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WWDC24
king-biscuit.hatenablog.com
*1 思えば、GⅠという響きが特別なものになったのはいつ頃からだったろう。 グレード制の導入以前、今でいうGⅠにあたる重賞はもちろんあったけれども、だからといって、それらの全部が今みたいに大層なものだったわけでもない。 たとえば、いい例が安田記念。それまでもマイルの重賞としては知られていたけれども、正直、今の感覚で言えばGⅢ程度の軽いもの。同じく、スプリンターズステークスにしても、6ハロンという特殊な距離の重賞というだけのことで、まさかそれが今みたいにGⅠに格付けされることになるとは、その頃ちょっと思ってもみなかった。朝日杯にしてもそうだ。暮れの二歳(当時は三歳)チャンピオン決定戦という意味はあっても、まさかGⅠの大一番になるとは誰が予想していただろう。 もうさんざん言われつくしていることだけれども、グレード制の導入というのは単なる重賞の格付けのためだけではなく、スピード重視、マイラー重用
監督は岡本喜八。脚本は森崎東。タイトルはズバリ、『夏生の従軍慰安婦』。こんな映画、撮れないもんかね。いい反戦映画になると思うんだけど。 こういう馬鹿話に破顔一笑、いいねぇ、と笑ってくれる人間というのは信頼できる。ただし、何に対するどういう信頼か、というのが、実はかなり言葉に乗せにくい、お互いニンゲンやって生きるしかない以上、逃げようのない難儀でめんどくさい部分なのだけれども。 ● 以前、メディアの舞台に登場し始めた頃の岡本夏生が、すごく気になっていた。 どういう経緯、どういう紆余曲折の後にテレビの中、雑誌の上に彼女がその姿を見せるようになっていたのか、ひとまずまったく知らなくても、いずれひと山いくらで扱われていることがあからさまな“そういうおねえちゃんたち”の中で、彼女はどこか違っていた。 で、それがどういう「違い」だったのか。気にはなっていたものの、日々のあれこれにとりまぎれていたある日
いつの頃からか、「趣味? 革命」と言ってのけるようになっていた。「革命」と「趣味」との間の、かつてあり得た距離感を前提にしないと、この男前ぶりはわからない。そして、それを敢えて腕力一発、ぐいっ、と手もとで引き寄せようとする天衣無縫と、読後かすかにたゆたう愛嬌こそが、平岡正明の身上だった。 無冠のもの書き渡世の常、くたばっちまえばそれまで、一緒くたに「評論家」で片づけられちまう。上等だ。斎藤緑雨賞やら何やら、同情のかけらもないとりまきが晩年、投げ銭よろしくくれてよこしたガラクタなど、この際、まとめて忘れちまえ。かつて「革命」にうっかり激発、アメ車も裸足で逃げ出す大排気量で常に軽挙妄動、ところ構わず全天候走破したこの稀有で無頼な知性の軌跡はそれ自体、いまや地に堕ちちまった「革命」を瀕死、かつ最高の水準で転生させんとひとり踊り続けた生涯一「左翼」、まさに奇跡のごとき存在証明だった。 60年安保を
● 24時間テレビ、という偽善がある。日本テレビが勧進元となって毎年、夏場に臆面もなく繰り広げられる、いまや威風堂々、眼のそむけようすらないくらいの偽善である。 初手から偽善だった、とは言わない。善意が年月を経るうちに、そこに取り巻いた名もない小さな考えなしが積もり積もって、いつの間にか身動きとれなくなり、今や堪え難い腐臭を放ち始めてすらいる、まあ、そんな感じだ。 それは、出発点においては、テレビというメディアが「茶の間」とつながり、そのことによって「世間」をある方向に組織することがみるみるうちに可能になっていった、おそらくはその最大版図の段階において企画されたものだったはずだ。第一回は78年。「愛は地球を救う」のスローガンを掲げ、総合司会として大橋巨泉などと共に彼、萩本欽一の名前が当時からすでに中心に。その後30年、メディアと情報環境の変貌の中、その偽善ぶりはある形式を維持するようになっ
*1 キャバ嬢の社会学 (星海社新書) 作者:北条 かや発売日: 2014/02/26メディア: 新書 「新書」というパッケージが書店の書棚の多くを占めるようになったのは、ここ10年くらいのことでしょうか。それまでの「文庫」と同等、いや、どうかするとそれ以上に大きな面積を占有していたりする。版元もそれまでの新書の老舗だけでなく新規参入おびただしく、中身についてもまた、かつての新書のイメージからすると場違いと感じてしまうような領域にまで広がっています。 本書もそんないまどきの新書パッケージならでは、の一冊。話題にもなり、それなりに売れもしているのでしょう。版元もまた、ラノベなどを糸口に若い世代の書き手を使ってweb展開をしてきた講談社のいわば別働隊。新書についても旧来の新書らしからぬテーマや切り口のものに意欲的に挑戦してきている会社。良くも悪くもいまどきのそういう「新書」のあるひとつの典型、
―― 一般の人は、花柳界といふ名で特殊部落のやうにかたづけ、時としてさげすみさへするし、文人たちも花柳小説と呼んで外道のやうにあつかひ、花柳界の人たち自身も弱い稼業とか、水商賣とかいふ風に、自らを卑下したがるのだが、もっと眞實に、親切に見なほすことは文人として大事なことだと私は考えてゐる。*1 ―― 平山蘆江は気分の好い男にて、気が乗りさへすれば、骨身を惜しまずに働き、文章にも一家の風味を有す。都新聞の記者として、この平山蘆江ほど、都式に出来て居る感の人は、他に一人も無し。*2 はじめに 平山蘆江という人 「三羽鴉」のやんちゃ――みはる、芋作、そして蘆江 「艶ダネ」と「ナマ師」――長谷川伸との距離感 1.はじめに 平山蘆江、のことを、そろそろ語ってみようと思います。 明治末から昭和初年にかけて活躍した新聞記者であり、その後、社を離れ独立、戦後に没するまではずっと作家として仕事をしていた人。
1.盗作とは一種の病気であると言われていますが、なぜ盗作・剽窃を行うのか をご解説ください。 万引や痴漢と同様、性癖としてどうしようもない部分もあるんでしょうね。精神科や心理学なんかの専門的な見方は知らんですが、素朴に「ビョーキ」であり、しかも昨今完治しにくいものになっちまってるかも。 自分を良く見せたい、認められたい、という意識が肥大して、自分で制御できないまま暴走しちまった状態なわけで、誰しもそういう欲は当然あるんですが、それをまわりとの関係の中で何とか落ち着かせて、理想の自分と現実の自分の折り合いをつけて生きている、それを思い知ってゆくことが「オトナになる」ことだったりするわけですよね。 でも、それをごまかしてかいくぐりながら、それなりにまわりからスルーされたり相手されなくなったりして、自分じゃ制御できなくなった状態のまんまうっかりトシだけ食っちまった状態、ってのも昨今、増えてるんじ
神戸財界開拓者伝 作者:赤松啓介メディア: 単行本 民俗学者赤松啓介の最良の仕事は何か、と問われれば、迷わずこの『神戸財界開拓者伝』を推す。 初版は一九八〇年七月、神戸市長田区の太陽出版から出されている。箱入り六五九ページの布装。色はなんというのだろう、ひとまずダークブルーと言っていいのだろうが、しかし紺や藍といった系統でなく、むしろもう少しバタ臭い印象の微妙な軽さ明るさのある青だ。背表紙だけは金文字押しだが、それ以外は裏表とも何も書かれていない。社史とか業界史といった書物に通じる地味な造本である。奥付には「頒価三五〇〇円」とあるから、一般書店に卸され市販されたというより、むしろ関係者とそのまわりに限定販売のような形で流通したものらしい。今でも古書展でそれほど高い値段がつけられているわけではないが、部数自体が限られていたのだろう、とにかく見かけることはまれである。 僕は神戸のある古本屋の棚
*1 ――ぼく自身、大衆の側に立って映画を作りたい。それを忘れたから、だんだん映画というものをみんなが見なくなったのじゃないか、と思っています。ぼくは、そういう立場で映画を作り続けたい、と思っている人間だし。 ――貧乏に耐えて、歯を食いしばって一生懸命映画をつくるというのは大事なことですが、ただそれが「売りもの」になるのはおかしなことです。「こんなに一生懸命に作ってます」と言われたって、お金を払って見る観客には関係のないことですから。 ● まずは過去形で始める。山田洋次が好き、だった。 若い頃撮った『馬鹿シリーズ』は、黒澤だの小津だの今村昌平だの岡本喜八だの増村保造だのの作品のいくつかと同格、未だに個人的なベストフィルムのひとつ。ああ、ハナ肇の身体を存分に使い回したあの味わいは、民話にも等しい定型の〈おはなし〉の盤石さとあいまって、ニッポン映画ってすげえ、とケツの青い生意気盛りの十代にして
● ツバメが低く、高く、何羽も飛び交いながら舞っていた。馬道の小川に沿ってそよぐ柳の木々には、透き通るような新緑が彩られ、馬たちはというと、いつもと同じ歩みで仕事支度、時に一般道を横切りながら、競馬場へと向かう足どりをゆっくりと運んでゆく。 5月初旬、少しだけ汗ばむようになってきたニッポンの初夏。木曽川のほとりの何でもない風景に埋め込まれた、小さな競馬場とそのまわりのありふれたひとコマ。 笠松である。地方競馬である。「名馬、名手の里」の看板もけなげな、小さなイナカの競馬場である。 この笠松、昨今はあのラブミーチャン、でにわかに名をあげている。 いや、本当なら、にわかに、どころじゃない。2歳牝馬ながら堂々、昨年のNARグランプリ年度代表馬。つまり地方競馬の頂点に立った。しかも、同じ地方でも南関東などとは違う、あの笠松から出現した久々の全国区の大物となれば、もっともっと騒がれていいはず、なのだ
*1 *2 ● 初めてご尊顔に接した時の印象は、「うわっ、な、なんなんだ、こいつ」だった。 忘れもしない、いまから十年ほど前のこと、当時十万部以上を売るベストセラーになった『知の技法』だった。名前からして堅苦しさバリバリな東京大学出版会が珍しく商売っ気を出してこさえた本。なにせ、東京大学教養学部「基礎演習」のテキスト。現役の東大のセンセイ方その他が腕まくりして、世の善男善女に「当代、ガクモンのススメ」を懇切丁寧に手ほどきしようとした、つまり90年代に入ってこのかた雪崩を打って世間の信頼を失っていったいわゆる文科系、大学で言うところの一般教養まわりのガクモンのありようをなけなしの「東大」ブランドふりかざして何とかしようと獅子奮迅、まあ、その意味では志そのものは悪くない企画だったのだけれども、そんな中、やっこさんだけはすこぶるつきに浮いていた。 書いた原稿の中味が、ではない。巻末、ずらりと並ん
● ある名もない競走馬の話、である。 ソリダリティ(アア)牝 12歳 鹿毛 2002年4月12日生まれ。 父 レオグリングリン、母 オリビアン、母の父 ファストセンプウ。 戦績125戦30勝。2着24回3着14回4着7回5着8回着外42回。連対率43.2%。 所属競馬場……福山〜高知〜福山〜高知〜荒尾〜福山 福山42戦 10-7-2-23 高知50戦 15-10-7-18 荒尾31戦 5-7-5-16 合計125戦 30-24-14-57 獲得賞金5,944,000円。 「アア」、つまりアングロアラブ。少し前までなら競馬新聞の馬柱の隅、血統欄に小さく付けられたりしていた表記。サラとアラブの混血で、アラブ血量25%以上の馬に対して使われた呼称。俗に「アラブ」と呼ばれ、サラとは別の番組、別の編成で同じ競馬場に共存していた馬種。今や昔話にしかならなくなった。 どうせそんなのまた、ほら、地方競馬だ
● 事件現場となった佐世保市立大久保小学校のすぐ脇のバス道にある「大久保小学校上」の停留所。校庭の右手からずっと昇りで続いてきたバス通りの坂道が左手に巻き込むように曲がり、さらに昇りになって登ってゆく、その途中にちいさな日除けとともにしつらえられている。停留所の標識は縁が錆びて、わずかに曲がっていたりするのはその程度にこの場所になじんでいる証拠だろう。 校庭の高さから昇ってきたこのあたりは、ちょうど三階建て校舎の三階くらいの高さにあたる。それくらいの高低差が、学校を四分の三ばかりを取り巻くこのバス道に与えられていることになる。 この季節だけに陽はたっぷりと長い。そのせいか、校庭にはちらほらと遊ぶ子供たちの姿がまだ見える。いまどきの金属バットに、あれはテニスボールだろうか、やたらよく飛ぶボールでの野球のまねごとは、それ自体は今もどこにでもありそうな子供の風景だ。 この大久保小学校、山道の途中
薄く霜がおりたようなフロントグラスに、はじける朝の陽がまぶしかった。くたびれた商用バン、使い込んだディーゼルエンジン特有のあのゴロゴロ音とすすけた排気ガス臭が、見渡す限り真っ白な冬の雪原に似合っていた。 とりあえず除雪だけされた黒い帯のような片側一車線。30代そこそことおぼしき地元のアンちゃんに送ってもらう途中のこと。山口昌男の亡くなったことを話題にしてみた。 「ああ、そうらしいですねえ」 舗装の凍ったソロバン道路。後部座席で書類が飛び跳ねるのを少し気にしながら、彼はそう言った。 「有名な学者さんですよね。ここで生まれたってことは知ってますけど」 それ以上、話は続かなかった。 3月16日、告別式の日、道北は美幌町。たまたま、地元の教育委員会から講演を頼まれていた。地元の若い衆も交えての歓談も無事にすませて宿に荷を解き、ぶらり散歩に出かける途中で初めて、あれ、と気がついた。確か山口さんって、
「現在が一つの「転形期」であるという切迫した認識は、昭和10年代をつらぬく思想の核心部分でもあった。そして、その意識の一般化を媒介したものは、ここでもやはり普遍史の理念をつたえたマルクス主義にほかならなかった。」 ――橋川文三「昭和10年代の思想」 ● 何かの再演、になりそうなことは、どうやら間違いないようです。それも、初演時に比べれば相当に劣化、にわかには直視できないような醜悪なシロモノとして。 何度も繰り返しコピー&ペーストをかけられ、すでに元の絵が何だったのかわからないくらいグダグダになったデジタル画像のようなもの。はっきり局所にだけモザイクかけられたエロ画像よりも使えない。あるいは、どこが芸なのかすでに出自不明になってしまったいまどきの自称「お笑い」のやりきれなさ、とか。 民主党とその周辺が今回の衆院総選挙を介して隆起させつつある現実、のことです。 既存のもの、と、そうでない何か新
● 今はもうなくなっちまったけれども、かつてそれなりにカッコいい場所とされてもいた池袋のスタジオ200で、何やら連続講座をやっていた時のやつの身振りを思い出す。 借りてきたようなスーツ着込んでさ、片手に役人みてえなブリーフケース抱えてさ、教室の後ろからいかにももっともらしい風でしゃなりしゃなりとやってきやがった。で、たどりついた教卓の上に、そのケースからメモや書類をうっとりと取り出すその手つきのいやらしさ! ほらほら、こうやってセンセイやってみせてるボクってなんてステキ、てな恍惚丸見え、ああ、こいつ、こういう身振りでこういう「センセイ」ぶり、「文化人」ぶりをやらかしたかったんだろうなあ、というのが、あまりに露骨にバレてしまうみっともなさだった。 いや、そりゃね、田舎モンったらそれまでなんだけど、でもって、そういう客気や若気の至りもある時期肥やしになったりするってのもわかるんだけど、でも、こ
● 阿る、という日本語を、やはりここは一発、記憶の昏がりから引っ張り出して使っておかねばならないようです。 おもねる、と読む。いや、読者諸兄姉には釈迦に説法、いまさら何を賢しらに、とお叱りを受けるのが関の山でしょうが、それほどまでに昨今、このことばは普段、耳にも眼にもしなくなって久しい。だからこそ、です。 辞書や辞典の類をめくると、「気に入られようとする」「へつらう」といった説明が加えられています。あまり気色のいい日本語じゃない。でも、まさにこの「阿る」としか言いようのないみっともない醜態をさらしているのが、昨今のニッポンの政権であり国家であり、いずれ「権力」とひとくくりにして構わない手合いであります。 阿る、ってどこに? 決まってますがな、かの半島方面、とりわけ今は南半分のあの国――「韓国」に、です。 もちろん、これまでもそういう傾向はありました。仮に永田町に限ってみても、ことは今の政権
日記ではありません。 活字メディアでの仕事(主として原稿)を、執筆日時順に整理してあります。 発表原稿が主ですが、時に未発表原稿、未定稿、取材メモなど、 それと写真も混じります。 あ、あと、たまに気が向いたら、仕事まわりでの私的な覚え書きや雑感なども…… 時期的にはおおむね2000年以降のものが主になってます。 それ以前のものは、随時発掘、整理して加えてゆければ、と。 収録してある原稿の一覧は、id:king-biscuit:archive へ。 ブログというフォーマットを、 個人の日記や私的な雑録以外に利用する手だてはないのかな、と、ずっと考えていて、 プライベート設定で試行錯誤していたものを、思い切って公開にしてみました。 ささやかながら、ひとつこういう試みもあるのかな、という感じです。 書籍以下、活字メディアの流通がどんどん窮屈になってゆく中で、 活字へと開いてゆくための、 ある種イ
田口ランディその「盗作=万引き」の研究 鹿砦社Amazon *1 田口ランディ、という稀代のバカが一匹、ネットの居留地からうっかりとさまよい出て、ところかまわず臭い糞を垂れ流しては、世間サマに多大なご迷惑をかけております。 そりゃ何者かい、と問われれば、ひとまず「作家」「ルポライター」、と言っておきましょう。みんな「自称」なんですが。 ブンガクのみならず、もの書き一般に対する世間サマの幻想が徹底的に破壊された昨今、そんなもの書き一匹のことなんざ知ったことかい、と言われるかも知れません。が、しかし、こやつときたらすでに何冊も本を出し、そのうちのひとつふたつは何の間違いか十万部規模での売り上げを記録、さらに今年の春先、わずかふた月ばかりの間に「盗作」疑惑がふたつも連発で表沙汰になり、テレビから新聞その他に至る表舞台のメディアで報道されるという、まずはけたたましい時の人、うさん臭さもコミでの「有
● 「原発」、とりあえず知ったこっちゃねえ、です。 なぜか。だってほんとのところがわかんないから。ほんとのところ、を知るためのことばが壊滅しているとしか思えないから。昨今の「原発」をめぐるもの言いは、上下左右の立場に関係なく、いろんな意味で「戦後」パラダイムがもはやここまで健全かつあっけらかんとグズグズになっちまってたことを反映しているから。そしてそのことを斟酌した言説は現状、ものの見事に表に出てこないから、です。 もちろん、だからこそ事態は依然としてわかりにくい。何が最も本質的な問題なのか、ということも、そしてその問題を解釈する前提も共にグズグズになっちまってるから、語り、論じるに足る前提からして存在しない。情けないけれども、それだけです。 そもそも「原発」そのものが本質的に安全か危険か、という観点から“だけ”でものを言いたがる傾向が、反対派・賛成派共に顕著です。その上で、反対派はおのれ
● 7月31日、金沢競馬場第5競走。C3四組1,400?、11頭立て。 11頭の出走馬たちののべ出走回数、1010回。一頭あたり平均出走回数、91.8回。若い4歳馬二頭を除くと、106.8回。つまり、あれだ、かのハルウララ級がずらり並んでいる、そんな競馬だとまずおぼしめせ。 ああ、これぞ地方競馬のその他おおぜい、日々繰り返されている仕事としての競馬の、どこにでもあるレースのひとつ。いつもと同じ、いつも変わらぬありふれたちいさな競馬。 しかし、それでも競馬は競馬。勝負である。勝ち負けである。だから、身体を張ったかけひきもあれば、命のやりとりだってそこにある。決して大げさでなく、淡々とした事実として。だから、勝負の当事者たちはいつも同じ、知恵をしぼるし緊張もする。 馬の名は、タノムバンチョウ。父はオフサイドトラップ、母はアグネスラークの牡馬8歳。早来は吉田浩三生産の栗毛馬。2005年10月、ホ
一時期、やたら取り沙汰され、とにかく理屈抜きにいいもの、正しい方向として喧伝されてきていた、あの「国際化」とか「グローバル化」といったもの言い、スローガンも、さすがにもう胡散臭いものというイメージがつきまとうようになってきたかも知れません。ウクライナへのロシアの侵攻に始まった戦争、ハマスによるイスラエルに対するテロ攻撃とそれに応じたガザ地区へのイスラエルの反撃、紅海での通商破壊行為……いや、そんな海外ニュースレベルの話でなくとも、国内における外国人犯罪の増加や治安の悪化など、考えてみれば半径身の丈のごく身近な範囲から「国際化」「グローバル化」の〈リアル〉は否応なく、平等に日常に浸透してきています。そういう意味で、これまでと違った身近さ、日々の生活意識や感覚のレベルで 「世界」を意識せざるを得なくなっている。 そういう状況に対応するという意味もおそらくあるのでしょう、テレビや新聞、雑誌などで
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