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世界禁煙デー
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光文社ペーパーバックスは、独特の表記で編集されています。それは、日本語のなかに外国語を取り入れた「4重表記」とも言うべきもので、きわめて実験的な試みですが、グローバル化時代にふさわしい表記法と考えています。 ただ、この表記に関しては、「読みにくい」「日本語の破壊ではないのか」「日本語のあとに英語を入れているだけではムダではないのか」と、こ れまで多くの指摘、批判が寄せられてきました。そこで、なぜ、こういう表記になったのか、以下、わかりやすく説明させていただきます。
津田信は、1974年5月から7月の3ヶ月間、28年ぶりに帰還した元日本兵小野田寛郎と共同生活をし、その手記「戦った、生きた」を『週刊現代』に連載しました。これは、のちに『わがルパング島の三十年戦争』と改題されて、講談社から出版されました。 しかし、この手記は、真実を歪めて書いたもので、その罪の意識から、津田信は、3年後の1977年6月に、手記代筆の真相を暴露した書下ろしノンフィクション『幻想の英雄-小野田少尉との三ヵ月』を図書出版社から刊行しました。 *全文公開は、2014年8月いっぱいで停止しました。 *なお、本書は電子書籍化(有料)しましたので、そちらで 読んでいただけるとありがたいです。 小野田少佐との三ヵ月「幻想の英雄」 津田信 (2014/8/4) - Kindle本
幻想の英雄 【奥付】 ・著者:津田 信 ・発行:1977年7月15日 初版発行 ・発行所:図書出版社 【目次】 一 帰国 昭和四十九年三月十二目 熱狂的な“小野田ブーム”二 「小野田手記」 手記代筆を引き受ける 寛郎の兄弟 投降勧告に応えない三人 一億円かけた捜索に失敗 鈴木青年との接触 三 伊東での共同生活 「ああ、ルバング島」の歌に涙 “第二の隠れ家”まで用意 「ドンコーはドンコーだ」 ルバング島行きを喜ばぬ兄弟 持ちこまれたぼう大な荷物 全国の女性からプロポーズ 心のひだ 横井庄一との対談を拒否 ルバング島で新聞研究 ヒッピースタイルで街を散歩 「オレは親に棄てられた子」 兄から受けた強い影響 シャッターチャンスを半日待つ 小銃のかわりになったカメラ 父親の「詫び状」 四 三十年戦争への疑問 命令を受けた場所は? “ニセ新聞”は敵の謀略 “大東亜共栄圏”確立へ “新国軍”と“共栄連邦
【四 三十年戦争への疑問】 命令を受けた場所は? 小野田寛郎は本当に敗戦を知らなかったのか、なぜ肉親の呼びかけにも応じなかったのか――「手記」の焦点はそこにあり、私が代筆を引き受けた理由もそれを知りたかったからだ、とは前にも述べた。 しかし、小野田手記を読んだほとんどの人が、肝腎かなめのこの点について結局は納得がいかなかったのではないか、と思う。なぜなら、代筆者の私自身が納得のいかぬまま、適当にごま化してしまったからである。 むろん私は、彼の話で腑に落ちないところは何度も問い返した。自分でもしつっこいと思うほど念を押した。 だが、敗戦認識についてはいくら訊いても彼の説明は矛盾だらけで、むしろ、聞けば聞くほど疑惑が生じた。 正直、私は頭をかかえた。彼に代わって手記を書く私がそもそも納得できないのだから、そのまま書けば読者はますますわけがわからなくなってしまう。このときほど私は、代筆を引
小塚一等兵との対決 日本に帰ったら私はすぐ伊東別邸に戻って、手記を書き継ぐつもりだった。ところが羽田に迎えにきた副編集長が、「小野田さんはあれきり伊東に戻らず、赤坂のホテルに泊まっています」と告げ、「あすから、あなたもホテルで仕事をして下さい。必要な速記録は伊東から取り寄せます」とつけ加えた。 小野田寛郎は東京に滞在して、あちこちの義理のある会合に顔を出しているらしかった。 翌朝、Y君が鎌倉の自宅に電話をかけてきた。 「駿河台のホテルに部屋をとりましたから、そちらで書いて下さい」 なぜ小野田寛郎と同じホテルにしないのか不思議に思ったが、私も彼にすぐは会いたくなかったので、何も言わずに承知した。彼に会えばルバング島の感想がいやでも口を衝く。そうすれば彼の感情を刺戟するのは目に見えていた。 午後遅くホテルの部屋に速記録の一部を届けにきた副編集長が遠慮がちに言った。 「好評なので、あと二
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