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戦国に関するnagaichiのブックマーク (179)

  • 戦国武将・毛利隆元の妻の本名にめっちゃホリディを感じる「実名かわいすぎ」「割と何でもアリだな…」

    リンク Wikipedia 尾崎局 尾崎局(おざきのつぼね、大永7年(1527年) - 元亀3年9月30日(1572年11月5日))は、戦国時代の女性。大名・毛利隆元の正室。内藤興盛の三女。毛利輝元、毛利徳鶴丸、津和野局(吉見広頼室)を産む 。実名はあやや(あやゝ)。別名は小侍従とも。法号は妙寿。 尾崎局は、大内氏家臣で長門国守護代内藤氏の当主・内藤興盛の三女として生まれた。天文18年(1549年)、主家の大内義隆の養女となる形で、当時の有力被官で安芸国の国人領主毛利元就の嫡男隆元の正室として嫁した。毛利家中にあって尾崎局は、守護代という格 リンク Wikipedia 毛利隆元 毛利 隆元(もうり たかもと)は、戦国時代の武将。安芸の守護大名、戦国大名。毛利氏の第13代当主。 姓は大江氏。家系は大江広元の四男の毛利季光を祖とする国人領主の毛利氏。周防・長門・安芸・備後・備中守護職として、

    戦国武将・毛利隆元の妻の本名にめっちゃホリディを感じる「実名かわいすぎ」「割と何でもアリだな…」
    nagaichi
    nagaichi 2023/11/28
    やけに現代的な諱だなあ。
  • 織田信長に仕えた時期の豊臣秀吉の書状確認 SNS投稿きっかけに解読 | NHK

    戦国時代、豊臣秀吉が織田信長に仕えていた時期に、合戦に早く駆けつけた自分の家臣に対し、褒美を受け取るよう伝えた書状が静岡県内の一般の住宅に保管されていたことが、東京大学史料編纂所の研究者によって確認されました。信長の家臣だった時期の秀吉の動向が分かる書状が発見されるのは珍しく、持ち主が書状の写真をSNSに投稿したことをきっかけに、解読が進んだということです。 この書状は静岡県在住の宮田岳さんが、豊臣秀吉に仕えたと伝わる先祖のものとして実家で保管していたもので、書状の写真をことし6月、SNSに投稿して広く解読を求めました。 これが、戦国時代の史料の収集と分析が専門で、東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授の目にとまり、宮田さんと連絡をとって実物の解読が行われました。 その結果、署名にあたる花押が秀吉のものであることや、紙の質や筆跡の特徴などから、秀吉が側近に書かせた書状だと確認されたということで

    織田信長に仕えた時期の豊臣秀吉の書状確認 SNS投稿きっかけに解読 | NHK
  • 京都文化博物館「~室町幕府滅亡後450年〜足利将軍、戦国を駆ける!」のポスターに小さく辛辣なことがサラッと書かれていた「大内さんはね…」

    リンク コトバンク 大内義興(おおうち・よしおき)とは? 意味や使い方 - コトバンク 朝日日歴史人物事典 - 大内義興の用語解説 - 没年:享禄1.12.20(1529.1.29)生年:文明9(1477)戦国時代の武将。幼名亀童丸。官途は周防権介,左京大夫。政弘の子。明応3(1494)年,政弘の病により家督を継ぐ。周防・長門・豊前・筑前・石見などの守護。同5年から6年にかけて少弐政資が筑前に...

    京都文化博物館「~室町幕府滅亡後450年〜足利将軍、戦国を駆ける!」のポスターに小さく辛辣なことがサラッと書かれていた「大内さんはね…」
  • いわゆる「薩摩隼人」は言うほど「狂戦士」的ではなかったのでは?という話「特筆するほど強かったわけでない」

    まとめ管理人 @1059kanri そもそも「薩摩隼人」が狂戦士だったか、という部分が既に大きな疑問で、少なくとも戦国期の島津軍というのは現代の一般的(?)認識とは異なり、狂戦士でもなければ、他地域と比べて特筆するほど集団として強かったわけでもない 2023-02-18 22:09:52 まとめ管理人 @1059kanri 現代の極端に戦闘的な「薩摩隼人」イメージは、絶望的な戦況の中で「狂戦士」に成らざるを得なかった西南戦争時の西郷軍のそれを過去に訴求させた面が非常に多いと思っている。太平洋戦争末期の特攻玉砕の日兵士像が過去に遡及されたようなものかと。 2023-02-18 22:09:52 リンク Wikipedia 薩摩藩 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代の藩。藩庁は鹿児島城(鹿児島市)、藩主は島津家。薩摩・大隅の2か国および日向国諸県郡の大部分(現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部)

    いわゆる「薩摩隼人」は言うほど「狂戦士」的ではなかったのでは?という話「特筆するほど強かったわけでない」
  • さまざまな桶狭間

    桶狭間の戦い桶狭間度:★★★★★ 海道一の弓取りと謳われた今川義元の大軍を、小勢の織田信長が打ち破った戦い。「桶狭間は谷だった」「いや山だった」「奇襲だった」「いや正面攻撃だった」など、その実態については今なお盛んに議論される。また、勝利した織田信長がこれをきっかけに勢力を拡大し、のちには天下人となっていったことから、「小大名が敵の大軍を破り、その後の飛躍に繋げた戦い」のことを「〇〇の桶狭間」と言うようになった。 「奥州の桶狭間」人取橋の戦い桶狭間度:★☆☆☆☆ 父親を殺された伊達政宗が、その弔い合戦として畠山氏の二松城を攻めたところ、相手方の救援として駆けつけた佐竹氏・蘆名氏などの連合軍と戦いになった。兵力差四倍以上の相手に正面決戦を強いられることとなった伊達方はほぼ敗勢だったが、勝利目前の佐竹軍が急に撤退したため尻すぼみに合戦は終結した。壊滅必至だった伊達軍がそれを免れたという点では

    さまざまな桶狭間
    nagaichi
    nagaichi 2023/02/08
    尾張って50万石くらいあるんだよね。尾張ほぼ全土と美濃・三河の一部を勢力下に置いていた1560年当時の織田家って、ホントに「小勢」「小大名」だったんだろうか。
  • キムタク信長見たさに46万人が岐阜に…でも美濃といえば斎藤道三じゃないの?素朴な疑問をぶつけてみた:東京新聞 TOKYO Web

    俳優の木村拓哉さん(49)が出演し、46万人が集まった「ぎふ信長まつり」。あらためてキムタク人気を内外に示した形だ。だが、「ちょ待てよ」。岐阜といえば織田信長よりあの男、斎藤道三の地ではないのか。ゆかりの人たちに聞いてみると…。(特別報道部・木原育子) 「皆の者、出陣じゃ!」。6日午後1時過ぎ、岐阜市中心部。木村さんが気勢を上げると、うねりのような歓声が響いた。率いる80人余の武者行列が、街を闊歩(かっぽ)する。 観覧者は、市人口を上回る46万人。来年公開される信長がテーマの映画で主演する木村さんが、同市出身の俳優伊藤英明さん(47)に「信長まつり」のことを聞き、行列への参加を決めた。映画PRの一環だが、観覧倍率の高さが話題をさらい、空前の人、人、人でごった返した。

    キムタク信長見たさに46万人が岐阜に…でも美濃といえば斎藤道三じゃないの?素朴な疑問をぶつけてみた:東京新聞 TOKYO Web
    nagaichi
    nagaichi 2022/11/08
    信長も美濃と縁がないわけではないからいいんじゃね。それよりダーティーというなら、長島の一向一揆を殲滅し、叡山を焼き討ちし、越前で根斬りした第六天魔王のほうが闇が深いとおもう。
  • 信長の「長島一向一揆」攻めの書状 東京大学史料編纂所が確認 | NHK

    現在の三重県に拠点があった「長島一向一揆」を攻略するため、織田信長が大軍で攻める時期を家臣に示した書状が残されていたことを東京大学史料編纂所の研究者が確認したことがわかりました。 戦国武将の織田信長は各地で起きた「一向一揆」と激しく争い、現在の三重県桑名市を拠点にした「長島一向一揆」では3回目の合戦で信長が大軍を差し向けて攻略しています。 書状は、東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授がインターネットオークションで見つけて確認したもので、信長が「長島一向一揆」との3回目となる合戦に向けて準備をしていた天正元年(1573年)に、一揆の拠点近くの城にいた家臣、鎌田新介などに宛てた書状だということです。 この中では、翌年にあたる天正2年の1月から3月ごろに拠点を攻めることを示したうえで、それまで城にとどまり、守りを固めるよう指示しています。 書状は、朱印と呼ばれる末尾の赤い印が切り取られていますが、

    信長の「長島一向一揆」攻めの書状 東京大学史料編纂所が確認 | NHK
  • @忍者研究第3号.indb

    伱 伿 伱

    nagaichi
    nagaichi 2022/06/26
    「按」は「按ずるに」と送ったほうがいいと思う。漢文読みには常識なんだけど。
  • 豊臣秀吉「本能寺の変を事前に知っていた」説は、やはり正しかった…!(藤田 達生) @gendai_biz

    「通説」を「科学」の視点からくつがえして大反響を呼んだ『日史サイエンス』は、このほど第二弾が刊行され、たちまち重版が決まるなど話題となっている。著者の播田安弘氏が試みる「数字」で歴史を読む手法は、専門家もその意義を認めるところで、なかでも織豊期研究の第一人者・藤田達生氏(三重大学教授)は、同書(第一作)で展開された「中国大返し」についての大胆な仮説におおいに共感し、ここに掲げる論考を執筆した。旧暦では能寺の変から440年目にあたるきょう、改めて公開する。 藤田氏自身、最新著『戦国日の軍事革命』では信長・秀吉らの天下統一を火器と兵站システムに注目して読み解く新視点を展開しており、いま、戦国時代研究は新しいフェーズに入った! 実際の行程を推定してみる 能寺の変のあと、秀吉が光秀を倒して信長の後継者として認知され、天下の趨勢を決したのが「中国大返し」だった。それは、秀吉が中国地方の毛利氏

    豊臣秀吉「本能寺の変を事前に知っていた」説は、やはり正しかった…!(藤田 達生) @gendai_biz
    nagaichi
    nagaichi 2022/06/02
    毛利攻めのための後詰め兵站を大返しのための兵站に転用した可能性を想定すれば、とくに不思議はないと思われ。不思議のないところに問題を設定すると、不自然な仮説が支持される。
  • 戦国時代の京都は城と要害だらけだった 京都市内に城館跡159ヵ所|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞

    京都の中世史シリーズ『戦国乱世の都』(第6巻)は、変貌が激しい16世紀の京都の姿を伝える。戦国時代、洛中は上京・下京に分断され、洛外を縁取る山々には、将軍がこもる「城」ができていた。やがて豊臣秀吉により近世都市へ生まれ変わるが、深刻な諸相も。晩年の秀吉に加え、徳川家康も居所にした武家政権の都・伏見の存在感にも光を当てる。 16世紀前半、京都など畿内で室町幕府の足利将軍家や細川管領家、同家の家臣から台頭した三好長慶など複数の政治勢力が対立と協調を繰り返したさまが詳述される。さらに、一揆や町村などの共同体も育ち、発言力を持った。これらが相争う中、「城」「要害」「構(かまえ)」が増えていった。 中近世の城館跡は京都市内で

    戦国時代の京都は城と要害だらけだった 京都市内に城館跡159ヵ所|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞
    nagaichi
    nagaichi 2022/02/08
    船岡山とか山科本願寺とか戦国前期厨には萌えるものがある。
  • 織田信長、豊臣秀吉に先んじて、京と畿内に覇を唱えた者がいた…戦国最初の「天下人」は誰なのか? | 文春オンライン

    『三好一族――戦国最初の「天下人」』(天野忠幸 著)中公新書 戦国時代、「天下人」と言えば織田信長、豊臣秀吉が浮かぶ。だが、彼らに先んじて京と畿内に覇を唱えた者がいた!『三好一族――戦国最初の「天下人」』を上梓した天野忠幸さんは力説する。 「応仁の乱から、織田信長の上洛までの約一世紀、畿内の情勢はほとんど知られていません。当時の首都圏であるにも関わらず、です。関西人として許せません(笑)。理由は簡単で、多数の人物が昨日は味方、今日は敵と入り乱れるため分かりづらい。しかし、実はこの百年間、三好一族は中央政局に関わり続けました。天皇や将軍をはじめ、農民、商工業者、宗教勢力、さらには倭寇(わこう)や明、スペイン、ポルトガルなどとも関わりがあったのはこの一族だけ。彼らを補助線とすれば戦国の日が見えてくるんです」 そもそも争いの元凶は、室町幕府十代将軍足利義稙(あしかがよしたね)と十一代将軍義澄(

    織田信長、豊臣秀吉に先んじて、京と畿内に覇を唱えた者がいた…戦国最初の「天下人」は誰なのか? | 文春オンライン
    nagaichi
    nagaichi 2021/12/25
    読了した。しかし読んで一番印象が変わるのが松永久秀かもしれない。
  • ゆうきまさみ先生「タイムスリップする人、どうしてみんな戦国時代に行っちゃうん?」

    ゆうき まさみ @masyuuki @Takashi_Shiina 先日WOWOWで戦国タイムスリップ物を立て続けに放送してまして、「映画だけでもこんなにあるのか」と(^_^;) 2021-12-14 21:13:40

    ゆうきまさみ先生「タイムスリップする人、どうしてみんな戦国時代に行っちゃうん?」
    nagaichi
    nagaichi 2021/12/15
    戦国は戦国でも骨皮道賢とか細川高国とかのところに飛ばされる人がいない不思議。
  • 戦国時代の銃…その威力と、火薬と、煙の話~立ち込める煙は、戦いにどう影響したのか?

    K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN 火縄銃の射撃の様子は、様々な歴史番組で行われています。でも、アタクシには不満というか、いつもこれでは戦国の人々の経験や使用時の問題点をあぶり出せないと感じています。というのも、使用されているのが現代の火薬だから。当時は黒色火薬で、射撃した後は、黒煙が立ちこめていたハズなんですよ。 2021-09-24 00:30:17 K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN 合戦図屏風は、さすがにその辺をちゃんと描いていて、「長篠合戦図屏風」でも鉄炮の黒煙を表現しています。でも、まとまった数量の鉄炮が射撃すれば、周囲は真っ黒になるはずで、大坂夏の陣では、両軍が射撃を始めたら、周囲が見えなくなったと記録されています。 2021-09-24 00:32:39

    戦国時代の銃…その威力と、火薬と、煙の話~立ち込める煙は、戦いにどう影響したのか?
  • 戦国時代「下克上」は確かに多かったけど「マジ反社」のレッテルも張られるので皆、その回避に必死~という話。

    「実質的に多くなった」のと「世間的にも許容された」のタイムラグみたいなものは、これに限らず現在でも忘れられがちですよね。/たとえばLGBTオタク趣味の社会的認容にもこの時差はあったような?

    戦国時代「下克上」は確かに多かったけど「マジ反社」のレッテルも張られるので皆、その回避に必死~という話。
    nagaichi
    nagaichi 2021/06/01
    むしろ戦国だからこそ大義名分は大事にされてたよね。
  • 武田信玄ゆかりの城から堀跡を発見 日本唯一の「穴城」:朝日新聞デジタル

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    武田信玄ゆかりの城から堀跡を発見 日本唯一の「穴城」:朝日新聞デジタル
    nagaichi
    nagaichi 2021/05/16
    武田信玄とのゆかりが出るのは戦国時代でもかなり後期で、その前は大井氏の城だった。大井氏の遺構か武田氏の遺構か分からないわけで、見出しはミスリードの可能性。素直に小諸城と書いておけば、問題はなかった。
  • 「長篠の戦い」古戦場から新発見~鉄砲玉の鉛の「同位体比」で分かったことは?(平山優)

    K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN 山梨在住の歴史学者。健康科学大学特任教授。ポニーキャニオン所属。著作は、『戦国大名領国の基礎構造』(校倉書房)、『天正壬午の乱』(戎光祥出版)、『武田氏滅亡』(角川選書)、『戦国の忍び』(角川新書)など多数。 K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN え?新聞に発表してしまったの?5月解禁ではなかったのかな?この科学分析による新発見は非常に大きい。長篠古戦場から発見された鉄炮玉(鉛)のなかに、古戦場近くの睦合鉱山より採掘された鉛と、同位体比が同じものがあることが立証された。これは大発見。tonichi.net/news/index.php… 2021-03-28 23:26:06 K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN この睦合鉱山は山家三方衆菅沼氏の支配領域に存在し、井代菅沼氏の拠点井代城のすぐ側に位置

    「長篠の戦い」古戦場から新発見~鉄砲玉の鉛の「同位体比」で分かったことは?(平山優)
  • 【戦国こぼれ話】戦国時代にもいた外国人助っ人!? イタリア人武将・山科勝成は実在したのか!?(渡邊大門) - エキスパート - Yahoo!ニュース

    甲冑を身にまとった外国人。戦国時代に外国人武将は実在したのか?(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート) ■助っ人の重要性 プロスポーツでは、もはや欠かすことができない外国人助っ人。それどころかワールドワイドな社会になったので、企業でも外国人の採用者が増えている。 実は、戦国時代にも山科勝成というイタリア人武将が存在したというが、それは事実なのだろうか? ■謎の外国人武将・山科勝成 戦国時代の日に渡来した外国人武将としては、イタリア人の山科勝成なる人物が知られている。その生涯は神秘のベールに包まれており、存在を疑問視する研究者もいるが、真相はいかなるものなのだろうか。 天正5年(1577)、ロルテスというローマ人が蒲生氏郷のもとを訪ね、仕官を求めてきた。携えた紹介状によると、ロルテスは軍人であり、天文・地理や兵法に優れているばかりか、張良や孔明(古代中国の軍師)を凌

    【戦国こぼれ話】戦国時代にもいた外国人助っ人!? イタリア人武将・山科勝成は実在したのか!?(渡邊大門) - エキスパート - Yahoo!ニュース
    nagaichi
    nagaichi 2020/12/02
    だいたい鉄砲だったら、ローマに行かなくても買えたろ。
  • 【科学が立証】豊臣秀吉「本能寺の変を事前に知っていた」説は正しかった(藤田 達生) @gendai_biz

    行軍する兵士たちの消費エネルギーから排泄物の量まで計算して「中国大返し」の難易度を検証した『日史サイエンス』が、日史ファンの間で話題を呼んでいる。「科学的」に導かれたのは、「中国大返しを実現させた豊臣秀吉は、能寺の変が起こると事前に知っていた」という意外な結論だった。はたして、秀吉は明智光秀の裏切りを察知していたのだろうか? 「能寺の変」研究のトップランナーである三重大学の藤田達生教授が、この結論を徹底検証した。 実際の行程を推定してみる 能寺の変のあと、秀吉が光秀を倒して信長の後継者として認知され、天下の趨勢を決したのが「中国大返し」だった。それは、秀吉が中国地方の毛利氏攻略のため布陣していた備中高松城(岡山県岡山市)から、光秀との決戦の場となった山崎(京都府大山崎町)までの常識を超えた高速の行軍だったとされている。

    【科学が立証】豊臣秀吉「本能寺の変を事前に知っていた」説は正しかった(藤田 達生) @gendai_biz
    nagaichi
    nagaichi 2020/10/26
    支持できない。「兵士の食料を手配」の話をするなら、もともと毛利攻めしようとしてたんですから……;
  • 「義の武将」めっきはがれた?上杉謙信、寺社を焼き打ち:朝日新聞デジタル

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    「義の武将」めっきはがれた?上杉謙信、寺社を焼き打ち:朝日新聞デジタル
  • 「上杉謙信は女性」という設定が拡散し続ける理由 謙信越山:第28回「人間・上杉謙信③」 | JBpress (ジェイビープレス)

    講演後に全校生徒からの質疑に応答する時間があった。質問の挙手が重ねられ、応答を繰り返すうち、親しみやすいと思ってくれたらしく、お堅い先生には聞きにくい「生涯独身だった謙信は、実は女性だったという説がありますが、先生はどうお考えですか?」という質問を頂戴した。 なんの準備もしていなかったが、ふだん自分が考えていることを応答させてもらった。そのときの内容をここでも披露しようと思う。 たぶん学生だけでなく、普通の社会人のなかにも「あの説はどこまで根拠があるのだろう?」と思っている方が多くいると思うからだ。 女性説を唱えた八切止夫 謙信は女性だったと唱えたのは、八切止夫という作家である。その発表媒体は、小説作品『上杉謙信は女人だった』であった。八切はいくつもの史料と伝承を引きながら描いていたので、当かもしれないと思う人もいたようだ。八切が天才だったのは、司馬遼太郎のように「あれで描いた社会風景は

    「上杉謙信は女性」という設定が拡散し続ける理由 謙信越山:第28回「人間・上杉謙信③」 | JBpress (ジェイビープレス)