タグ

書評に関するkiringoのブックマーク (5)

  • COLUMNs: 伊藤計劃『ハーモニー』と『ダークナイト』と『風の谷のナウシカ』

    2010年8月26日木曜日 伊藤計劃『ハーモニー』と『ダークナイト』と『風の谷のナウシカ』 伊藤計劃さん(1974-2009)のSF小説『虐殺器官』(2007)がハヤカワ文庫で出ているのを知り、ちょうど気になっていた折でもあるので、続編の『ハーモニー』(2008)と併せて読んでみました。  ものすごく面白かったですね。特に後者を通じて強く思うことがあるので、今回書いてみることにしました。 ★『虐殺器官』と意識のモジュール化  話の順序として、『ハーモニー』の前編である『虐殺器官』について簡単に。    『虐殺器官』は9.11以後、各国が国民への監視をあらゆるテクノロジーを動員して強化している世界が舞台です。  米軍の特殊工作員である主人公が、世界各地の紛争地域で虐殺をプロモートしている謎の男を追い求めて西へ東へ出張する…というサスペンスがストーリーの主軸になっています。 ただ、この小説の大

  • 谷崎潤一郎 ─ 引用と再構築 - 空中キャンプ

    谷崎潤一郎というひとは、わりあいにコンサバティブなところがあって、彼が昭和八年に発表した「陰翳礼讃」というエッセイを読むと、瓦斯燈や電気ストーブ、電話や浴槽のタイルなどの最新設備と、旧来の日家屋との調和が取れないと嘆いていたりする。谷崎は洋風の設備や電気器具の趣のなさを「二重生活の矛盾」と憎んでいて、できれば住む家は純和風にしたいのだが、障子だけではさすがに暖房の効率がわるいからガラスを入れる他ない、だから障子の後ろにガラスを二重に取りつけるなどの工夫をしたが、外から見ればやはりただのガラス窓だし、内側からも、紙障子を通じて光がやわらかく入ってくる、その繊細な雰囲気がだせず、ガラス越しのやけにくっきりした光になってしまい、手間のわりにはたいへんな失敗だった、というようなことを述懐している。 「陰翳礼讃」は日文化論であり、同書*1におさめられた他のエッセイにおいても、彼のルーツとなる古典

  • 大屋雄裕「自由とは何か」 - loisir-space’s blog

    自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書) 作者: 大屋雄裕出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2007/09メディア: 新書購入: 11人 クリック: 199回この商品を含むブログ (91件) を見る 「自由」を考えるということがいかに難しいことかがよく分かる、目から鱗が落ちるようなです。 例えば、自由を制約すると想定されてきた「国家」を制約すれば我々は自由になれるのか?「リバタリアニズム」は正にこうした発想から、司法・治安維持・国防というサービスのみを提供する「超最小国家」を想定するわけですが、こうした「超最小国家」が自由をもたらすかといえば、決してそうではありません。国家権力が弱ければ、ギルドのような「共同体」が力を持ってくるわけですが、こうした「共同体」内部では自由ですが、それは外部を排除することによって成立しているからです。むしろ、共同体を国家が抑圧することによっ

    大屋雄裕「自由とは何か」 - loisir-space’s blog
  • [小説]「ぼくと魔女式アポカリプス」に見るゼロ年代の想像力 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE) - 2007-08-31

    1日で1kgやせるほどに外回り。死ぬぜ。水分補給してたのになあ。でも帰ってきてから水分補給しまくっているので、すぐに元の体重に戻る。アルェー? 帰りがけに図書館に滑り込みセーフして、山のようにを借りてくる。しかし積読多いのになにやってんだか。 「ぼくと魔女式アポカリプス」においては、セカイ系と決断主義の想像力が色濃く見える。 あらすじはこうだ。主人公はヒロインとの出会いをきっかけにして、ある種族の再生と、他の種族の滅亡をかけたデスゲームの参加者――代替魔術師にされてしまう。代替魔術師は、すでに死亡した存在であり、それぞれの種族の持つエネルギー源によって「生かされている」存在である以上、基的にそれぞれの種族の基目的――他の種族を滅ぼし、それが持つエネルギー源を奪取することで、種族の再生を行う――に従わなければならない、という設定がある。 このように「きみとぼく」の出会いが「それぞれの世

    [小説]「ぼくと魔女式アポカリプス」に見るゼロ年代の想像力 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE) - 2007-08-31
    kiringo
    kiringo 2007/08/31
    読みたくなった。すごくまとまった評。でもセカイ系とかシャカイ派とか決断主義とか明確な定義もなくてそれぞれが好き勝手に使っている気がする。なんとなく雰囲気はわかるけど。
  • 『虐殺器官』伊藤計劃: Lエルトセヴン7 第2ステージ

    円城塔の『Self-Reference ENGINE』には、自分にSF読みの資質が備わっていないことを痛感させられるばかりであったのに、同じく第7回小松左京賞最終候補になりながらも受賞を逃した経緯を持つ、伊藤計劃(けいかく)の『虐殺器官』に関しては、やたらエキサイトしたわけだが、いや、それは何も、どちらのほうが優れているということではなくて、(作品の、そして、こちらの)趣味や指向性に還元される問題に他ならないのだけれども、じつは読み比べつつ、両者における違いとは、結局のところ、村上春樹と村上龍の差異のようなものなのだろうな、と思ったのだった。いや、べつに、両村上のどちらかの影響下にそれぞれの作家がある、ということでは、ない。この点をどう説明したらいいか、考えていたとき、あ、とヒントになったのは、つい最近になって講談社から新創刊された文芸誌『FICTION ZERO』に収められている、東浩紀

  • 1