでいた100米ドルほどのトラベラーズチェックが無事だったため、なんとか旅行は続けることができたが、その後は心身が優れない状態が長く続いた。 そんな乞食同然になった日本人の若者にも、インドやネパールの人々は限りなく優しかった。 (三浦英之『涙にも国籍はあるのでしょうか』新潮社、2024) こんばんは。バックパッカーだったときに私も似たような経験をしたことがあるので、思わず引用してしまいました。マネーベルトの中に隠しておいたトラベラーズチェックの有り難さといった
「探究」の時間は、いつもこんな具合だ。ミノルはいろんなクラスメイトにつきあわされて、ある意味では「モテる」。じぶんが好きなものをなんでも探究して良いというこの時間、クラスメイトたちはよく、いろんな外国語を身につけるために練習に耽っている。外国語が好きな子たちは、とても熱心にやっている。しかしミノルにはどうも外国語学習はピンとこなかった。 (横道誠『海球小説』ミネルヴァ書房、2024) おはようございます。1ヶ月くらい前でしょうか。ゲンロンの告知を見て、めちゃくちゃピンときたんですよね。普段の授業に加え、6年生を送る会もあるし保護者会もあるし通知表の所見も書かなきゃいけないしで、その週はブログが書けなくなるくらい忙しくなることはわかっていましたが、猪瀬直樹さんと東浩紀さんが対談するっていうんです。二人の大ファンとしては、申し込まないわけにはいきません。 いざ、東京へ。 ゲンロン「日本は『訂正
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