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俺は形而上学的に世界であり、普通に息子っていう話
俺=世界。 俺は世界そのもの、というのはラリパッパな妄言のはずだけど、形而上学という考え方をかます... 俺=世界。 俺は世界そのもの、というのはラリパッパな妄言のはずだけど、形而上学という考え方をかますと許されるんだから不思議なことだ。 例えば雷鳴。 雷が鳴る音を聴くとき、自然科学としては、雷鳴という「客体」があって、それを俺という「主体」が感じる、という構図になるはずだ。 しかし、と考えてみる。 もしも雷が鳴っているその場所に誰もいなかったら、果たして雷鳴がそこに「ある」と本当に言えるだろうか? 雷が鳴り、それを俺が聴いている、という関係の一方で、俺という存在こそが雷鳴を生じさせていると言えないだろうか? さらに、もう一段飛躍する。もし、俺こそが雷鳴の原因となるなら、雷鳴と俺を分ける必要は、実はないんじゃないか? 「俺」が「雷鳴」を聴いている、のではない。 主語はない。主客の区別もない。 ただ「雷が鳴っている」。このとき、俺は俺であるとともに雷鳴そのものだ。 あるいは独我論。もしくは哲学的
2021/04/24 リンク