前回から3か月もかかってしまってすみません。 あらすじ代わりに前回の最終ページから。 ## 第一話と前回・次回へのリンク * 第一話 「実学党くずれ」 https://mitimasu.fanbox.cc/posts/3977096 * 前回(第十一話) 「目標」 https://mitimasu.fanbox.cc/posts/7527600 * 次回(第十三話) 「国入り(仮)」 今回は...
### 土用の丑にウナギ by 平賀源内はガセ 『土用の丑にウナギを食べる風習は平賀源内のセールス・アイデアによる』という雑学はガセです。 そんなことを言った/そんなことがあった……と断定しうる証拠は発見されておりません。 平賀源内ではなく太田南畝であったという説もありますが、証拠がないのは同じです。 > 平...
結論まとめは以下の通りになります。 * 一橋治済が自分もしくは自分の子を将軍につけるために陰謀を行ったという説は**渋沢栄一『楽翁公伝』の推理にすぎない** * 『楽翁公伝』は証拠を示していない。推理であるとことわっている * 単なる推理を史実であるかのように扱ってきた後世の歴史家たちに問題がある ...
このエントリは筆者のpixivFanboxからの転載です。 https://mitimasu.fanbox.cc/posts/5514334 過去、"「定信は自領白河の百姓十三歳以上に読み書きを禁止した」と書かれているがそのような政策を行った事実はない。それどころか寛政11年には庶民教育の学校まで建てている。" について調べてきました。 三回目の調査で、"これ以上はソースのソースも出てこないと思うので、この調査もここで完結" と書きましたが、乗りかかった船ですし、自分の記憶のあいまいなところを再確認して安心を得ようと、もう一度、国会図書館で調べてみました。 すると……ええ、結論から申しましょう。 「松平定信は寛政十一年(1799)に平民教育のための学校を建てた。これはまぎれもない事実だが、一方で、天明三年(1783)には郡代を通じて「小百姓杯は十三歳以上之者に手習物読いたさせまじき」と訓戒
このエントリは通説に異を唱え、筆者のオレオレ説を述べる独自研究です。 なぜ、「ぶぶ漬けどうどす?」が「そろそろお帰りください」の意味なのか。 いくつか説がありますが、筆者はいずれの説明にも納得がいかず釈然としていませんでした。 昨日たまたま読んだ本で根拠になりそうな記述を発見し、蓋然性の高い説を構築できたので発表しよう……と、まあ、そういうエントリです。 - - - - 京都で 「ぶぶ漬け(お茶漬け)でもどうどす?」 と言われたら、それは暗に 「そろそろお帰りください」 の意味であるというのは、近年とみに知られるようになった雑学でしょう。京都伝説などとイジッた紹介のされ方も見られます。 現代の京都っ子は、生まれてからずっと、そんな皮肉を使ったことはおろか、実際に使われてるのを聞いたことすらないという話ですが。 さてところで、雑学好きなら当然に語源好きですよね。 私はあるとき、なぜ「ぶぶ漬け
このエントリは通説に異を唱え、筆者のオレオレ説を述べる独自研究です。 なぜ、「ぶぶ漬けどうどす?」が「そろそろお帰りください」の意味なのか。 いくつか説がありますが、筆者はいずれの説明にも納得がいかず釈然としていませんでした。 昨日たまたま読んだ本で根拠になりそうな記述を発見し、蓋然性の高い説を構築...
[研究] 『近世大名は城下を迷路化なんてしなかった』を書きました。 2020/4/3 2023/6/2 お知らせ, 自著物解説 ここ2年間くらい没頭していた個人研究を電子書籍にしました。いまのところ反論は来ていません(2020-04-03 時点) 概要 書名の通りです。よく城下町の食い違い十字路が、敵を簡単に近づけさせないための工夫であると説明されます。 しかし、これは調べてみたら、泰平の時代になった江戸中期の誤解や創作の疑いが濃厚な巷説が、大正時代に城郭研究者のお墨付きになり、定着したものでした。 実際には城下町の街路は城下町ではない町の街路と大差なく、むしろ城下町ではない町よりも碁盤目に近づこうとしていました。 本書はその証拠をこまごまあげつらい、しまいには世界の方格設計の成り立ちについてさえ、従来の定説を覆す発見を述べたものです。 いまのところ反論は来ていません(2020-04-03
[古民家・古商家] 城館と思うのは早計かもしれない 一之江名主屋敷(東京都江戸川区) 2016/9/27 2023/6/23 東京 城クラスタが多く訪れる古民家 一之江名主屋敷(江戸川区) 訪問日:2016-05-21 タイトルで、すべての城クラスタと江戸川区民を敵に回した(大げさ)。 一之江名主屋敷は、この地を開墾し、代々名主を務めた田島家の屋敷だ。 田島家の祖は豊臣家の家臣であった堀田図書と伝わる。屋敷跡地には土塁と濠の遺構が残っている。したがって中世城館の様式の屋敷跡として訪問する城クラスタは多い。 土塁も濠も残っているということは、つまり、移築ではなく屋敷や門も含めて、位置関係まで当時のままで残っているということだ。都指定文化財ではなく、都史跡なのも、そうした理由によるものだろう。 >史跡 一之江名主屋敷 江戸川区公式ホームページ https://www.city.edogawa.
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