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orion12.hatenablog.com
人間はすぐに自然を支配したがりますが、人間が自然を支配下に置くって考え方自体傲岸不遜ではないでしょうか? それって不自然で、無理があるのです。 何故なら、人間は自然というモノのごく一部だからです。 自然の中に人間がいて、動物がいて、植物がいるのです。 自然にとっては人間が特別だったことはないし、これからも特別であることはないでしょう。 私の場合「人間って地球で一番偉いんだぜぇ!!」的な世界観を抱いたことがありません。 逆に「人間ってなんて出来損ないの生き物なんだろう」という想いがずっと離れないのです。 それは大層な思索探究の末に辿り着いた結論などではなく子供の頃からずっと心の奥にあるものなんですよね。 自然を支配したがる人ってのは根っこの部分に「人間って地球で一番偉いんだぜぇ!!」的な世界観があると思うのです。 というかそれがなければ自然を支配しようなんてそもそも思わない気がします。 環境
森羅万象すべてのモノには波動エネルギーがあります。 だから、当然言葉にも波動エネルギーがあるのです。 今まで何度か申し上げてきた「呪をかける」という行為もまたその言葉のエネルギーを使っています。 ここでいう「しゅをかける」とは強い言葉で相手に衝撃を与え心に『隙間』を作り、そこに不安や恐怖を打ち込んで心を縛ることです。 『言葉』のチカラを使って人の心をコントロールするために為されるモノです。 それは『他者』の心を支配し、時に『場の空気』まで支配しようとする呪術です。 なので、「呪をかける」という行為は最初は特定の個人なり集団によって行われるものです。 ただ、繰り返しかけれた呪は時にそれ自体が独り歩きし出したりします。 個人の手を離れ『社会的な禁忌』などになり、エネルギー的には人を縛るモノとして眼に見えない効果を発揮するようになるのです。 「呪をかける」というのは特定の言葉に特別な『意味』を与
ここでいうところの『呪詛』というのは「誰かに対してエネルギー的に眼に見えないカタチでネガティヴな影響を与えようとする方法または手段の全て」とお考えください。 マジナイ・ノロイ・呪術・念送りなどと呼ばれる類いのモノもすべて含みます。 一般的に使われる呪詛という言葉のニュアンスよりは随分意味の範囲が広くなっております。 世間一般でいう呪いの類いっていうのは「古くから行われていた呪術を伴うモノ」として認識されている気がします。 丑の刻参りみたいな特殊でオドロオドロしい独特な儀式を伴うようなものとしてです。 っていうかそういう『特殊な儀式ありき』でしか成り立たないモノと思われている節があります。 「実行する場合の方法論が呪詛には一番大事だ」と捉えられているってことです。 でも、呪詛の方法が古来からのやり方に合ってるかどうかが呪詛の本質とは思えません。 「やり方が少し違ったら、呪いの効果があっという
癒しとは楽になることです。 ここでいう「楽になる」とはダラダラと安直に怠惰に過ごすという意味ではなく、「それぞれが元々持っている自然で無理のない状態に戻る」ことです。 謂わばニュートラルに戻るということです。 この赤文字ブログにおける『ヒーリング』とはその「楽になること」をお手伝いすることです。 主体は何時もヒーリングを受ける側のほうにあります。 例えて言えば、歩きにくい人のための杖や見えにくい人のための眼鏡みたいなものなんじゃないかな~と思うのです。 今まで何度も書いてまいりましたが以上が私の行なっているヒーリングのキモの肝です。 このブログ内で使われる『癒し』『ヒーリング』『楽になる』といった言葉の意味もここにあります。 ここでいうヒーリングは問題のある箇所に存在する波動エネルギーと円満に交流して浄化させてもらう方法です。 浄化とは波動のレベルの低い状態から可能な限り元のクリアーで自然
先入観ガチガチな人が使いがちな言葉或いは考え方に「気のせいだ」ってのがあります。 日常的に対してもよくそういう言葉を使う人は、自分の考えと大きく違う事象については「気のせいだ!」「見まちがいだ!」「勘違いだ!」と捉えがちです。 自分の感覚を素直に感じず、起こった出来事を先ず自分の思考の枠に何とか当てはめようとするから、そうなるのです。 それを日常的に繰り返せば必ずその人の感覚は鈍くなっていきます。 わざわざ鈍くなるようにクセを付けてるからそうなるのです。 勘を働かせるためには『五感の鋭さ』が必要であり、五感の鋭さを鈍らせないような『心の在り方』が必要になってきます。 勘が生まれる過程で必ず理屈を飛び越えて感覚的に何かを知るという現象が起こるからです。 この「理屈を飛び越えて感覚的に何かを知る」という現象に素直になれるかどうかが勘を働かすための重要な要素になります。 そういう現象を「気のせい
何らかの現象があるならば必ずそれ相応の原因があります。 逆に言えば「相応の結果の無い原因なんて何処にもない」ということです。 それがここでいうところの『因果応報』です。 なので、因果応報というものはこの世の全てに遍くあります。 ただ、一人の人間の時空間中にスッポリ収まるとは限りません。 また一人の人間の時空間の中に収まっても、切り取られた特定の時間の中にだけ分かりやすく収まるとは限らないのです。 時に個人の認識できる時空間のスケールを遥かに超えて、原因に対する結果はやって来ます。 それを私は『因果のツケ』と呼んできました。 『因果のツケ』が何故起こるかというと因果応報が時間と空間と次元のすべてを跨いで起こるものだからです。 当然一人の人間の認識に見合ったサイズでだけで因果応報が起こるわけではありません。 人間万事塞翁が馬って故事があります。 幸は不幸となり、不幸はまた幸となり変転止まるとこ
子どもが不良化していくその第一の過程として『言葉の乱れ』が起こります。 そして、それと重なるように『服装(姿形)の乱れ』や『行動の乱れ』か起こるのです。 まぁ、それは何も子どもとは限りません。 過程としては老若男女似たようなモノだと思います。 例えば不倫をする男女とかも似たようなプロセスを辿ります。 「会話が減る・コミニュケーションが素っ気なくなる」「服装が急に派手になる」「帰宅が遅くなったり、休日に外出が増える」など『言葉の変化』『服装(姿形)の変化』『行動の変化』 が段々あからさまになっていくのです。 なので、その人の言動・行動・姿形の移り変わりを追っていけば、その人の『心の変化の様』をある程度の精度で推察することが可能です。 それは当然その人の現在の状態を知ることにも通じています。 心の変化はまた波動の変化でもあります。 ハッキリと大きく心の常態が変わる時は波動のレベルも動いている可
波動のレベルの高いモノはフワッと軽くてスカッと明るく、波動のレベルの低いモノはドヨヨ~ンと重くてジトッと暗いのです。 別の言葉で言えば波動のレベルの高いモノは穏やかで温かく、波動のレベルの低いモノは荒々しく冷たいのです。 ここでいう波動のレベルというのは「人が出来るだけ自然で無理なく在るための目印」のようなモノです。 波動のレベルを上げたければ、現在の自分より波動のレベルが高いと感じられる人・物・場所を日頃からコツコツ選んで親しむように心掛けるといいです。 波動のレベルの高いモノを見極めるためのコツは、出来るだけ心をクリアーにして己が『直感』を大切にすることです。 具体的には、フワッと軽くてスカッと明るく感じるモノや人に親しみ、ドヨヨ~ンと重くてジトッと暗く感じる場所や出来事を出来るだけ避ければいいのです。 或いは何時も穏やかで温かくあろうと心掛けて、荒々しく冷たい態度は極力取らないように
森羅万象すべてのモノには波動があります。 波動があるというのは常に動いているということです。 動き続ければブレやらズレやらユガミやらが必然的に現れます。 そのブレやらズレやらユガミやらを毎日コツコツ修正する作業が『生きる』ということなんじゃないでしょうか? 『生きる』ということは生が終わる地点まで己が命を運ぶということでしょう。 命を運ぶのが運命なら、運ぶためのチカラが常に動いているエネルギーの波なのです。 逆にいえば常に動くことでエネルギーは生まれます。 エネルギーがなければ生きてはいけません。 だから、生きてる限りその波に乗り続けるしかないのです。 上手いこと波に乗れるか乗り損なうかが運命の分かれ目です。 運命ってのは相対的なものです。 世の中のモノはすべて相対的に出来ています。それは、それぞれの運命は常に絡み合い、影響を与え合いながら存在してるってことです。 だから、人と交わり、この
自動車にはアクセルとブレーキが付いているので、自由に動いたり止まったり出来ます。 ブレーキとアクセルは二つで一つです。 どちらか一つだけならクルマはちゃんと動けません。 人の心でいえばアクセルは『ポジティブ』、ブレーキは『ネガティヴ』と言えるでしょう。 もっと砕いていえばアクセルは「前に向かって行きたい心」、ブレーキは「現状維持したい気持ち」みたいな感じです。 さて、「何故心にブレーキがかかるようになってるか?」ですが、それは前向きに進むことに対して不安や恐怖を感じるからです。 じゃあ、そのブレーキは不要であり悪なのかといえばそんなことはないのです。 人間は不安や恐怖が有るお陰で慎重さや疑問を持って考えるチカラを手に入れることが出来るからです。 もし不安も恐怖も全くなければ、未知なる危険に対して、多くの場合ノーガードで突っ込んでいくということになるでしょう。 不安や恐怖は、降りかかる危険を
所謂『予言』ってヤツは『当人にだけ都合のいい一発逆転』を求める人の最後の拠り所なのでしょう。 少なくともそういう願望を抱く人にとって都合の良い『設定』なのは確かです。 それは、「この世界そのものが一旦ガラガラポンされて、それまであった都合の悪いモノが全て粉々になってから新たな出発をする」というような『設定』のことです。 その『設定』には「それをカミサマみたいな善いモノがずっと昔から望んでいるのだ!」みたいな『設定』が2段重ねで乗っかっています。 なので、所謂『予言』というのは「この世界にルサンチマンを抱く者の破壊衝動の産物だ」と言い換えることができます。 噛み砕いていえば「オレが本気出したらこんなモンじゃねぇ! オレが評価されない世の中なんて一度全部滅んじまえ! 滅んだ後はオレ様仕様のパラダイスがきっとやって来るはずだからな!」みたいな願望の具現化なのでしょう。 所謂『予言』というのはルサ
ここでいうところの『呪詛』というのは「誰かに対してエネルギー的に眼に見えないカタチでネガティヴな影響を与えようとする方法または手段の全て」とお考えください。 マジナイ・ノロイ・呪術・念送りなどと呼ばれる類いのモノもすべて含みます。 一般的に使われる『呪詛』という言葉の意味より随分範囲が広くなっていますが、他にピッタリ当てはまる言葉も中々無いのでそんな風に使わせてもらっておりますm(_ _)m 世間一般でいう呪いの類いっていうのは「古くから行われていた呪術を伴うモノ」として認識されている気がします。 丑の刻参りみたいな特殊でオドロオドロしい独特な儀式を伴うようなものとしてです。 呪いというのは、一般的にそういう『儀式ありき』でしか成り立たないモノと思われている節があります。 『呪詛』を行う場合の技術や方法論が一番大事と考えられているのです。 しかし、そもそも呪いの方法が古来からのやり方に合っ
ある時メンターという言葉を知りました。 「優れた指導者。助言者。恩師。顧問。信頼のおける相談相手」という意味らしいです。 自己啓発系の人とかがよく使われる言葉のようです。 「成功したければメンターを持ちなさい!」みたいな感じでね。 でもね、そんなにホイホイ持てるものなんでしょうかね、メンターとやらは? 例えばメンターを親友という言葉に置き換えてみます。 フレンドリーな性格の人なら、ユルい友人程度の知り合いならすぐに出来るかもしれません。 でも、親友ってなるとどうでしょうか? 交友関係の広いっていう人でも親友と呼べるような人間が片手以上いるなんてことは滅多にないだろうと思います。 ていうか親友なんてそうそう出来るモノではないでしょう。 ましてや狙って作れるモノでもないと思います。 「私の親友いませんか〜?」って呼んで歩いたら出てくるもんでもありませんしねぇ。 親友と呼べるような存在がいない人
人間というのは本質的に無知な生き物です。 人間ごときが何でも分かるわけがないのですから当たり前です。 でも、知らない部分は何かで補わなきゃなりません。 その何かとは簡単にいえば『想像力』です。 ここでいう『想像力』とは知らないなら知らないなりに一生懸命察したり慮ったりしようとする心の働きのことです。 先ず自分の無知を皮膚感覚で知ることが『想像力』を養う第一歩です。 逆に知ったつもりになればなるほど『想像力』を失っていきます。 全能感ほど無知から遠いモノはないからです。 ここでいう全能感とは何でも知っていると思い込むココロのことです。 「全能感が強い」というのはそれだけ「心の視野が狭い」ということを意味します。 心の視野の狭さとは人間に本来備わった危機察知能力によって感じられるはずの感覚が十分感じられなくなった状態のことです。 心の視野が狭くなるほど周りのことなんて見えなくなります。 見えて
人間生まれた時はみんな赤ん坊で、あっちへ頭をゴチンとやり、こっちでドタンとコケながら大きくなっていくものです。 大怪我しない程度にそういうのを体験しなければ歩けるようにはなりません。 マトモに歩けるようになるためには、そういう痛い思いを味わいながら『学習していくこと』が必要ってことです。 試行錯誤を繰り返しながら前へ進むしか人の生きる道はないのです。 それは身体だけではなく、心もまた同じです。 試行錯誤を捨てさるのは、生きながら死んでいるのと同じことです。 どんな進歩でも進歩ってのは、あっちへぶつかりこっちで躓きながら、その結果として何かを掴むことで初めて成り立ちます。 たまたまでは無く必然としてね。 それでも、世の中には試行錯誤を何とかして放棄して楽に世渡りをしたいって人々が絶えることがありません。 『ブレない自分』とか追い求める方々もその中の一つです。 「ずっとブレない」というのは「自
ロシアンルーレットは、回転式拳銃(リボルバー)に1発だけ実包(弾薬)を装填し、適当にシリンダーを回転させてから自分の頭(特にこめかみ)に向け引き金を引くゲーム。 心霊スポット巡りというのは、ロシアンルーレットみたいなモノです。 これまで何も起こらないからといって、これから何かが起こらない保証は何処にもないって意味でね。 ロシアンルーレットでいう『一発の弾丸』がいつどこで炸裂するかなんて誰にも分からないってことです。 というか最初から「弾丸(危険性)がない」と舐めて掛かると痛い目にあいます。 そういうことは別に心霊スポット巡りだけではないです。 そういうことっていうのは「無知による思い込みによって危険性をことさら低く見積もる行為」のことです。 で、「最近世の中にはロシアンルーレットをロシアンルーレットと認識しないままやってる人が実に多いなぁ」って感じるのです。 心霊スポット巡りの話に限らずで
人間はすぐに自然を支配したがりますが、人間が自然を支配下に置くことができるって考え方自体傲岸不遜であろうと感じます。 そもそも不自然で、無理があるからです。 人間は自然という巨大なモノの『微細な一部』に過ぎません。 自然の中に動物がいて、植物がいて、人間がいるのです。 自然にとって人間が特別だったことはないし、これからも特別であることはないでしょう。 私の場合「人間って地球で一番偉いんだぜぇ!!」的な世界観を抱いたことがありません。 というか「人間ってなんて出来損ないの生き物なんだろう」という想いがずっと心を離れないのです。 それは大層な思索探究の末に辿り着いた結論などではなく子供の頃からずっと心の奥底にあるものです。 自然を支配したがる人ってのは心の根っこに「人間って地球で一番偉いんだぜぇ!!」的な世界観がある気がします。 というかそれがなければ自然を支配しようなんて考えないでしょう。
私のヒーリングを受けた方はご存知ですが、ヒーリングをしている時というのは時々ゲホゲホとかいう以外は見た目は基本黙って静かな状態になります。 「何やってんだ? このおっさんは~」って感じかもしれません(^_^;) そういう時に何が起きているのかというと簡単にいえばあまり良くないエネルギーが出てきているのです。 あまり良くないエネルギーを線香の煙みたいなモノと捉えてもらえれば分かりやすいのではないでしょうか? 線香の煙がブワッと顔にぶつかった感じと申しましょうか… まあ、いつも必ず咳き込むわけではないです。 また正直「どうして咳き込む時とそうじゃない時があるのか?」その違いについて深く考察したことはありません。 ただ、「咳き込んだら良くないモノが出てきてるだろうな」ということを経験則として持っているのは事実です。 ヒーリングで浄化する相手には生きてる人の想念エネルギーや亡くなられた方々やら物の
何らかの現象があるならば必ずそれ相応の『原因』があります。 逆に言えば『結果』の無い『原因』なんて何処にもないということです。 それがここでいうところの『因果応報』です。 なので、因果応報というものは全ての事象に遍くあります。 ただ、それが一人の人間サイズの時空間にスッポリ収まるとは限りません。 また誰もが分かりやすく認識できるカタチで、いつも表現されるわけではないのです。 それに、因果応報って言っても悪いことばかりを指すわけじゃありません。 その人の積み上げてきた原因は吉凶禍福いずれにしろ結果を生みます。 その人の選び取ってきたことの『報い』として必ずね。 何が言いたいかというと、「今まで自分が生み出した原因の数々を、これからリセットは出来ない」ということです。 良い意味でも悪い意味でも『報い』はいつか受けるでしょう。 それは人間は否応無くこれまでの生み出した原因の『続き』を生きるしかな
波動のレベルの高いモノはフワッと軽くてスカッと明るく、波動のレベルの低いモノはドヨヨ~ンと重くてジトッと暗いのです。 別の言葉で言えば波動のレベルの高いモノは穏やかで温かく、波動のレベルの低いモノは荒々しく冷たいのです。 波動のレベルが下がれば下がるほど、より波動のレベルの低い人•物•場所に親近感を持ちやすくなります。 「親近感を持つ」ということは、「それらがウエルカムな心の状態になっていく」ということです。 何が怖いってその心の状態になるのが一番怖いわけです。 何故なら、そのことによって他人からすればドン引きするようなモノを自慢して見せるような『鈍感さ』を手に入れてしまうからです。 すなわち、それは波動のレベルの高いモノに対する共感性を失うことを意味しています。 波動の低くなった人が行き着く果てを一言で表すなら「ストーカー的な気質」です。 「ストーカー的気質」になると「相手の気持ちを察す
この世においては肉体を持っているということは圧倒的な強みです。 肉体がないモノと肉体のある者とではエネルギー的な強さが全く違うのです。 よって、肉体のないモノは肉体を持つ者に『依代』を求めたがります。 ここでいう『依代』とは現実世界にアクセスするためのツールという意味です。 逆にいえばその依代が無ければ肉体のないモノたちは現実世界に強力にアクセスすることが出来ません。 身体を持たないエネルギー体がこの世界で制約もなく動き回れるのなら、何もわざわざ生きている人間と所謂『悪魔の契約』など結ぶ必要はないのです。 自由気ままに人間に取り憑いたり離れたりすればいいだけの話ですので。 ここでいう『悪魔の契約』とは人間が物の怪などの人外のモノから何らかの現世利益(金儲けや立身出世、超自然的なチカラの取得など)を得るためにする『取り引き』のことです。 『取り引き』することによって人外のモノとギブアンドテイ
世の中には「ありのままの自分」みたいな言葉を好んでお使いになる方々がいらっしゃいます。 「ありのままの自分を認めましょう! そうすれば心はまるっと解放されるのです\(^-^)/」みたいな感じでね。 でも、『ありのままの自分』の自分ってのが何なのか私には分かりません。 自分の魂のことなのか? 自分の肉体のことなのか? 自分の心のことなのか? どれなんでしょうねぇ… あと、「ありのまま」ってのは時間軸でいえば「現状そのまま」ってことになるのでしょうかね? 以下は「ありのままでいい」ってのは「現状をそのまんま変えないぞ!」って意味だという仮定の上で話を進めます。 もしそれが心のことなら「ありのまま」じゃあ、ダメでしょう! そもそも「心は磨いて育てなけりゃならないもの」ですから、現状維持では困ります。 もしそれが肉体のことな、「ありのまま」じゃダメでしょう! あっという間に締まりのない不健康な身体
眼に見えない世界の情報というのは現実に裏付けが取れないことのほうが圧倒的に多いです。 だから、幾ら本物っぽく感じたとしても眉に唾付けて3割引くらいで捉えておいたほうが無難ではないでしょうか? それは別に目に見える現実社会でも同じです。 この『3割引』の視点というのは物事を俯瞰的に見るためには随分役に立ちます。 『3割引』の視点ってのは、簡単にいえば自分を含めて「世界は絶対じゃない」という想いをいつも忘れないということです。 「世界は絶対じゃない」という想いというのは、「人生には或いは世界には、いつどんなどんでん返しがあるか分からないよね」って感じていることです。 そのどんでん返しってのを小難しい言葉でいえば『コペルニクス的転回』ってヤツです。 人間は元々主観的な存在です。 純粋に客観的な視点を持つ人間などというものは一人も存在しません。 主観というものには大なり小なり偏りが存在します。 一
とにかく「昔は良かった!」っていう人がいらっしゃいます。 堕落した『現在』と理想郷であった『過去』を対比させるような心の在り方です。 昔の人は立派で純粋で、今の人間は心も身体も堕落してしまったと考えているのかも知れません。 「時代を経るにつれ世界は段々ダメになる」って考えるのは仏教の末法思想やユダヤ・キリスト教の終末思想もそうですし、古今東西よくある考え方なのでしょう。 私からしたら時代が進むほど世の中なり人間なりがダメになるって考えるのは、「現在進行形の『世界』を呪詛してるだけだろう」と感じてしまいます。 本当は大して良くもなかった『過去』を持ち上げることで、今ここにある自らの不遇を『世界』のせいにしようとしているだけだとね。 非常時の今の世の中においては、理想郷であった『過去』は『古き良き日本』として表現されたりします。 そして、「昔の日本は今のような『堕落した道徳なき国』などでは決し
「みなさんご存知の通り…」 「みんなこれくらいは知ってると思うけど…」 「これは常識だと思いますけど…」 繰り返しこんな感じのことを言うか、もっと巧妙ならそういう言葉すら直接使わずにそういう雰囲気を醸しだす物言いをよくする人が自分の周りにいたら気を付けた方がいいでしょうね。 日頃からそういう話し方を常としている人は「自分の言ってることは正論である、真実である」という前提で話を始めようとしてる可能性が高いからです。 ある種のマウンティングなんでしょうけどね… 「自分は本当のことを何でも知ってますよ!」って感じを出して、「自分の言うことと違うこと言ってるヤツは間違ってるから!」って言外に匂わしているわけです。 「オレの言うことだけが正しいんだからな!」ってレッテル貼りを暗にしているのです。 そうやって最初に一発カマシに行くスタイルって、世の中のあちこちで使われてるようにお見受けします。 最初に
自分の意見をハッキリ表明すること自体はなにも悪くありません。 ただ、自分の意見だけが唯一絶対の真実のように語るのは如何なものでしょうか? いや、単に人に語って聞かせるだけなら、まだマシな気がします。 問題はそれをむやみに振り回して他人を攻撃するための武器にすることです。 個人的には表向きだけでも〇〇説みたいに主張すれば随分マイルドな感じになるのになぁって考えるんですけどねぇ… 少なくともそういう言い回しをすれば相手の意見を100%否定することにはならないので。 例えば古代史好きなら邪馬台国の所在地には畿内説と九州説があるのをご存知でしょう。 二つの説を提唱する人々が、それぞれ長い間自説の正当性を主張して来ました。 それでも、それはあくまでも仮説です。 ご本人たちに幾ら確信があったとしてもです。 自分の正しさを主張したい方々も、そういうスタンスで自己主張されたらいいのになぁと感じるのです。
ここでいう所謂カミサマってのは何かと申しますと「これまで世界のどこかで人間によって崇め奉られてきた眼に見えない存在全般」を指します。 そのカミサマの所謂一つの正統性だの妥当性だのってモノには関係なくね。 今回に限らず私がカミサマって言う時はそういうモノのことを想定しているとお考えください。 簡単にいえば「時代や地域に関わらず誰かが神さまって呼んできた眼に見えない存在はとりあえず丸ごと全部カミサマという『ジャンル』に分類しますよ」ってことです。 じゃあ何故そんな風に神を規定するのか?というと、そもそも見えない『何か』に神という名を付けたのは他ならぬ人間だからです。 「神というのはあれでそれでこれで、こういうモノなんだ!」みたいな概念を造ったのが人間だってことです。 もっと簡単にいえば、何処かの誰かが神さまって呼びたい何かを「これは神さまだよ〜」って呼んでるだけの話です。それ以上でもそれ以下で
波動のレベルの高いモノはフワッと軽くてスカッと明るく、波動のレベルの低いモノはドヨヨ~ンと重くてジトッと暗いのです。 別の言葉で言えば波動のレベルの高いモノは穏やかで温かく、波動のレベルの低いモノは荒々しく冷たいのです。 日々の何気ない言葉や行動の集積がその人の波動のレベルを形作っていきます。 そうやって形作られた波動のレベルがまた次の波動のレベルの土台となるのです。 日常的に言葉が荒々しいというのはその人の波動が荒々しいということです。 波動が荒々しいということは波動のレベルが低いってことを指しています。 日ごろから荒っぽい言葉を使い続けていると意図せずとも波動のレベルが下がりやすい心のカタチになっていきます。 言葉の荒々しさには荒々しい想念エネルギーを増幅させやすい性質があるからです。 実際荒々しい行動や言動を繰り返す人の波動のレベルはドンドン低くなっていくものです。 だから、その人の
所謂一つの『宇宙人神話』って個人的に呼んでるモノがあります。 ここでいう『宇宙人神話』というのは「遠い宇宙の果てからやってきた知性体が高度な技能によって地球を生物の住めるような星に改造し、人類という存在をテクニカルに作りだしたのだ!」という風なお話全般のことです。 元々そういう類いのお話は「地球人と同じように物理的に存在する先進的な宇宙人が、この地球上で人類の歴史に関わるような色んな工作を行ってきたんじゃないか?」というような話が主流だったと思います。 例えば「宇宙船に連れ込まれて発信機みたいなものを埋め込まれた」とか「ミステリーサークルが一夜にして出来てた」とか、あくまでも現実世界で起こっている出来事という体で話が進められていました。 ただ、今の宇宙人神話というのはそういうのとは随分違っているように感じます。 今の宇宙人神話に出てくる所謂『宇宙人』というのは、昔テレビのUFO特番で見てい
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